ポップメロンはソーダ味

四流色夜空

第1話


 世の中には不思議なことがいっぱいある。運命のこととか、死んだらどうなるかとか、自分のまだ新しい過去や近しい未来のことすらも、難しくて考えたってよく分からない。こんな複雑な世の中、明白なことなんてもう殆どないのかもしれないけれど。


「色瀬さん、この資料コピーとっておいて。それと、例の印刷会社から電話来たら内線三番に繋いどいてね」


 私は上司に「はーい」と返事をして、再度顔を下ろし、横並び、量産されたパソコンの画面に目を向ける。どこの誰かも知らない、これからも知ることのないであろう顧客たちの名前が犇めいている。私は何の変哲もなく、どこにでもいるような人たちの中、そこそこの大きさの会社で、面白味もない事務仕事を業務としていた。今の仕事内容は本社のデータの顧客名簿に漏れがないか、うちの会社に保存されている紙の資料と延々にらめっこするという、とにかく根気のいる作業だ。ただただ目が疲れる。次第に顧客の名前たちがゲシュタルト崩壊を起こしだす。どうでもいいデータに目が疲れて、頭は頭で関係のないことを考えだし始める。私はなんでこんなことをしているんだろう。もう二十四歳。憧れていた夢はいつしか蜃気楼のように霞み、見えなくなった。これが天職だと思うことはないにしろ、目立つ問題はないし、凡庸な私にはこういう事務仕事が向いているとは言えるのかもしれないが、これが私に課されてきた運命なのかと思うと、やっぱり心持ち少し肩を落としてしまう自分がいるのだった。この先、何か特別なことが突然起こるはずもないし、大きな損も得もない。しかし、今だって他人との差が全くなく万人に埋没しきっている気もなければ、これから全く同じ生活がずうっと続くこともまたありえない、という観測が辛うじて私を繋ぎとめているのかもしれない。結局何のかんの言ったところで終わりになってみないと何一つ分からず、終わってしまえばもう何もないのだろう。どこまでも私はちっぽけで、社会の渦に飲み込まれる、塵のような存在でしかない。


 夢から私を醒ますように、パソコンの隣の電話が鳴った。


「はい、こちら伊藤商事です。はい。はい。では、係りの者に繋ぎますので少々お待ちください」


 内線三番。




 家に帰ると彼がいた。


 ベッド横のカーペットに寝っ転がって、雑誌を広げている。彼はスーツの上着を脱ぐ私には見向きもせず、口を開いた。


「おかえり」


「ただいま」


「疲れた?」


「うん、少し」


「お疲れさま」


「うん」


 時々思い返したように、私はなんでこんなことになっているんだろうと、私の選んだ道は本当に正しかったのか不安に思う夜があった。それはスーパーで並んだ真っ赤な林檎の一つをおいしそうだと思ってカゴに入れた後、ふと我に返るとそれが他のと果たして違うのか分からなくなる感覚に似ている。けれどもこんな瞬間に私は、彼の「おかえり」にどこかしら救われてる節があるのかもしれないと思い直すのであった。そんなに取り立てるほど気持ちがこもっているとは、お世辞にも言えない調子だけれど。


「何読んでるの」と私が訊くと、彼は「ん」と言って私に見えるように、雑誌を頭の後ろに掲げた。その表紙には「宇宙の神秘――ビッグバンから始まる奇跡の星」という見出しが、色鮮やかな惑星の写真を背景に浮かんでいた。


「え、おもしろいのそれ」


 彼は私が帰宅してからようやく初めて顔をこちらに軽く向けて、目を合わせ、にこりと微笑んだ。


「よく分かんない」


 そうだろう。彼も私と同じ生粋の文系である。


「でも、宇宙の神秘には希望があるかもしれないなあと思って」


「どういうこと?」


 私は堅苦しいスーツを脱いで部屋着に着替え、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注いだ。


「いやあ、なんかさ、まあ僕がよく分かってないってことが大きいとは思うんだけど、なんたって宇宙って僕らにとって異界だからさ。僕らの想像しえない原理が働いてるかもしれないからね」


「例えばどんな?」


 麦茶を喉に流し込むと、思った以上に疲れていたのか、ごくりと大きな音が鳴った。


「例えば、ねえ。……うん、例えば、僕らには雨は途切れることなく降ってるように見えるけど、実際はその一粒一粒のまわりを純白の羽とピンクの衣を纏った天使が軽やかにダンスしてるとか、ね。宇宙の常識だと案外そうなのかもしれない」


「官能的な図だね」


「うん、それは綺麗だよ。でも同時に数が多すぎてグロテスクでもある」


「本当にそんなことあると思ってる?」


「はは、まさか」


 彼は乾いた声で笑った。


 そうだ。彼はいつだってそう。彼の言うことに中身なんてないんだ。実際はずっと頭の中で推敲に推敲を重ねているのかもしれない、あるいは元から何にも考えてないことが殆どなのかもしれない、けれどいずれにしたところでその結果吐き出される言葉は、スカスカでカラカラの言葉たちだ。乾燥して干からびたような言葉たち。でもなんだか、どことなくそれらに私は、ぬくもりとかやわらかさといったものを感じるのだ。つくづく私が甘いのかもしれない、いやでもこういったのが真の信頼と呼べるものなのかも、なんて思いつつ私は彼とのやり取りをなぞっていく。そうすると心が和らぐのは確かだった。


 それにしても。


 今更だけど。


「久しぶりだね、瑞晶」


「うん。久しぶり、七美」

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