第4話


 通夜はメールがあってから次の日の夕に、隣の県にある瑞晶の実家近くで行なわれた。電車で三時間ほどであったため、私はサークルの部員仲間であったなじみのある男女数人とともに参列することにした。その中の一人であるメールをくれた後輩の女子は行きの車両の座席で頬に手を当てて泣いていた。窓の外では、空を厚く暗い雲が重苦しくどっしりと覆っていて、まだ昼過ぎだというのに、車内の灯りは窓に跳ね返って涙とともに内側に光った。


 会場は市の外れにある葬式場だった。私たちが着く頃には、雨が降り出していた。外でしめやかに落ち濡れる雨の音を聞きながら、つい一週間前にうちに来ていた瑞晶の遺影に手を合わせ、焼香をあげた。


 その後、私たちは受付のところで彼のご両親に挨拶をした。彼の母は下に持つハンカチに両手を合わせ、そこには染みがちらりと見えた。どちらの方も目が伏せ気味になり、表情から陰りが抜けなかったが、よくよく見れば母親からは何気ない日常から楽しさを拾い上げるような身軽さが、隣に立つ背の高い父親からは何でもないつらいことなんか笑い飛ばしてしまいそうな健やかさが垣間見えた。父親の目元が瑞晶と重なったが、似てるかと訊かれればよく分からなかった。私たちはしばらく空気のこもったホールに並べられたパイプ椅子に座って、お坊さんの唱えるお経に思いを馳せた。


 私は穏やかな気持ちで瑞晶の死を思った。受け入れるためには、まずは向き合わなければならなかったし、私も心が自然とそういう姿勢になっていた。後に来る激しい痛みも今はまだ鳴りを潜め、その存在をおぼろげに感じさせるにとどまっていた。


 瑞晶の死因は首吊りによる窒息死だった。昨日の朝、アパートに救急車とパトカーが駆けつけ、騒ぎを聞きつけた近所に住む元サークル仲間だった女子が、首を突っ込んで事を知り、ただならぬ思いですぐに同期の知り合いに連絡網を回したのだ。死に方からして彼は自殺を図ったのだろう。しかし私にはその理由が分からなかった。彼がなんで、そんな行為に至ったのか。あの温厚そうな両親に対する良心の呵責? 一向に展望が開けない未来への不安? 自分が変われないことへの絶望?


 しかし最後に会った時、彼にそんな素振りは一切見られなかった。あの時も彼はいつもの通り、代金を払い忘れて水道が止められていたことや、渋々行ったハロワの受付が案外人当たりの良い人で嬉しくなったこと、小学校の校庭に植えられた銀杏の木が鮮やかなほど黄に染まってて却って毒々しく見えたことなんかを、とりとめのない日々の出来事として、特に感慨もない風にして語った。でも彼がそれらに何かを見出していないからといって、彼がそれらに何かを求めていたわけではないのだ。なぜ瑞晶が死んだのか、私はひたすらそれだけを考えたが、ろくな答えは見つからなかった。


 通夜は本来夜通しするものだと思っていたが、今回は三時間ほどで終わる「半通夜」という形式らしかった。告別式は明日、同じ場所で執り行われる。いずれにせよ、私は駅前のカプセルホテルを予約していた。


 やがて二十一時ごろになると、通夜は終わりを迎え、私たちは他の参列者と共にホールを出た。ひんやりとした冷気が身体を包む。雨は既に止んでいたが、空は曇りっきりで天の星は一つも見えない夜だった。


「色瀬も明日は仕事でしょう? 大丈夫なの」


「ううん。来る前に電話して休ませてもらった。折角来たから」


 私は明日も参列する旨を伝えると、訊いた女子は頷いて静かに目を瞑った。私以外は通夜だけに参加するつもりだったようだ。私は交わす言葉もなく帰っていく友人たちの背を、目で送った。なんだかそうしていると、急に寂しさが込み上げ、どこにも行けない心地がして、私はそのまま入り口横の暗闇にぼうっと立ち尽くした。目の前を知らない黒い人たちが過ぎていく。少しして、近くの眩い光を放つ自動販売機の傍らにベンチがあるのを見つけ、蛾が火に誘われるように近づいて、そこに腰を下ろした。会場の片づけも進められているようだったが、扉から出ていく人たちは、一様に死のにおいをまとっていた。生きている人にも死が入り込んでいく。知らないうちに、気づかぬうちに。そうして瑞晶の死は本体である身体から離れ、少しずつ分割されて人々の心に与えられていくのだ。分配され、削られて、薄くなる。私は人が一人死ぬことはこういうことなんだと、なんとなく思った。


 ベンチの左端に誰かが座った。目をやると、それは私と同じくらいか、もう少し上の歳の女性だった。自動販売機の灯りに照らされたその人の髪は長く、かなり色素が薄い。赤茶……、いやおそらく金。ドンキホーテや深夜のファミレスにいそうな感じで、あんまり黒い喪服は似合ってなかった。私は不意に中学の時の教室で、あるひ弱な女の子をいじめていたグループのリーダーの肥満気味の女に、なぜか突然挑発を吹っ掛けて、一対多の喧嘩に圧勝した透き通る金髪の同級生のことを思い出した。あの子は滅多に学校にも来ない不登校少女で、いじめられっ子に面識もないはずで、当時傍観してた私には何でそんなことをするのか皆目見当もつかなかったが、その時はとにかく彼女がかっこよく私の目には映っていた。その子はじきに転校してしまって、今では顔の輪郭すら記憶に残っていないけど。


 ベンチに座るその女性は長くて真っすぐな髪を耳に掻き上げて、服の胸ポケットからシガレットケースを取り出した。一本咥え、慣れた手つきでジャケットの脇ポケットに手を伸ばす。求めたものがなかったようで、今度はスカートのポケット。そこにもお目当てはなかったようで、彼女は隣の私に顔を向けた。


「アンタ、ライター持ってない?」


 若干ハスキーな響きを持つ、落ち着いた声だった。


「確か……」


 バッグの中をがさごそ探ると、丁度良く持ってきていた銀のライターがあった。私が渡すと、彼女は礼を言い、カチッと音を鳴らし、やっとのこと煙草の先に火が点いた。


 彼女は、手を伸ばそうとしたところを引っ込め、私が渡したライターをまじまじと見つめた。


「ん、これ……」


「どうかしました?」


「あっ、いや」


 彼女は私の方へ再びそれをよこした。


「依篠クンが持っていたのと似てると思ってさ」


「えっ、知ってるんですか」


 少し驚いた。なぜなら、私が差し出したライターは正に瑞晶のものだったからだ。彼は私の家に来た時、律儀にベランダに出て必ず一本は煙草を吸っていた。そしてこれは前回彼がうちに忘れていった、今となっては遺品のものだ。私は通夜に来るにあたって、もう返すことができなくなったそれをなんともなしにカバンに詰めた。


 彼女は早川葵と名乗った。瑞晶とは、中学以来の付き合いで、今は私たちと同じ町に住んでいるという。


「いやあ、まさかこんなことになるなんてねえ。ついこないだまでなんだかんだ生きてたのにね」


 早川は会場から公道までの道の左右に並び立った作り物っぽさの滲みでた灯篭の足元を眺めて言った。彼女の言葉に自然に含まれた瑞晶への馴れなれしさが軽く気にかかった。


「瑞晶に会うことあったんですか?」


 早川は視線を変えずに口を開いた。


「まあ……、仲が良かったっていうのかな。なんていうか腐れ縁だよね。週一くらいは会ってたけど」


 そう言って目を細めた。


 週一。


「いつからですか、それ」


「一年前くらい。夏の前くらいだったかな、あれは」


 一年前。私と瑞晶が大学を卒業した後。


 私は「へえ」と気の抜けた返事をしてから、目の前を見据えた。もうそろそろ来客がすべて引き上げ、会場の灯りもぽつぽつ消えかかる頃合いだった。


「……えっと、それってどういう」


「いやどうも何も、普通に会ってたな」


「どこでですか」


「大体、アタシんちで、かな」


「二人でですか」


「うん」


「それは……」


 それは……、一体どういうことなんだろう。変な形に凝結したいがいがの動揺が喉にせりあがってくる。瑞晶が? 友達だから? ――いや、それでも。私は口から溢れ出しそうになる言葉を押しとどめ、ゆっくり息を吐いて彼女に言った。無性に煙草が欲しくなる。吸えない体質なんだけど。


「早川さんは……、瑞晶と、仲が良かったんですね」


 私は感情を殺し、努めて冷静であろうとした。私は私で、瑞晶は瑞晶。それぞれの領域があって、その距離感を楽しむだけだったはずなのだから。だからきっと何も感じない――。


 彼女はとんとんと煙草の背を叩いて、灰を落とした。フィルタを口につけ、長い白煙が暗闇に紛れる。早川はしばし沈黙し、空を見上げ、思い出したように口を開いた。


「身体の相性が良かったからな」


 早川は、それから瑞晶と共に何をしていたかを私に訥々と語った。彼女は気が進まないようだったが、私が頼むと仕方ないと言った調子で話しだしてくれた。それは狭い心の隙間からちろちろと漏れだす秘密の呪文のように空中に零れ落ちて、夜に溶けだした。彼女の言葉は一旦話し出すとすらすらと続いた。


「依篠クンって地味な見た目でさ、性格もどこか陰気臭くて、アタシとは全然合わなかったんだけど、なんかおかしなもんでね、身体の具合は良かったんだよね。何度も寝た」


 何度も寝た。その意味は流石に私にだって分かった。私は脳内でその言葉を反芻し、咀嚼し、返答に充てようと試みたが、会話のキャッチボールはうまく繋がらなかった。そんな私を置いたままに、彼女は喋った。


「依篠クンもさ、電気を消した途端、今まではネジが切れてたんじゃないかって思うくらい、息がやっと吹き込まれたって感じになってくるんだよね。依篠クン自身、こうしてると生きてる実感が湧くなんて言っちゃってさ。それで、朝になったら元に戻って窓越しの太陽を恨めしげな顔で睨んでて。人間ってそういうもんなのかもしれないけど、あの落差はおかしかったなあ」


 懐かしいものを憂える乾いた笑いが宙をすべった。


 私にはなんとも思わなかったけど、この人には瑞晶の表情が恨めしげに映ってたんだ。私は相変わらず雲のカーテンが張った空を見上げ、心の中で雨がまた降ることをにわかに願った。


 早川が片目を瞑り、口をすぼめて、細く煙を吐く。


「でも、ありゃあなんていうか、生きてるっていうより必死だったな」


「必死?」


「そう。アタシも依篠クンもヤッてる時は不快じゃあなかったろうけど、あの人は何かに怯えてる感じだった。彼が何かに叫びだしたくなるほど怖がってて、それを隠したくって何度もアタシの中に深く入り込んでくるのが、肌を通して伝わってくるみたいだった」


 そして早川は「まあ、確実なことはもう誰にも分かんないんだけどね」と小さく笑った。


 私は、ベッドの下で、窓越しの朝陽を浴びながら体育座りでガタガタ震える瑞晶を思い浮かべた。それは想像の中から這い出てくることはなかったけれど、その姿は彼に良く似合っていた。


 早川が黙ると、会話は途切れ、夜の闇だけが獲物を探すように辺りを蠢いていた。静かになると、建物の周りを取り囲む森から発せられる虫の声と、自動販売機のジーっという音が耳を突き刺した。


 一秒の間隔が判別できなくなりかけた頃、私の隣から早川は立ち上がった。腕を上に掲げて、軽く伸びをする。私は最後だと思って、そっと尋ねた。


「最近はいつ瑞晶に会ったんですか」


「つい一日前に」


「……え? それって」


「そう、アタシが見つけたの。合鍵も持ってたから」


 消え入りそうな声でそう言うと、早川は荷物を取って歩き出した。彼女は近くに停めてあったバイクを引いて、森に挟まれた道を振り返ることもなく公道まで進んで行った。その後ろ姿の上には、薄い雲越しに月の存在がうっすら見て取れた。


 私は彼女が見えなくなると、ポケットに手を入れてベンチから離れた。少し迷ったが、結局次の日の告別式を待たずに、駅前をうろうろしてから、人の空いた終電に乗り込んだ。


 家に着くや、私はスーツから着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。枕元の時計を見ると、日が変わって午前の一時を指している。ひどく喉が渇いていた。帰りながらコンビニで買った発泡酒を呷っていたからか、干からびた天井はエレベーターのように少しずつ上下に動き出して見えた。冷蔵庫の方に目を向けると、パックに口をつけて牛乳を飲む私と、几帳面にカップに牛乳を注ぐ瑞晶の影が、そこに浮かんだ。


 何が幻覚で、何が現実なのかも私にはもう分からなかった。私が見ていた瑞晶と本当の瑞晶の差って、どれくらい離れていたんだろう。そして私はちゃんと彼に触れていたんだろうか。彼はちゃんと私に触られてくれたのだろうか。テーブルの上には読みかけたまま置かれた宇宙の雑誌があった。


 時計の音だけが木霊して、私はうまく働かない頭で携帯を探した。私が専らメールをするのは瑞晶くらいのものだった。あまり感覚のつかめなくなった指でキーを打ち、連絡先からあの人を探す。

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