八の話

 ――こんなに食いやがって。お前は山から下りた猪と一緒だな。



 昨日の朝に浴びた旅籠屋の女将の声が、一日経った今も耳に残る。

 白湯のように色も味も薄い、汁と粥がほんの少し。それが、旅籠屋で働く者の食事。

 食べなければ、恩知らず、と罵られ、口をつければ、こんなに食いやがって、と打たれる。それを思い出してしまった。

 李花は箸を置き、深々と頭を下げた。

「あの女将は嘘をついたね」

 未明びめいは、つみっこを早くも完食し、食後の茶をすする。

「何が、李花は大食い、だ。きっと、ろくに飯を食わせなかったんだろう。ふざけんなよ、あのばばあ

 耳に優しい声が、低く毒づく。

 李花は思わず震えてしまい、それを見た未明が、ごめんね、と柔らかく謝る。

「無理して食べなくても平気だよ。急に一気に食べると、胃のがおかしくなってしまうらしい」

 すみません、と李花は萎縮してしまう。

 未明は茶器を静かに卓に置いた。

「きみに親戚はいるのか」

 李花は、いいえ、と答えた。両親も親戚も、頼れる人にも心当たりがない。

「俺も、そうだ。物心ついたときには親も親戚もおらず、見知らぬ大人に飼われて暮らしていた」

 飼われて。未明は、明瞭に言った。

「旦那に話したように、俺は口が悪く、喧嘩っぱやい。とおまで賭場に通って博打をしていたのも事実だ。殺し以外は何でもやったよ。博打に勝つか、体を売るか、掏摸すりや詐欺で金を稼げば、飯がもらえた。そんな暮らしだった」

 李花は、人生経験が少ないなりに考えた。飼われるような暮らしを強いられ、汚いやり方で金稼ぎをさせられ、食事を得るのは稼ぎがあったときだけ。自分なら、耐えられない。あの旅籠屋で良かった、と思い、未明を見下したと気づいて猛省した。

「自分のこの髪が、嫌いだった。外国とつくにの血筋なのか、前世がシラスだったのか、全く知らない。だが、には目立ちすぎる。あの頃は、丸坊主にしていたんだよ」

 この国の民は、黒髪が主だ。たまに茶色や赤みがかった色の髪の者もいるが、未明のように金色にも銀色にも映える明るい色は珍しい。

「そんな暮らしは、突然絶えた。つまみ細工のかんざしを盗もうとして、見つかったんだ。折檻されると思ったけど」



 ――坊主よ、自分でつくった方が儲けられるぜ。



 未明は誰かの口真似をした。

「その人は、簪の職人だった。否応なしに連れて行かれたのが、その人の暮らす深埜しんのの里。俺はその職人に弟子入りし、職人として食ってゆくことになった。それが、博打をやめた齢十の頃だ。あれから、もう十二年。師匠はとっくに墓の下。妻子にも先立たれた」

 未明は薄茶色の瞳を細め、遠くを眺める素振りをした。

 かりかり、と、李花は胸を掻かれた気がした。

 未明は李花より十ほど歳が離れているだけなのに、大変な人生を送っている。

「俺は師匠に着いてきて、良かったと思っている。飼われていた頃と違って、たくさん美しいものを見た。美味いものも食った。喧嘩は減らなかったが、気の知れた相手も増えた。だから」

 未明は一度言葉を切り、ためらい、口を開く。

「こんな俺でも、堂々とお天道様の下を歩くことができている。李花にもそうして生きてほしい。身を寄せるところがないなら、一旦うちにおいで。その後いかに生きるかは、李花が決めればいい」

 李花は唾を飲み、うずく咽喉に手を当てた。

 言わなくては。自分の言葉で。

 ありがとうございます。迷惑でなければ、あなたについて行きたいです。喧嘩だの博打だの話は聞いたけど、うまくは言えないけれど、なぜかあなたが怖いとは思いません。

 だから。

「よろしくお願いします」

 頭の中で言葉が泳ぎ回るが、口から出てきたのは当たり障りのない挨拶だけだった。

 それでも未明は、こちらこそ、と泣きそうに目を細めた。

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