第7話「献身の護符」
「くろ、ねこ……?」
口を開き呆けたまま、ルカは思わず言葉を溢す。
それは小さな黒猫だった。
殺伐とした迷宮内において、あまりにも場違いな存在だ。
しかしルカたちをかばうように背を向け、泰然として構える様は、熟達した探索者のようでもあった。
「なんで……」
危険に満ちる迷宮では、まずあり得ることのない存在の乱入に、ルカは硬直していた。
聖騎士の亡霊もまた、突然の闖入者に足を止めている。
『なぁん』
再度、黒猫は鳴き声を上げる。
闇をそのまま固めたような漆黒の毛皮が少しだけ揺れる。
はっと我に返ったルカが黒猫に声を掛けた。
「あ、危ないから逃げないとっ」
そんな言葉も届かないのか、黒猫は身じろぎすらしなかった。
そして、細く、艶のある尻尾が鞭のようにしなる。
黒猫の足元に広がる影が、どくりと波打った。
水面に落とされた石が立てるさざ波のように、影は騎士の足元へと及ぶ。
『にゃぁ』
猫の声に反応し、どろりと影が立ち上がる。
影は泥のように騎士の足へと絡みつく。
声なき声をあげて騎士はもがくが、動くほどにその体は闇に蝕まれる。
「……」
予想を超える展開に、ルカは絶句した。
一見すればただの可愛らしい子猫が、自分たちが窮地に立たされた強大な敵を一方的に嬲っているのだ。
『なぁぁ』
猫が鳴く。
騎士の鎧に絡みついた影が、硬質化し締め上げる。
圧に耐えきれず、バキバキと金属がひしゃげる音が響く。
聖騎士の赤い眼光が、はっきりとした恐怖で満ちる。
ただ単調に、ゆっくりと、騎士の存在がただのガラクタへと変貌する。
その様子を、ルカは夢を見ているような心地で傍観していた。
やがて、影は氷が溶けるように流れ出す。
後に残ったのは、原形を留めない鉄と肉の塊だった。
「ぁ……」
黒猫がゆっくりと振り向く。
影のような黒を見て、ルカは震える足を動かして後方へと下がる。
浅い呼吸のカリュを背中に回し、渇いた喉を鳴らす。
「た、食べるならルカにしなさいよ」
黒猫の、金色の瞳が彼女の視線と交わる。
怯えながらも奥歯を噛みしめきっと睨みつけるグリーンエルフの少女を、黒猫はじっと見つめる。
『なぁん』
影が波立つ。
「ひっ」
先ほどの騎士の姿が脳裏に映り、ルカの体が硬直する。
その瞬間を狙ったように、影はカリュの体へと殺到した。
「だ、だめっ!! やめて!」
慌てふためきルカはカリュに手を伸ばすが、それも別の影に捕らわれ、拘束される。
「いや、やめて……お願いだから……」
必死にもがき、親友へと手を伸ばす彼女をあざ笑うかのように、影がカリュを包む。
バキリ、と。
何かが折れる音が響いた。
「あ……」
ルカの目が見開く。
影が氷解する。
姿を現したのは、瞳を閉じたカリュだった。
「あ、ああ……」
オレンジ色の瞳に濁流のような感情が満たされる。
「あああああああ!!!!!!!!」
絶叫が響き渡る。
もがき、拘束する影を殴りつける。
「よくも、よくもよくもよくもっ!!!!」
眼前に佇む黒猫を射殺さんばかりに睨みつけ、ルカはもがく。
「――ル」
そこへ、声が届いた。
「――ル、カ」
「……え?」
耳に届く、聞き慣れた声色。
信じられないとルカは顔を向ける。
そこにいたのは、僅かに微笑むカリュだ。
『なぁん』
黒猫が鳴く。
「助けて、くれたの……?」
まさか、と恐る恐るルカは問いかける。
黒猫はペロリと前足を舐めると、そっと立ち上がった。
黒い影が黒猫を包む。
「もうしわけありません」
影の中から、女の声がした。
「少々、手荒な手段となってしまいました」
影が溶ける。
その場所には黒猫の姿は無く、メイド服を纏う長身の女が立っていた。
「リツさん……」
驚いた声を上げるのは、カリュである。
ルカは何が何だか分からないといった様子で、リツとカリュの間を交互に視線を行き来させていた。
「詳しいことは、ひとまず地上に戻ってからお話しましょう」
唖然とする二人を一瞥し、リツはすたすたと道を歩く。
顔を見合わせて、カリュとルカも慌ててその背中を追った。
「カリュ、体の傷は大丈夫なの?」
「うん。全部治ってる」
「ええ!?」
カリュがぺたぺたと全身を触って確認する。
貫かれたはずの腹にも穴は無く、蹴られたときの鈍い痛みもなくなっている。
ただ彼女の体を包む鎧の前後に、大きな穴が開いていた。
「あ」
「どうしたの?」
ルカがカリュの顔をのぞき込んだ。
「いや、護符が……」
カリュが首にかけていた護符。
お守りとしてさげていたそれが、粉々に砕け散り、銀鎖のみとなっていた。
ところは変わり、黒猫堂となる。
初めてやってくる見慣れない店にきょろきょろと落ち着きなく視線を移すルカの前に、リツがティーカップを置いた。
「まず初めに、あのような手荒な真似をしてしまったことをお詫びします」
「い、いえ。そんな、助けてもらったのに」
恐縮するカリュに、リツは頭を振る。
「私は一度、カリュさんを殺しました」
「ええっ!?」
驚きの声をあげたのは、クッキーを齧っていたルカである。
「あ、やっぱり」
反対に、カリュは思い当たる節があるらしく、落ち着いた様子でハーブティーを含んだ。
「〈献身の護符〉は小さな負傷には反応しない。だからあえて致命傷を与えることで、ダメージを全て護符へ流した」
「そういうことです」
「護符? 流す??」
納得した様子の親友に、ルカは疑問符をいくつも浮かべる。
そんな彼女に、カリュは今朝繰り広げられたこの店での出来事を話した。
「そっか、魔導具のおかげで……」
ようやく得心がいったのか、ルカもまたふっと脱力した。
「そういえば、ノアちゃんは?」
店に入ったときから見当たらない小さな白い少女の姿を探し、カリュがリツに尋ねる。
「ノアは今、工房に籠もっています。魔導具を作っているのですよ」
「ぜひ、お礼が言いたいんですが」
「ルカも!」
立ち上がる二人に、リツは首を振る。
「もうしわけありません。ノアは一度工房に籠もると、作業が落ち着くまで何があっても出てこないのです」
明日の朝ならノアも店頭に出ているでしょうとリツは言う。
「じゃあ、明日の朝も寄りますね」
「お待ちしております」
薄く微笑んで、リツは頷いた。
椅子に戻り、クッキーを頬張っていたルカがはっと目を見開いた。
「カリュが言ってたいい店ってここのこと?」
「そういえば、そんなことも言ってたね」
色々な事が起こりすぎてすっかり忘れていたカリュがふっと笑いをこぼす。
「では、もう少し持ってきましょう」
仲睦まじい二人の様子を見て、リツは店の奥へ引っ込む。
そうしてほどなくして皿一杯のクッキーの山と、新しいハーブティのポットがテーブルに載せられた。
「ありがとうございます」
「いえ。それではこれは、お二方の第四階層進出記念ということで」
うっと二人の喉が詰まる。
第四階層に足を踏み入れたとはいえ、瀕死になって命からがらのところを助けられた身の上だ。
素直に喜べるものではない。
「もう少し、装備も調えないといけないね」
「うん……」
クッキーを口に放り込み、思案顔になる二人に、リツが提案した。
「それでは、魔導具などいかがでしょうか。予算とおおよその効果を相談の上で、オーダーメイドでの製作も請け負ってますよ」
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