第7話 変化

 トイレの中は、思ったよりも涼しくなっていた。もっとも、さっきが暑すぎたのだ。

 用を足して戻ってくると、僕の席の前にあった紙コップが、新しいものに変わっていた。心霊現象ではなく、誰かがまた、お茶を汲んで回してくれたらしい。僕が座布団に腰を下ろすと、ちょうど国生が話し終えるところだった。

 遠藤さん、赤池さん、小泉さんと話者が移っていく。

「お子さんが喜ぶので、先生は思い切って、花の中にずぼっと手を入れたんですね。そしたら……」

 ふと小泉さんは話を切ると、左腕を前に引き抜くような動作をした。なんだか、後ろから袖を掴まれたのを振り払ったような動き方だ。

 彼女は目の前のコップを取り上げると、お茶を一口飲んだ。

「すみません。そしたら……」

 続きを話し始める。妙に気がかりな挙動だった。さらにその横で、遠藤さんが後ろを振り向いたのにも気づいた。何か探すように顔を動かし、くっきりした眉をしかめながら前に向き直った。

 何かがおかしい。

 そう思ってみると、他の人たちの動きが気になってくる。国生はたまに、不安そうな視線をふっと斜め上に向ける。そこには何もない、ただ天井の隅があるだけのはずだが……。

 赤池さんは今さっき、左肩から何かを払い落とすような動作をした。

 加藤は時々、誰もいないはずのトイレの方にふっと顔を向けて、不思議そうに眉をしかめている。よく見ると、我妻も時々トイレを気にしているようだ。

 なんだか息苦しいような、胸がざわつくような、不思議な気分になってきた。

 加藤のピンチヒッターを井上が務め(その間も加藤はちらちらとトイレを見ていた)、父の代わりに三浦が話し始めた。次は僕の番だ。

 僕は今、とんでもないことに荷担しているのではないだろうか……ふとそんな思いが胸をかすめる。

 これは井上が言っていた通り、「家にオバケを呼ぶことと同義」なのではないか。すなわち僕らは今、「降霊術」を行っている……。

 はっと物思いから覚めると、皆の視線が僕に集まっていた。いつの間にか三浦の話が終わって、僕の順番がやってきていたのだ。

 暗くなったライトに照らされ、暗がりに浮かび上がった9人の顔が、揃って僕を見つめている。誰もかれも黙りこくって、顔に表情がない。昼間談笑していたのとは別人のようだ。

「す、すみません。俺の番ですね」

 僕は慌てて手元のメモに意識を戻した。自分の番を務めなければならない。もしも途中でこの役目を放棄したら、何か恐ろしいことが起きるような気がする。均衡が破れて、何かがこの部屋の中に雪崩れ込んでくるような……。

 メモには僕の手の汗が、じっとりと染み込んでいた。こうなればもうやるしかない。途中で止めるのが恐ろしいなら、やりきるより他に手がないじゃないか。

 僕は話し始めた。なるべく手元に目線を落とし、皆の顔を見ないようにしながら。

「……これで俺の話はおしまいです」

 ライトをひとつ消す。重苦しいため息が聞こえた。僕のため息だった。

 我妻が、膝の近くに置いたカメラを落ち着きなく触りながら、79話目を語り始めた。続いて三浦。これで80パーセントの明かりが消えた。

 残り20話。井上が真面目な顔をして語り始めた。こいつからも、最初の浮き足立つような表情は失われている。

 綱渡りをしているような時間が流れた。気がつくと、手元がかなり暗くなっている。僕は周りが見えなくなる前にと、コップの中のお茶を飲み干してしまった。

 次は僕の代わりにピンチヒッターが入るが、この間にトイレに行こうとか、お茶を汲もうなどという気にはなれなかった。かえって、僕も何か話を用意しておけばよかった、と思った。何も語らないと居心地が悪いような気がした。

 隣にいる父は、ゆっくりとうなずきながら話を聞いている。聞きながら、なにか別の音に耳を澄ませているような感じで、時おり左右に視線を走らせる。何をしているんだろうと思っていると、

「はあ」

 また後ろから、ため息のような女の声が聞こえた。今度は僕の耳に呼気がかかった。

 父がまた、左右を見回している。そのとき急に僕には、父の考えていることがわかった気がした。

(母さんを探しているんだ)

 この女のため息は、母のものなのだろうか。

 僕は耳を澄ませたが、もう何も聞こえなかった。百物語のルールで、父に話しかけることも禁止されている。父にも女のため息が聞こえたのかどうか、今確かめることはできない。


 5年前、出張先で事故に遭った母は、突然僕たちの前からいなくなってしまった。

 そこから立ち直ったのか立ち直っていないのか、僕たちにはまだよくわからない。

 母の愛用のマグカップは、誰も使わず、かといって捨てられることもないまま、未だにカップボードの片隅にある。洗面所には母のバスタオルが置かれている。スリッパもそのままだ。

「今やってる企画が終わって暇になったら、父さんとこの本のお店を回るの」と母が買ってきた5年前のガイドブックを、父は今も時々開いている。

 もしも母の幽霊がいるなら、自分の痕跡が残るこの家に、そして父の元に惹かれて来てもおかしくはない、と思う。

 今ここで行われていることが、本当に「降霊術」だったなら……。


 とうとう、百物語は最後の1周に入った。

 井上が大きく深呼吸をする。意外なほど短い話をして、彼はライトを叩いた。叩かれたライトはとうとう真っ暗になった。

 国生、遠藤さん……赤池さんの番になったとき、彼女は思い切ったように顔を上げた。

「ほんとは話さないつもりだったんですけど、私の亡くなった友達の話をします」

 そして、小学校のときの体験談を話し始めた。彼女の隣に座る小泉さんは顔を伏せ、静かに眉をひそめてその話を聞いている。赤池さんの出番が終わると彼女も、

「私もこの話、姉の職場の現在進行形の話なので、話したらまずいかなと思ってたんですけど……」

 と言って語り始めた。

 もうライトは普通の常夜灯ほどの明るさしか保っておらず、それも少しずつ暗くなっていく。僕は最後の自分の話をきちんと話せるよう、頭の中で繰り返していた。この明るさではメモを見ることができない。

 加藤、父、そして僕……なんとか僕も、予定していた話を無事語り終えることができた。順番は滞りなく回り、いよいよ最後の百話目が始まろうとしていた。

 三浦がひとつ咳払いをした。


「それでは、僕の話を始めたいと思います」

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