第11話 イザナミ
遠く彼方より降り注ぐ貴方の声を聞いた時、疾うに動きを止めた筈の私の心臓が、トンッと大きく鼓動を打つのを感じたのです。天にも舞い上がる心地とは、こういう事を云うのでしょう。
地に巣くう木の根よりもずっとずっと奥深い底、黄泉の國へと
貴方が私を呼んでいる。
貴方の声が私の名を紡ぐ度に、その音の響きが余す処なく全てが貴い言霊となり、疾うに朽ちた筈の私の胸を打つのです。
返事をしてはいけない。その呼び声に応えてはならない。
私はすでに、
判っていた筈なのに。
貴方の声が、あまりに切なく私の名を呼ぶ。
「私は此処です」
声に引かれるように、私は応えていた。
「お前を迎えに来たよ。共に帰ろう」
貴方はそう云った。
二人の國は、まだ造りかけのままなのだと。
帰ろう。貴方の言葉に、私の頬を生暖かい涙が伝った。
貴方が迎えに来てくれた。こんなに暗く恐ろしい黄泉の國まで、私を迎えに来てくれた。
形を失い始めた私の両の眼から、止めどない程に涙が溢れた。
けれど私は、すでに黄泉の國の食べ物を口にしてしまっていた。黄泉の番人に云われるがままに、小さな木の実を一粒口にした。黄泉の食べ物を口にした者は、もう二度と地上へは戻れない。体はだんだんと朽ち、腐り溶け落ち、木の根の養分となるばかり。やがて何も無くなって、そしてまた別の何かになるのだと。
私は初めて、黄泉の食べ物を口にした事を悔やんだ。
胸が、きりきりと締めつけられるように切なく痛む。
隔てられた岩の向こうから、貴方は幾度も私を、一緒に帰ろうと誘う。その岩と闇に遮られ、貴方に私の姿は見えない。すでに黄泉の國の住人と化した私の姿を眼にしたら、貴方は何と云うかしら?
それでもまだ、共に帰ろうと云ってくれるのでしょうか。
できる事ならば、こんなに醜くなり果てた姿など、貴方に見て欲しくない。まだ綺麗なままの体で、貴方の言葉に頷きたかった。
けれど、貴方の元へ帰りたい……。
本当はどんなにか、この声を待ち侘びていた。
黄泉を司るお方に尋ねてみます。そのお方の許しを得られたならば、貴方と共に帰りましょう。
ただし、私がそのお方にお伺いをかけている間、決してその様子を覗いてはなりません。
貴方は、私の言葉を呑んだ。
私は喜び勇んで、黄泉を司るお方の元を訪ねた。朽ちた肉と共に、体中に湧いた蛆が、ぽとりぽとりと足元に落ちる。
私は地に平伏し、黄泉を司るお方に地上へ戻して欲しいと懇願した。けれど私がどれ程必死に願っても、黄泉を司るお方は首を縦に振ってはくれなかった。
すでに生の世界と別った私が、地上へ戻る事は許されない罪なのだと。それは、神々の理に逆らう程の禁忌なのだと。
それでも、私は諦める事などできなかった。
お願いです。お願いです。私を地上のあの人の元へ帰して下さい。その為ならば、どんな罰も構いません。
どうか、どうか、私をあの人の元へ。
貴方が待っている。いとおしい、貴方が。
黄泉に落ちた私を、それでも変わらず愛してくれた貴方が。
刹那、黄泉の常闇を真っ赤な火が照らし出した。
黄泉の國。
それは、決して光の元に晒してはならぬ世界。
私の姿は、情け容赦のない光に晒し出された。
驚いて振り返った先に、火を手にした貴方が居た。
眼が合った瞬間、貴方の顔は見る見る深い皺を刻み、歪んだ。
かつて幾度となく
ウルワシノ、ナニモノミコトヲ……
柱の陰から言葉を交わし、そして重なり目交った。
貴方は、ほとんど声にならぬ悲鳴を洩らして、踵を返して駆け出した。
待って! 行かないで!
私は貴方を追いかけた。
けれど朽ち始めた足では、上手く貴方に追いつけない。
脇目も振らず、貴方は逃げる。死に者狂いに、私から離れていく。私がどれ程呼び掛けても、貴方はもう決して振り返ってはくれない。
行かないで! 行かないで! もう私を置いて行かないで!
貴方と離れたくない。本当は、離れたくなどなかった。
共に神去るその時まで、ずっと一緒に居たかった。
貴方と只二人、まだ何もない混沌とした地に降りた。一本の長く太い棒を二人で掴み、海を掻き混ぜ二人で國造りを始めた。
いつでも貴方は必ず、私の傍に居てくれた。
貴方さえ居てくれたなら、他の誰も居なくても構わない。
ずっとずっと、そう思っていた。
貴方が黄泉まで、私を迎えに来てくれた。
私は本当に、本当に……心の底から嬉しかった。
貴方を、貴方だけを愛しているから……。
私の体から零れ落ちたヨモツシコメが、貴方の行く先の邪魔をする。貴方は悲鳴を上げて、手足をがむしゃらに振り回した。けれどヨモツシコメたちは幾体にも連なり、しつこく貴方にまとわりつく。私はその隙に、肉が削げ落ち骨ばかりの足で貴方との距離を詰めていく。
もうすぐ、貴方に追い着ける。
置いていかないで! 置いていかないで!
突然、貴方にまとわりついていたヨモツシコメたちが、別の方向へ群がった。
自由になったその隙に、貴方は再び逃げる。後僅かだった貴方との距離が、また開いていく。
行かないで!
私は叫んだ。貴方は聞き入れてくれない。
ゴロゴロと、鈍い音と振動。岩戸が、ゆっくりと閉まっていく。
射し込む光が後僅かのところで私は岩戸に辿り着き、そこから手を差し入れた。
ヒッと、貴方の声がした。
ぽとりぽとりと、私の体から蛆が落ちる。
朽ちていく体。もう黄泉以外の処に存在する事すら許されぬ姿。
私の頬を、涙が伝った。
恐らく、これが最後の涙。
朽ちていく私の体は、もう泣く事すらできなくなるのだろう。
私を黄泉に残して、貴方は行ってしまう。
それは、仕方のない事。仕方のない事……。
けれど、けれど私は……。
「
貴方を、愛しています。殺してしまいたい程、愛しているのです。
止めどない涙が、まだ貴方と共に居た頃の事を思い出させる。
私をこんな処に閉じ込めて、去って行く貴方が憎い。
愛しているから、こんなにも憎い。
これから貴方が一人で造り出す、國も命も、全て殺してしまいたい。
「愛しき我がなに
貴方の声が返る。
これは貴方から、私への決別の言葉。
その直後、岩戸は完全に閉ざされた。
もう私の声も、貴方からの声も届かない。貴方の気配も、もう判らない。
けれどきっと、もうそこに貴方は居ないのでしょう。
私は冷たい岩戸に身を寄せ、涙が渇れるまで泣き伏した。
互いに交わした最後の言葉が、幾度となく頭の内に繰り返される。
涙が渇れてしまった後、私は黄泉平坂を振り返り、見た。
闇に閉ざされた道の端に、ヨモツシコメが喰い尽くした桃の種が転がっていた。
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