第3話 弁天おねえさん
五月の連休が終わって、暖かいというよりは、早くも三十度を超えるような陽気になってきていた。
あれから一回だけ、翔弥さんからスマホにメッセージが届いていた。
秀太君の動画を転送してくれたのだ。
休日にお出かけしたのか、秀太君が海辺でお父さんの手に貝殻をのせて『たっちぃ』と叫んでいる。
『ほんとだ、ふたっつだね』と撮影しているお母さんの声も入っている。
みんな楽しそうで何よりだ。
少しはお役に立てたみたいでうれしい。
私はまた学校帰りに道祖神さんのところへ行ってみた。
もちろん、ショッピングモールで樋ノ口屋の栗饅頭を買ってきてある。
春先につくし取りの子供がいた用水路の土手は背の高い草が生い茂っていて、だいぶ様子が変わっていた。
あれから二ヶ月くらいか。
ずいぶん季節は変わるものだ。
いつもの岩と小さな石碑のまわりも少し雑草が茂っていた。
どれ、私が草取りでもしてあげましょうかね。
尖った長い葉っぱの草は根が浅くてすぐに抜けるけど、根が深い雑草もあって、けっこう手が痛くなって汗が出てきてしまう。
それでもあっという間に草の山ができた。
ふう、まあ、これくらいでいいか。
あんまりやってもきりがないので、道祖神さんの石碑や岩のまわりくらいでやめておいた。
鞄からウェットティッシュを取り出して手を拭く。
ひんやりして気持ちがいい。
ついでにおでこも拭いちゃおう。
それにしても、道祖神さんがいない。
今日は姿を見せてくれないのかな。
岩の上に腰掛けてステンレス水筒のお茶を飲む。
ああ、染みこむわあ。
適度に仕事をして汗をかいた後のお茶は最高だ。
葉桜の薄い木陰も心地よい。
道祖神さん、樋ノ口屋の栗饅頭もおいしいお茶もありますよ。
心の中で話しかけても、なぜか姿を見せてくれない。
せっかく翔弥さんと秀太君のことを教えてあげようと思ったのにな。
でも、今日は会えないみたいだからしょうがない帰ろうか。
そう思ったとき、横から声をかけられた。
「ねえ、モリオちゃん、見なかった?」
は?
モリオちゃん?
目を向けたときの第一印象は巨乳だった。
ボーダーのカットソーがはじけそう。
もう、それ以外目がいかない。
思わず心の中で、少し分けてよと叫んでしまった。
若くて美人な女の人だ。
まつげが長くてアイラインがくっきりしていて、カラコンでも入れているのか黒目が大きい。
胸だけでなく、丸々としたデニムのヒップラインも、なんていうかスゴイ。
「ねえ、道端守夫よ。あんた知り合いなんでしょ」
「ああ、えっと、今日はまだ見てないですけど」
ん?
ていうか、なんで道端守夫って名前を知ってるの?
あれは、私が翔弥さんに口から出任せで言っちゃった名前なんだけど。
道祖神さんの知り合い?
「あんたが付けた名前なんでしょ」
「はい」
思わず返事をしてしまった。
「どうしてそんなことまで知ってるんですか?」
座っている私に前屈みに顔を突き出してきた。
なんですか、谷間を見せつけてるんですか。
くやしいけど、はさまれたい。
ちょっとお化粧というか香水のような匂いがする。
なんか、男の人が好きそうな香りだ。
これってフェロモンってやつ?
「何でもお見通しよ。女の勘は鋭いでしょ」
と、急にニヤリと唇の隅に笑みを浮かべて、私のことをなめ回すように見始めた。
「あいつも、こんな小娘とデレデレしちゃってさ。なんだろうね。ミチバタモリオなんて、名前までつけられちゃってさ。お互いセンスも悪くてお似合いかしら」
なんか、口が悪い人だ。
私も他人のことを言えないか。
それにしても、どうしてこの人は道祖神さんを知っているんだろう。
神様を知っているのはなんでだろう。
「あの、どうして道祖神さんを知ってるんですか?」
「あたしも神だから」
ふうん、そうなんですか。
と、妙に納得してしまった自分が恥ずかしくなった。
いやいや、普通はそんな話、素直に受け入れられないって。
でも、まあ、道祖神さんと知り合ってからは、なんとなく、他の神様がいても不思議じゃないような気がしていた。
「道祖神さんのお友達なんですね」
「あんたなんかよりも、ずっと前からのなじみなのよ」
「二百年前からですか」
「あたしは千年だけどね」
さらっと言ってるけど、お二人とも意外と由緒正しいんですね。
「平安時代ぐらいですか?」
「そうよ。菅原孝標女って知ってる? 『更級日記』って本の作者」
「あ、今、学校でちょうど習ってます」
「あたしね、あの子知ってる」
「え、そうなんですか!」
と、驚いちゃったけど、なんか古典の作者って有名人だとしても、古すぎていまいちすごさが実感できない。
「あの子ね、よくあたしんところにお参りに来ててね、『都に行ってみたい、いろんな本が読んでみたい』ってわがままばっかり言っててさ」
「ああ、なんかそんな出だしの日記ですね」
「だから、願いをかなえてあげたのよ。有名になれるから日記を書きなさいよって励ましてあげたし」
「千年も作品が残ってるってすごいですよね」
「でもさあ、おかげで、今の高校生から文句ばっかり言われちゃってるじゃん。『誰だか知らないけど、なんとかってオバサンがつまんねえ日記書くから、うちらが読まされて赤点取っちゃうんじゃん』とかって。なんか気の毒でさ」
あ、すいません、それ、私かも。
反省します。
「今の高校生だって、SNSとかでつまんないつぶやきとかさ、写真盛っちゃってるでしょ。やってること変わんないくせに、文句ばっかりだよね」
うわ、マジですいません。
そんな反省した私の心を見透かしたのか、おねえさんが少し目尻を下げて優しい表情になった。
「あたしね、弁天。向こうの大通りにある神社の神様」
「あ、どうも。鶴咲美森と言います」
女の人が、ふっと笑った。
「すんなり受け入れるんだね」
「おねえさんが神様ってことですか」
「そうよ。ふつうは驚いたり、ほっぺつねったりするものよ」
ですよね。
自分でもこの適応力に驚いてます。
私は弁天様に聞いてみた。
「弁天様って銭洗いの御利益があるんですよね」
すると返事は思いがけないものだった。
「何それ?」
「え、神社の湧き水でお金を洗うと倍になって返ってくるって言うじゃないですか」
弁天様が笑い出す。
「あんた、ダメ男にお金を貢ぐダメダメ女になりそうね」
はあ?
「あのね、そんなの詐欺師の常套句じゃないの。『俺に預ければ二倍にして返しますから』って、一番信じちゃダメなやつじゃない」
うん、まあ、そうだけどね。
「でも、そういうパワースポットってありますよね」
「よそはよそ、うちはうち」
オカンだ。
弁天様が私の肩に手を置いた。
なんだかあたたかい。
草取りの疲労がほぐれていく。
「あんた、素直だから、悪い男に引っかかっちゃダメよ」
と、そのまま肩から私の頬に手を回して、両手で包み込むようにして私の目をじっと見つめる。
「で、あんた、モリオちゃん、どこにいるの?」
蛇ににらまれたみたいだ。
「私も会いに来たんですけど、いないみたいですね」
「あいつ、あたしの気配を察知するとすぐ逃げるのよね。スマホで連絡したら返事もしないし。既読はつくんだけどさ」
「え、スマホ持ってるんですか」
「当たり前でしょ、神様だもん。あんな便利な物ないじゃない」
当たり前、なの?
弁天おねえさんがため息をつきながら私から離れて『道祖神』の石碑をつま先で蹴った。
あ、いけないんだ。
「いいのよ、あいつ、生意気だから」
「お行儀悪いですよ」
「あいつもお行儀悪いでしょ」
ま、そうか。
ヤカラ系だし。
弁天様がニヤニヤしながら言った。
「あいつ、昔だいぶヤンチャしてたのよ」
「神様がヤンチャって、どういうことですか」
「道行く女の人に悪さするのよ。『よう、ねえちゃん、ちょっと遊んで行きなよ』ってお尻触るの」
あ、今も似たような事してそう。
「で、そこに若い男が通りかかって、娘さんを助けてやって、縁結びってね」
あれ、ほっこりいい話?
「べつに親切でやってやってるわけじゃないのよ。あいつが根っからスケベなだけ」
結果オーライってやつ?
弁天様が私の前で腰に手を当てて胸を張る。
やっぱりすごい眺めだ。
「ほんと、しょうがないねえ。あたしが来ると、いつも隠れちゃうんだからさ。いたら、あたしが来たって伝えておいてね」
大きな目でギロリとあたりを見回すと、ポワンと消えてしまった。
やっぱり神様なんだな。
やたらとしゃべる神様がいなくなって、静かになった。
ツツピ、ツツピと緑色の小鳥が鳴きながら葉桜の枝を飛び交っている。
遠くの方でトラックのエンジンがうなる音が聞こえてくる。
ひらひらとモンシロチョウが通り過ぎていく。
のどかだなあ。
私は鞄から樋ノ口屋さんの紙袋を取り出した。
栗饅頭ですよ。
一人で食べちゃいますよ。
いいんですか?
ふたっちとも食べちゃいますよ。
たっちぃ、ふたっちぃ。
言ってると楽しくなる。
秀太君、今度会うことがあったら、どんな言葉をしゃべるようになってるかな。
そんなことを考えていたら、ふいに微風が吹いた。
「わしの弱みにつけこみおって」
やっぱり出てきた。弁天様の言っていた通り、どこかに隠れてたんだ。
道祖神さんが私の目の前に姿を現した。
今日はお爺さん姿だ。やっぱりヤカラ系よりこっちの方がしっくり来る。
「こんにちは。いつものお供え物、お持ちしましたよ。栗饅頭には目がないですもんね」
「お茶もあるか」
「はい、どうぞ」
私は道祖神さんに岩の椅子をゆずって、ステンレスボトルのお茶を注いで渡した。
「ああ、うまいな。おまえさんのお茶はいつもうまい」
どういたしまして。
私はさっそく、さっきの弁天様のことを話した。
「弁天様っていう人が、あ、人じゃないか、神様が来ましたよ」
「あの、チチデカ女だろ」
顔をしかめながら耳をほじっている。
嫌いなのかな。
「お知り合いなんですね」
「まあな、このあたりの神様連中はみな長いつきあいだからな。弁天は大通り沿いにある神社の神だ」
「この前、いそがしいって愚痴を言ってたっていう神様ですか」
「ああ、そうじゃ。ほれ、そこのでかいショッピングモールができてから、表通りに人が増えて大変だそうだ」
ショッピングモール南側の住宅街に小さな神社がある。
鎮守の森に覆われていて昼でも暗い感じで、子供の頃はちょっとこわかったのを覚えている。
すぐとなりにお花見ができるような大きな公園があって、そちらではいつも遊んでいたけど、あんまり神社の境内に入った記憶がない。
初詣も、少し離れた街の大きな神社に家族で行ってしまっていた。
でも、千年前からあるとは知らなかったな。
石造りの鳥居と赤く塗られた祠があるだけで、ふだんから神主さんみたいな人がいるわけでもなく、ひっそりとした神社だった。
だから、そんなに古くからあるとは思っていなかった。
ショッピングモール開業に合わせてできた大通りは、ちょうどうまいぐあいに神社の目の前を横切っている。
おそらく、鎮守の森を伐採しなくてもすむように区画されたんだろう。
たたりとか縁起とか、交通安全とか、けっこう気にする人がいるんだろうな。
そんなことを考えていたら、道祖神さんが手を出した。
ああ、そういえば栗饅頭でしたね。
「どうぞ」
「すまんな」
道祖神さんはおいしそうに一口で頬張ってもぐもぐしている。
わざとなのか、相変わらずお行儀が悪い。
私はもう一杯お茶を用意しておいた。
ほら、また喉に詰まらせてる。
「どうぞ」
差し出したカップを片手で受け取ってズルズルとお茶をすすると、道祖神さんはほうっと息を吐いた。
さわさわと葉桜が揺れて風が吹き抜けていく。
「ショッピングモールが出来る前は、向こうの神社とこちらで向かい合っておったからのう。しょっちゅう、ちょっかい出されて迷惑しておったのじゃ。ちょうど間にあんな巨大な建物が出来たもので、顔を合わせなくて済むようになってせいせいしておったんじゃよ」
へえ、そうなのか。
でも、本当かな。
「道祖神さんは、巨乳のお姉さんのこと好きそうですけどね」
「おまえさんも、見る目がないな。あれは加工品じゃ」
加工品?
「あいつ、ペッタンコだぞ」
マジで?
「整形というか、豊胸ってやつですか」
「まあ、神だからな。自分の姿なんて、好きなように変えられる」
あ、まあ、そうか。
「おまえも、わしんとこに来ておらんで、あいつにお願いした方がいいんじゃないか」
よけいなお世話です。
ていうか、じろじろ見回さないでくださいよ。
「若くてきれいなのも仮の姿ですか?」
「そりゃあそうじゃろ。あいつの方がバアさんだからな。千年以上はあそこに鎮座しておるそうだからな。あいつから見たら、わしなんか駆け出しのガキ扱いだ」
人間の感覚とは違いすぎてよく分からない。
千と二百で、ゼロを一つ減らすと、百歳と二十歳かな。
ああ、社会人になったばかりのひ孫って感じなのか。
『あんな坊やだったあんたもやっと一人前ね』なんて言われていそう。
それは頭が上がらないだろうな。
「いろんな神様とも交流があるんですね」
「あいつはうるさくてな。わしは好かん」
「神様にも相性があるんですね」
「当たり前だ。あっちは御神木で、こっちは岩が依り代だ。木と岩で性質が違う」
へえ、そういうものなのか。
「木は葉っぱがざわざわと音を立てるじゃろ。だからあんなふうにおしゃべりでうるさいんだ。せっかちで嫉妬深いしな」
なるほど。
ていうか、悪口言い過ぎじゃないですか。
「それに比べて岩はどっしりと動かん」
「でも、お尻触りますよね」
「べつにわしの方から触るわけじゃない。依り代の岩に座るから触れてしまうだけじゃ」
「サイテーな言い訳ですね」
道祖神さんはわざとらしく歯の裏についたあんこを爪でこすり取っている。
ちゃんと聞こえてるくせに。
「仲の良い神様はいないんですか?」
「みんなわしのような道端の神など見下しておるからな」
ああ、まあ、立派なおやしろとかはないですもんね。
「おまえだって、ぼろくて古い石ころだと思っておったではないか」
そんなことないですよ。
草取りだってしたし、栗饅頭だってお供えしてますよ。
「それは鶴咲さんのおばあさんがやっていたと聞いたからだろ」
まあ、それもあるか。
私はふと思ったことを聞いてみた。
「おばあちゃんなんですけど、道祖神さんと知り合いだってことは、何か悩み事を相談しに来てたんですか?」
ふいに風が吹き抜けていく。
目にゴミが入ったような気がして一瞬目をつむった。
「あら、モリオちゃん。やっぱりいたじゃない」
目を開けると、そこには弁天おねえさんがいた。
道祖神さんはしかめっ面で背中を向けようとしているけど、弁天様が回り込んで顔をのぞき込もうとする。
ハエでも追い払うように手を振る道祖神さんの両肩をがっちりつかんでにらんでいる。
「なによ、もう、逃げることないじゃないよ」
「べつに逃げてなどおらん」
道祖神さん、顔真っ赤。
なんだろう。
仲がいいんじゃないの、ホントは。
弁天おねえさんが道祖神さんをつかんだまま私の方を向いた。
「さっき名前聞いたときも思ったんだけど、美森ちゃんって、鶴咲さんのお孫さんなのね」
「はい、そうですけど、おばあちゃんのこと、ご存じなんですか」
「まあね。モリオちゃんのところに来てるのをよく見かけてたから」
「あ、そうなんですか」
そういえば、さっき話が途中だったっけ。
道祖神さんがつぶやく。
「おまえのおばあさんが何で悩んでいたかだろ」
あ、そうそう、それです。
「あたしが教えてあげよっか」
弁天おねえさんが道祖神さんを解放して、今度は私に正面から抱きついてきた。
急なことなので、思わず目をつむった。
胸がむにゅっと押しつけられて一瞬天国が見えたような気がした。
まぶたの裏に光が広がる。
見えてきたのは私が小さかったときの記憶だ。
幼稚園くらいのころだ。
おばあちゃんと私はスーパーに買い物に来ていた。
私はお菓子売り場でだだをこねている。
『ねえ、チョコレート買ってよ』
『おうちに栗饅頭があるよ』
『やだ、チョコが食べたいんだもん』
『でも、いつもおいしいって食べてるのだよ』
『やだ。栗饅頭なんて大嫌いだもん。チョコがいいんだもん』
うわあ。
何これ。
思わず私は本当に叫んでしまっていた。
自分の叫び声で現実に引き戻される。
目を開けると道祖神さんがくすくす笑っている。
弁天おねえさんが一歩飛び退いて私の顔をのぞき込んでいる。
「美森ちゃんのわがままが一番の悩みだったってことじゃないかしらね」
うわあ、もう、恥ずかしい。
いや、でも、覚えてます。
確かに、そんなこと言っちゃったこともあったっけ。
うわあ、もう、どうしよう。
私、最悪だわ。
「ホント、すみません。ごめんなさい。いくらでも謝ります。おばあちゃん、ごめんなさい」
私は天国のおばあちゃんに謝った。
「大丈夫よ」
弁天様が優しく微笑んでくれる。
「おばあちゃんは、そんなの気にしてないから」
「本当ですか」
「孫のわがままなんて、おばあちゃんからしたら、かわいらしさのおまけみたいなものよ」
えー、でも、あんなにひどいこと言っちゃったのに?
『栗饅頭なんて大嫌いだもん』
昔の私を叱ってやりたい。
「おばあちゃんだって、美森ちゃんが本気でそんなこと言ってるなんて思ってないから大丈夫」
弁天様の言葉にうなずきながら道祖神さんも笑う。
「そうじゃ。昔は昔、今は今。おばあさんの願いどおり、とても素直で頑張り屋の高校生に成長したわけだからな」
うわあ、イヤミだ。
もう勘弁してください。
素直になりますから。
ちゃんと努力もしますって。
栗饅頭は大好きだし、お供えにも来ますから。
ホント、ごめんなさい。
「ねえ、美森ちゃん」
弁天様が優しく私の頭をなでてくれる。
「美森ちゃんにとってのおばあちゃんは、とても優しいおばあちゃんだったでしょ」
「はい、とても」
それは間違いない。
私はいつもおばあちゃんみたいに穏やかで優しい人になりたいって思っていた。
「美森ちゃんが悪いことをしないのは、おばあちゃんのおかげでしょ」
確かにそうだ。
私の心にはいつもおばあちゃんがいて、おばあちゃんに話せないような悪いこと、ずるいことはしないつもりで生きてきた。
優秀な良い子とは言えないかもしれないけど、少なくとも人をだましたり困らせるような悪い子ではないと思う。
「ね、だから、ちゃんとおばあちゃんのお願い事はかなっていたのよ」
そうか。
そうだったのか。
気がつくと私は泣いていた。
いつの間にか涙が流れていた。
弁天おねえさんがいい匂いのするハンカチで拭いてくれた。
「高校に落ちちゃったりするのは能力の問題だからしかたないけど、真っ当な人間であれば、おばあちゃんは喜んでくれるわよ」
うわあ、痛いところをつかれた。
勉強も頑張りますって。
マジで誓います。
「じゃあ、あたしは行くけど、モリオちゃん、またうちの手伝いよろしくね。本当にいそがしくてやんなっちゃうのよ」
「面倒なことばかり押しつけおって」
「胸もギューって押しつけてあげるから」
ウィンクしながら弁天様がぽわんと消えた。
え?
ギューってしてもらってるの?
さっきの天国みたいなやつ?
「やっぱり相性いいんじゃないですか」
「そういうことじゃない」
道祖神さんは顔を赤くしながら首を振る。
「あいつは、全部それでごまかすんだ。そんなんでチャラになると思っておるんだろうよ」
「ていうか、それでごまかされちゃってる道祖神さんだって、結構うれしがってるんじゃないですか。男のロマンってやつですか?」
図星なのか、わざとらしく咳払いでごまかそうとする。
「で、おまえさん、願い事は何か考えてきたのか?」
話題まで無理矢理変えてるし。
ま、いっか。
私はスマホを取り出した。
「願い事はまだ思いつかないんですけど、翔弥さんから来た動画見ますか?」
動画を再生してスマホを向けると、道祖神さんは興味のなさそうな目で、顔を近づけることもなく小さな画面を見ていた。
「ちゃんと見てます?」
「心配するな。これでも神だからな。なんでもお見通しじゃ」
「都合のいいときだけ神様を持ち出すんだから」
しぶしぶという感じで首を伸ばしてスマホを見ている。
もう一度再生して見せてあげた。
「ほら、かわいいでしょ。『ふたっちぃ』って、この前、『ふたっつだね』って分かったからうれしくてしかたがないんですよ」
「今はかわいくても、将来は分からんぞ。不良かもしれんし、マザコンかもしれん」
「もう、夢がないな」
また日が傾いてきていた。
そろそろ帰らなくちゃ。
そう思った私の心を読みとったのか、道祖神さんが穏やかな笑みを浮かべた。
「今日も栗饅頭ありがとうな」
「どういたしまして。私も栗饅頭は大好きですから」
「今夜はまたおまえの好きなコロッケにしてやろうか」
「それで御利益ポイント使っちゃうんですか?」
「それくらいサービスだとこの前も言っただろう。おばあさんのコロッケは最高のごちそうじゃろ」
ええ、まあ、そうですけど。
私は道祖神さんに手を振って家路についた。
ショッピングモールの壁が淡い夕日を照り返していてまぶしい。
あれ、そういえば……。
コロッケはお母さんの作るごちそうじゃなかったっけ?
『おばあさんのコロッケ』
さっき道祖神さんはそう言っていた。
振り向くともう道祖神さんはいなかった。
また来ればいいか。
ちゃんと栗饅頭を買っていきますから。
今度一緒に食べましょうね。
私は空を見上げた。
なんと言っても、私は栗饅頭が大好きな孫ですから。
ね、おばあちゃん。
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