第3話
三
私はあまり自らが勤めている会社に興味がない。作業が終わり、上司にそれを報告する時、私が思うに三十%の確率で小言を言われ、五%の確率で褒められる。その他、六十五%は無言の了承だ。いつだってそれは変わらない、不変的な出来事だ。
「色瀬さん、前回の資料確認、二件も漏れがあったんだからね。今回はそんなことないだろうね」
私が顧客のクレームメール処理が終わったことを告げると、上司がさもだるそうに言った。今回は小言、大当たり。だけども全く、どうでもいい。私は素知らぬ顔で白が混ざり、頭皮の薄さが強調される上司の頭に目をやり、この人も心の中では反抗期の息子の行動にどうしようもなく一喜一憂してんのかな、と思って不意に笑いそうになった。それを奥歯を噛み合わせ、悟られないようにする。
上司の声が途絶えたことを確認し、私が踵を返そうとすると、上司は口調を変えて、私の想定しなかったことを言った。
「そうだ。色瀬さん。昨日、うちに配属になった彼。君の知り合いらしいね。困ってるようだったら、助けてやってくれ」
「えっと……。どなたでしたっけ」
新しい人が来ることは風の噂で前々から知ってはいたが、昨日私は休み、会ってなかったし、何より気にとめていなかった。
上司は人差し指を宙に指して円を描き、「あれだよ、あれ……」と口ごもった。その挙句に出てきた名前は、水たまりに投げ込まれた石が底に溜まった泥を巻き上げるかのように、私の眠らせた記憶を呼び戻させた。
「そう、滝……、滝原彰吾くんだ」
「彰吾……ですか」
席に着いた後も、顔には出さなかったが、私は内心驚いていた。滝原彰吾は大学の二年まで、付き合っていた相手だった。瑞晶と今の関係になったのは、滝原を私が振って別れてからだ。
滝原は二年ぶりに会っても、大学の頃と印象は殆ど変らなかった。外見で変わったのは、毛先の跳ねたくすんだ金髪がごわごわした黒髪になっていたことくらいだ。彼は厚い胸板を前に突き出し、ごつい指先で頭を掻いた。態度や仕草の節々から、虚弱そうな瑞晶とのギャップが噴き出していた。
「いやあ、色瀬にまた会えるとは思わなかった! また、よろしく」そう言って彼は手を差し出した。私がそれに応じると、彼は皺を歪ませ、にこりと笑った。彼の手の筋肉質のがっちりした感触が私に伝わった。
滝原は作業で何か困ったことがあった時にとどまらず、何かと私の席へとやってきて、喋りたがった。上司がまだ職場に慣れない、新人のこととそれを見逃す度に、私は恨めしげな視線を送ったが、四十歳半ばのおっさんには尽く届かなかった。私は自分の作業が中断させられることにも、滝原があからさまに思わせぶりなことを言ってくるのにも心底うんざりした。仕事が終わると彼は何度も私を飲みに誘った。
どうやら彼はまだ私に気があるようだった。彼は誠実で単純だし、極めて健全な生き方をしていたが、私にはその体育会系なにおいが鼻についた。滝原に別れを切り出したのも、その濃さに耐えられなくなったからだ。彼はスーパーの列に割り込む見知らぬ人にも率先して注意するような、真っすぐさを持っていた。私はその反動もあって、あっさりしきった瑞晶に惹かれたのかもしれない。
私は元々、積極的な性格ではない。むしろその要素が初めから入る余地がなかったような人間だ。滝原に誘われる夜、頭の中には瑞晶が映った。瑞晶と私の関係はいわば消極性が行くところまで行った、ある種の完成形なのだ。互いのことを慮り、しかしそれゆえに干渉しない。かげろうのように希薄で、ただ甘くなったサイダーのように生ぬるい繋がり。そこには暴力的な愛も焦げるような恋も存在しない。けれどそれは空いたスペースに最後のピースを嵌め込む安らぎがあった。それこそが生活を生きる上で、私に必要なものだったのだ。滝原を前にすると、私はそれを強く思うようになった。
次第に残暑も去っていく。秋の度合いが強まってきた。駅前の街路樹が赤くなり、クーラーで喉が痛くなることが少なくなった。瑞晶は相変わらず十日に一度くらいの頻度で私の家に来た。私は彼が傍にいる瞬間、本当の慈しみを味わった。
それは土日の休み明け、吹く風に冬の初めを感じるような朝だった。電車に揺られ、流れては消える景色をぼんやりと眺めながら、私は二つのことを考えていた。一つはこないだした親との電話。最近、母親の溜息が増えてきた。
「七美さあ……。どうなの、あなた。そろそろいい時期でしょう? ちゃんと考えないと……」
身を固めろ。今年になってそればっかりだ。私も社会に出て、母の関心事はそれくらいしかなくなったのだろう。他の道が断たれた母の気持ちも分かるが、こちらとしたらたまったもんじゃない。悩みの種だ。
そしてもう一つは滝原のことだ。三日前の会社からの帰り道、彼はまだ灯りの点いたビルの窓なんかを見上げながら、とうとう切り出してきた。
「もう一度、やり直してみないか?」
彼の声が耳の裏に蘇る。何も考えてないような響きを持っているのに、いつも私を困らせる彰吾の声。
「俺には……、なんていうか色瀬が必要だからさ。別にいいだろ?」
ガタンゴトンと電車が揺れ、彼の声が遠くなり、近くなった。その時、ポケットの携帯電話が震えた。母親や滝原の顔が頭から離れないままに、私が携帯をとりだすとメールの着信がそこに示されていた。メールを開けど、咄嗟には何が書いてあるのか分からない。そして電車がもう一度、大きく揺れた。
目に力を入れて、画面のメールに見入る。書かれているのは彼のこと。
依篠瑞晶が死んだらしい。
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