第6話 実話

 加藤が36話目を話し終えてライトを叩いたとき、三浦が手を挙げて皆の注意を引いた。

「途中ですみません。ちょっと寒くなってきたなーって人はいませんか?」

 言われてみれば、僕の両腕には鳥肌が立っている。僕は右手を挙げた。国生に女性ふたり、加藤、我妻も手を挙げた。

「暑い人は?」

 誰も手を挙げなかった。

「ちょっと冷えてきたみたいですね。冷房の温度を2℃上げますが、いいですか?」

 皆は一様にうんうんとうなずいた。三浦はリモコンをエアコンに向けた。

「失礼しました。それでは続きをお願いします」

 百物語が再開された。

 父の話が終わり、4回目の僕の出番も終わって、ほっと溜息をつく。我妻が語りだした。

「これ、実は僕が体験した話なんですが……」

 この回が始まってから、初めての「実体験」だった。我妻は「自分も半分くらいは、今でも夢ではないかと思っている」というような言い方をしながら、それでもちゃんと怪異譚として話し終えた。

 彼の言葉が本当だとするならば、今僕の隣に、怪談の主人公となった人物が実際にいる。

 不思議な気分だった。


 4週目が終わった。いつの間にかかなり暗くなったライトの明かりが、皆の顔を下から照らしている。三浦、井上、国生……いつもの彼らとは違う何かが、そこに座っているような気分になる。

「俺も実はこれ、実家の話なんだけど……」

 遠藤さんが話し始めた。ここに来て2つ目の実体験だ。

 今度は赤池さんと小泉さんが復帰し、自分の番を務めた。それから加藤が、思い切ったように口を開く。

「実は俺、今すごい家賃が安いところに住んでて……」

 おいおい、こいつも自分の話を始めたぞ。女の子とお近づきになるのが目的だったであろう彼が、いつの間にか怪異に魅入られたような顔で自宅の話をしている。ごく短く語ると、彼はライトをひとつ消した。

「実体験持ってる人、結構いるんだね。僕は他人から聞いた話ばかりで恐縮だけど……」

 父が話し出す。僕はこの隙に自分のメモを確認した。この回が終われば、次は井上が僕のピンチヒッターに入ってくれる予定だ。そうなれば、僕にはやらなければならないことがある。

 トイレに行きたいのだ。


「……これで俺の話はおしまいです」

 僕の5回目の出番が終わった。これでしばらく時間に余裕ができる。

 さっそく僕は立ち上がった。さっきトイレのことを思い出してからというもの、地味に尿意を感じていたのだ。

 丸いドアノブを握って、小さな個室に入ると、顔にむわっと熱い空気が押し寄せてきた。八畳間はクーラーが効いているが、扉一枚隔てただけで全然違う。

 幸い、トイレには幅30センチほどの小さな窓が付いている。僕はガラス窓を開け、網戸だけを閉めて風を通すことにした。

 そういえば、いつだったか三浦が「窓のないトイレは幽霊が出やすいらしい」と言っていたことを、僕はふと思い出した。僕が住む東京のアパートは、トイレに窓が付いていないため、ちょっと嫌な気分になったものだ。その説で行けば、ここのトイレは安全ということになる。

 用を足し終えると、今度は物凄く喉が渇いていることに気付いた。僕はトイレを出ると、八畳間の隅のテーブルに向かった。

 手付かずのペットボトルを開け、紙コップにお茶を注ぐ。それからふと思いついて、人数分の紙コップをお盆の上に出し、それにもお茶を注いだ。

 近くにいた井上の肩を叩くと、お盆を指さし、手ぶりでひとつ取って回すように指示した。彼は坊主頭をペコペコ下げながらお盆を受け取った。

 お茶を載せたお盆が回っていくのを見届けた僕は、自分のコップを持って席に戻ろうとした。そのとき、ぽた、という微かな音がした。机の上から水滴が垂れている。さてはうっかりこぼしてしまったか、と確認すると、濡れていたのはまだ未開封のペットボトルの下だった。僕が開けたお茶のペットボトルは濡れていない。

 どういうことだ? 僕は濡れていたペットボトルを見たが、中身が減ったようには見えなかった。わけがわからない。ともかく手近にあった布巾で机と畳をぬぐうと、僕はようやく自分の席に戻った。

 いつの間にか父にまで順番が回っている。父の次は井上のピンチヒッター、そして我妻、三浦で6周目が終わる。

 目の端に、白っぽいものが動くのが見えた。小泉さんが、膝に載せていたカーディガンを羽織ったのだ。エアコンの設定温度を上げたのに、まだ寒いのだろうか。

 そうこうするうちに、7周目が始まった。

「これで俺の話はおしまいです」

「ちょっと遠い親戚から聞いた話なんですが……」

「バイト先の社員さんに聞きました。その人がある日熱を出して……」

 今度は加藤の代わりに、三浦がピンチヒッターに出た。次の次が、2周ぶりの僕の出番だ。

「この話は、うちの会社の若いのの、ご実家の話なんだけど……」

 父が話し始めた。父の話は、同じ会社の人に聞いたものが多いようだ。人が集まる場所が好きな父は、マメに飲み会などに参加しているようだが、そういう場所で怪談を集めてきたのだろうか。

 僕はメモを見た。次の話はネットで拾った話じゃない。僕が中学生のとき、塾の先生から聞いた話だ。慣れた頃に話そうと思って、今までとっておいたのだ。

 その日、補習のためにクラスでひとりだけ居残っていた僕は、ひどい夕立に当たって帰れなくなってしまった。

「しょうがないね。止むまで職員室で待ってる?」

 先生がそう言ったので、僕は先生と一緒に職員室に向かった。

 職員室にも人気はなかった。他の教室で授業をやっている声が、遠く聞こえていた。

 僕はこの、若くてきれいな女性講師とあまり話したことがなかったので、なんとなく居心地が悪かった。そんな様子を察したのだろうか、先生が突然、

「昔、先生がお化けを見た話、してあげようか」

 そう言って話し出したのだ。

 今考えても、あれは不思議な時間だった。夕立に陰る太陽、授業をする男性の遠い声。クーラーの効きすぎた職員室は少し寒かった。僕は彼女の話してくれた、因果関係のわからない、オチらしきものもない話を、半ば夢でも見ているような気持ちで聞いていた。

 あのとき、なぜ先生が怖い話をしてくれたのか、ちゃんとした理由はわからない。ただ、もしも真実が彼女の「見まちがい」や「勘違い」だったとしても、先生自身はその自分の体験を、「何か不可解なものの仕業」だと固く信じているようだった。

 父の話が終わった。僕の番だ。この話が「本物」だということが、皆に伝わるだろうか。

「僕が昔、塾の先生に聞いた話なんですけど……」

 僕は語り始めた。体験者である小学生の頃の先生が、僕の隣でうなずいているような気持ちがした。僕は彼女の身に起こったことを、上手く伝えることができているだろうか。

「……これで俺の話はおしまいです」

 目の前のライトをひとつ叩く。またほんの少し明かりが暗くなったとき、僕の左肩のすぐ後ろから「ふう」と女性のため息のようなものが聞こえた。

 反射的に振り返った。そこには壁と、窓の障子があるだけだった。左隣の我妻が、驚いた顔で僕を見た。

 僕は(何でもない)というつもりで、何度も首を横に振った。我妻は釈然としない顔だったが、小さくうなずき、前に向き直ると自分の話を始めた。

 きっと僕は何かを聞き間違えたのだろう。そうに違いない。ここに女性は赤池さんと小泉さんしかいないし、そのふたりは僕の正面近くにちゃんと座っている。聞き間違いでなければ一体何だというのか。

 我妻と三浦の番が終わり、百物語はとうとう70話を突破した。もうとっくに日付が変わっている。

 僕は思い切って立ち上がった。なんだか、またトイレに行きたくなっていた。

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