第29話 「救急搬送」
樹里は呆然と椅子に腰掛けたまま動かない。
ドアを開けて孝を送り出したものの気持ちは落ち着かない!
「帰って来る!」と言葉は残して行ったが不安は時間が過ぎるたびに積み重なって行くのが自分でもわかる。
本当は立ち上がり追い掛けたかった・・・
彼女はお腹をさすり「走っちゃダメだよね?」
「追い掛けたらきっと走っちゃうから危ないよね?」
うつ向きながら優しく話し掛ける。
彼女のお腹には孝との子供を宿していたのだった!
望んで望み続けてやっと出来た小さな命・・・
でも子供の父親はすでにこの世に居ないのである。
彼に何度も話そうと思ったが彼女は遂に言えなかった
言ってしまえば優しい彼は喜ぶだろうがきっと私と子供との別れを苦しむに違いない!
どんなに彼が頑張ったとてこの子の顔さえ見ることも叶わずに2人の前から消えてしまうのだ。
涼介が犠牲になったあの事故の後ので検査でこの子の存在を知った・・・自分の体調も気付かないまま涙に暮れて過ごした日々をこの子は懸命に生きようと頑張っていたのだ。
もっと早く気付いて当然だったのに私は何て愚かな母親なのだと思うと同時に必ず無事に産んでみせるという使命感が彼女の心に芽生えた!
孝が私に残してくれた最高の宝物が樹里のお腹にいる。
「きっと帰ってくるわ・・・パパは嘘をつかない人だからね」
そう話し掛けながら自分に言い聞かせている様だった。
その時、彼女はハッと椅子から立ち上がった!
結婚の約束をした思い出の場所・・・神社の境内が脳裏に浮かんだのである。
彼女は胸に手を当て落ち着きを取り戻そうかとする如く深呼吸をするとバッグと鍵を片手に玄関へと向かった・・・
靴を履くと扉を開け外に出て鍵を閉めると静かに歩きだす。
きっとあそこに彼は居る!
「慌てなくても大丈夫よ・・・待っててくれるから大丈夫」
口に出して言いながら緩やかな坂道を歩いて行く。
どんよりと曇った空は今にも雨が降り出しそうな感じであったが構わず前を向いたまま歩き続けた。
しばらく歩いているとポツリポツリと雨が落ちて来た・・・
お墓参りをする時にいつも花を買っていく生花店の前を過ぎ右に方向を変え歩く。
生花店の奥さんが降り出す雨の中を歩く樹里を見掛け声を掛けたが反応が無い!
慌てて奥に入るとご主人が傘を2つ持ち1つを広げると彼女の後を半ば駆け足で追い掛けた。
やがて彼女に追い付くともう1本の傘を広げ差しかけながら
「奥さん・・・雨が降り出したよ!傘を持って・・・」
彼女の手に持たせようとするが反応が無い!?
「きっと待ってる!きっとあの人は濡れたまま私を待ってる」
無表情のままそう呟きながら歩き続ける。
ご主人は持っていた傘をたたんで道路脇に放り投げると彼女の肩を掴み強引に店舗の方へ引き返し始めた・・・
彼女は抵抗する素振りも無く歩いているが2人ともすでにズブ濡れであった。
店舗前まで来ると奥さんがタオルを数枚持って来てご主人に渡し自分が持ったタオルで樹里の髪を拭きながら聞いた
「如月さん!大丈夫!?・・・如月さん!」
その問い掛けに彼女は反応を見せず呟き続けている。
「彼が雨の中で待ってるの、行かなきゃ、早く行かなきゃ!」
まるで夢遊病者の様に同じ言葉を繰り返すだけの彼女を心配した2人はすぐに電話し救急車を呼んだ。
まもなく到着した救急車に奥さんが同乗し激しくサイレンを鳴らしながら病院へと搬送されて行く。
樹里の夫が亡くなっていること、いつも墓参りで衰弱していた様子などを救急隊員に奥さんが説明すると
「大丈夫ですか?・・・病院に搬送していますからね!」
隊員が樹里に呼び掛けると弱々しい声で
「お腹に赤ちゃんがいます・・・」それだけ言うと気を失ってしまった。
「あっ!・・・血が!」
奥さんが指差す樹里のスカートには血が滲み出ていた!
サイレンは鳴り響く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます