第2話


 依篠瑞晶との出会いは大学のサークルに遡る。私と彼は同じ学年だった。


 激しい恋愛があったわけではない。むしろ何一つとしてなかったと言ってもいいかもしれない。恋愛に限らず、大学での生活は今思えば、まるで淡くて薄い泡沫のようで、ぱちんとはじけてしまえば、後には何も残らず、そこに今まであったのかどうかさえ確信のもてないものだった。しかしそんな空虚な見かけだとして、実際その大枠は夢から醒めたように立ち消えたとして、それでも私の手の中には微かな反響が零れ落ちずにとどまった。それが彼だった。


 私は卒業しても実家に戻らず、同じ下宿に住み続け、私が合鍵を渡していた瑞晶も相変わらずに、時折ふらっと私の家に上がり込んでいるのだった。彼は私と同学年だったのだが、歳は私の一つ上になる。それでも彼は歳の差を感じさせない気軽さで私に接していたため、私もそれをとりわけ気にすることはなかった。しかし元々、神経質的なところがあるためか、どれだけ距離が近づいて親密になったと思っても、無意識のうちに敬語が出てくることもあった。


 瑞晶はよく私の家に来て、することに飽きると私の眼を覗き込んで、髪を撫でた。私は黙ってそれに従う。


 いつか彼は言った。


「何かを愛でてる時が、人間は一番幸せなんだよ」


「そうなんですか。私は気持ちいいからいいですけど」




 瑞晶は宇宙の雑誌を横に置いて、手を伸ばし、ベッドに腰掛ける私の頬や髪に触れた。血管の透き通る、マメもない、汚れたことがないような指先が、私をゆるやかに撫でていく。


 彼と私の関係は、なんとも形容しがたいものであった。彼は私のマンションの合鍵を持っているし、大学の在学中は毎日のように来ていた日々もあったのだから同棲に近いとも言えるのだが、その中身を考えると、どうもそもそも恋愛関係が成り立っているのかさえ怪しいところがあるのだった。彼と私は肉体関係はもとより、唇を合わせることさえなかった。夜中、私たちは寂しくなると、手を繋ぎ、電気の消えた部屋で月や星の明かりが射し込むベッドの上で他愛もない会話をし、彼は眠そうな眼をしながら私の頬に手をそっと当てるのだった。そんなことをしていると心の隅からじわりと安らぎが滲んできた。私にはそれで充分で、彼もそれだけで充足しているようだった。私たちにそれ以上のことはいらないのだ。彼はおそらく身体を交えたところで無限の愛が手に入るとは思っていなかった。同年代の連中がそれに快楽と幸福を見出していく中で、彼は人間の欲望は限りなく、決して満たされ得ないことを認めていた。却ってそれをすれば寂しさが増長されていくだけだということも。だから他のサークルの部員たちは、私と彼がこういった関係にあることを今に至るまで知ることはなかった。付き合っている、という言葉が適切かどうかは分からないが、私と瑞晶は確かにひっそりと人知れず、互いの心を感じ、肌を触れ合わせていた。




 ――喫茶店の記憶。


 いつのことだったか、正確には覚えていないがおそらく三年生、私が合鍵を瑞晶に渡す少し前だったと思う。私が今の関係に身を預け切っていいものか悩んでいた頃だ。日中に二人で外出することは滅多になかった。大体私たちが二人で会うのは、私か彼の下宿先に行くか、あるいは陽が沈んでからであれば電灯少ない夜の町に散歩に出かけるか、そのどちらかに決まっていた。


 隣町のゆったりとしたカフェで、私の前にはアイスカフェオレ、彼にはメロンソーダフロートが置かれていた。柱時計は午後の三時を指し、周りでは読書に耽る老眼鏡のおじいさんや、仕事の休憩か二人組のスーツのOLなんかがいた。


 ミルクとコーヒーが分離しているのをストローでかき混ぜると氷がグラスにぶつかってカラリと涼しい音を立てた。暦の上では秋が始まったとはいえ、まだ残暑が幅を利かせていた。彼はメロンソーダに乗ったアイスクリームをスプーンでつついた。


 私は訊いた。


「私たちってこれからどうなるんだろうね」


 彼はぼんやりと泡立つ緑を眺め、いつものふわっとした答えを返した。


「どうなるんだろう……」


 はあっ、と私は軽い溜息を吐いた。


 彼はスプーンをわきに置いて、グラスを傾け、口につけた。テーブルの表面には結露した水滴が残る。


「でも多分、僕らにはさ、ソーダが必要なんだよ」


「三ツ矢?」


「それはサイダー。甘みが入ったものじゃなくて、このメロンシロップにはじける無味の炭酸水。ずっと甘ったるいのはいつしか飽きてしまうしさ。それを繋ぎとめる一筋の優しさだよ」


「ちゃんと向き合うことも、分かり合おうともしない姿勢を都合のいい言葉で誤魔化そうとしてない?」


 私にはまだどこか不安があった。彼といるのが心地よくないわけではない。けれどこのまま延々ダラダラ続いていくことが、果たして最適な解を導いてくれるのか、私には分からなかった。今までも先のことを真剣に考えず、ひたすら問題をすり替えるような男を見たことはあった。けれどそういったタイプは大体現実の快楽に固執し、隠しきれない不安に怯え、見かけばかりの自分の殻に引きこもる。それらからは次第に自滅していく危険なにおいが直感的に窺える。しかし一方で、瑞晶は一度として私の中心、奥底まで無遠慮に踏み込んでくることはしなかった。どうもそんな調子ではないのだ。いわば境界線を突き破って侵入してくるというよりは、いつの間にかその内側で胡坐を掻き、欠伸をしている具合なのだ。


 彼は何事もないように言った。


「でも手を伸ばすだけが答えじゃない。手を伸ばして、届かなかったら寂しくなって、もっと手を伸ばしたくなるけど、それでもし望んだものをつかめたとしても、得られるのは満足じゃない。手に入るのは一欠片の新たな寂しさだけなんだ」


 瑞晶の瞳はしっかりと私を見据えていた。その言葉が中身を持っていないような見かけだとしても、その時ばかりは彼が心の底から思っているような熱を感じさせた。時間の流れを一瞬、忘れる。


「錯覚なんだよ。全部錯覚なんだ」彼は言った。


「錯覚? 何が?」


 私はストローを咥えて、一口飲んだ。


「だから七美の思ってる、大抵のこと全部がだよ。付き合って、どこか遊びに行って、海辺のホテルでセックスして、そのまま仲が良ければ、会社を辞めて子供を産んで、小学校まで上がったら運動会とか見に行っちゃったりしてさ。それが悪い事とは言わないよ、僕は。それも楽しいかもしれない。少なくとも、大体の人が考えてることはそういった類のことだ。でもおそらく七美がそう思ってるのは、そう言われているからに過ぎない。錯覚なんだ。何も僕は、憧れるけどロッカーじゃないしさ、極端なアウトサイダーでもない。だけど微小なレベルでもいいから、他の人のと寸分狂いのないレールとは違う目的地を目指したって罰は当たらないんじゃないかって、そう思うんだよ」


 彼は言い終わると、窓の外の白く照らされたアスファルトに目を向け、グラスを手に取った。グラスの外側に張りついた水の玉がつるりと滑り落ち、内側では炭酸がはじけた。




 瑞晶は、私が会社に通い始めた頃もそれまでと変わらず、二三日に一回のペースでうちにやってきた。しかしそれもここ最近はめっきりになっていた。今日来たのも、およそ二週間ぶりのことであった。


「そういやさ、前よりあんまり、うち来なくなったよね。どうかしたの?」


 私はベッドに横になり、彼が持ってきた雑誌を開いてみた。ヒッグス粒子、相対性理論、素粒子。ダメだ、何のことやら。


 ベッドの傍らの床に座って、テーブルの端をぼうっと見ていた彼は自分の右頬に少し手を当て、そして言った。


「んー。まあ、七美も色々忙しそうだからさ」


「そんなこと前は言わなかったのに、おかしいなあ。いつでも来ていいんだよ?」


 彼はもう一度「うーん」と唸った。


 何かを隠したような瑞晶の態度は珍しいものだった。同棲まがいの私たちはいつも全てを互いに打ち明け、それらをくだらないものとして軽く笑い飛ばし、これまでゆるくやってきたのだ。しかし、確かに時間は去っていくものなのかもしれない。もう私たちは充分に責任というものを背負わなくてはいけない年頃になっている。


「こないだ、親から電話があってさ」


「うん」


「また例によってアレ、就職がどうのって話。お前はどうしたいんだって言われてさ。ちょっと笑っちゃいたくもなるけど、だって僕は親の持ち物でもないんだからさ、でもやっぱり向こうの気持ちも分かるんだよなあ」


「で、なんて返したの?」


「その時は、今までと同じく小説を頑張るって言ったかな。ただ僕自身、最近揺らいでる部分が大きくて、よく分かんなくなっちゃってるんだけどね」


 瑞晶は定まった職に就かず、大学を卒業してからいまだアルバイトを転々とするフリーターのままだった。彼ではないが、親の不安も頷ける。彼はアルバイトで家賃と生活費と年金に必要な最低限の賃金のみを稼いでいた。そして空いた時間を使って小説の構想を練っているようだった。ちょくちょく公募にも出していた。けれど現実はそんなに甘くはなく、まだ成功の兆しは見えてこない。彼もうまくいかない日常に窮し、悩んで、ここに来る暇などなかったのかもしれない。二人でいる時、話題が深刻な方に向かうことは少なかった。ここは日常の危うさとは隔絶した、つまりそういう空間なのだ。だから彼は一人になりたかったのかもしれない、と私は思った。


「ソーダが必要?」


 私が訊くと、彼は喫茶店でのことを思い出したのか、笑った。


「それも飛びきりポップなやつがね」

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