七の話

「すみません。朝から押しかけたのに、色々と用意してもらって」

「気にするな。お師匠とあんたには、世話になったんだ。たまにはお礼させてくれ」

 奥から暖簾のれんをくぐって店の方へ行こうとした李花は、未明と飯屋の旦那の声を聞き、暖簾にかけた手を止めた。

「お師匠もそうだったな。大きな仕事が終わると、この辺までふらりと旅をする。しかし、なんでまた、あんな子をさらっちまったんだ」

 飯屋の旦那は、ぶっきらぼうだがよく通る声で未明に訊ねる。

 李花は体を強張らせてしまった。あんな子。李花のことだ。

「たまたま見かけて、放っておけなかったんです」

 出汁と醤油の匂いが台所から漂う。旅籠屋の料理より豊かな匂いだと、李花は思った。



「旅籠屋の廊下で見かけて、放っておけなかったんです。このままだと、この子は飼い殺されてしまう。そうなる前に助けなくては、と思いました」

 李花は熱くなる目頭に手を当てた。自分に助けられる価値なんて、ない。そう思ったのに、未明の優しい声と手のぬくもりを思い出し、胸の内がほのかに温かくなる。

「考えもせずに中途半端に可哀想なことをしてしまったかもしれません。でも、李花には胸を張ってお天道様の下を歩んでほしいんです。おいしいものを食べて、美しいものを見て、心を動かす人生を歩んでほしい。今は、そう思います」

 李花が立ち聞きしていることに、未明は気づいているのだろうか。李花は暖簾をくぐる時機を逃し、暖簾から先に足が出ない。

 飯屋の娘が、とんと背中を押してくれた。李花はそれをきっかけにして一歩踏み出す。

「しかし、なあ」

 飯屋の旦那が腕を組んで身を乗り出す様が、李花にも見えた。

「口は悪い、喧嘩っぱやい、飲む、打つ、寝る、の、あんたが、妹を育てたいとはね」

 口は悪い、喧嘩っ早い、飲む、打つ、寝る。

 容姿からは想像もつかない言葉が出てきた。

「旦那、少しだけ違います」

 未明は静かに否定する。

「口は悪い、喧嘩っ早い、飲む、は、合っています。いたのはとおまで。のは年上限定です」

「こりゃあ、失礼」

 男ふたりは、けらけら笑い合う。

 口は悪い、喧嘩っ早い、飲む、齢十まで博打っていた、年上とだけ逢瀬る。

 李花は唾を飲んだ。渇いた咽喉に唾がつかえ、むせてしまう。

 男ふたりは、ようやく李花に気づき、目を見張る。

「お嬢、べっぴんになったじゃねえか!」

 旦那が李花に手を伸ばすが、娘が割って入る。

「おとうちゃん、下品だよ」

「何が」

「年端もゆかない女の子の前で、飲む打つ寝るなんて」

「飲む、しか合ってねえぞ」

「未明さんにも李花にも失礼よ」

「未明が言ったんじゃねえか」

「他人のせいにしないの」

 父娘の会話は交じり合う気配がない。

 未明が、ちらりと李花を見た。形の整った唇が、可愛い、と動く。しかし、小さくかぶりを振り、言葉を探すように視線が泳ぐ。

 くう、と腹の虫が鳴いた。李花の腹からだった。

「忘れてた! 朝餉の支度ができてるの。ふたりとも、食べて行って」

 娘が木製のどんぶりで持ってきてくれたのは、小麦粉を練ったような玉を野菜や油揚げと一緒に醤油で煮込んだ料理だった。

「つみっこ、懐かしいな」

 未明は箸を手にして、“つみっこ”という料理に手をつける。

 李花もならって、つみっこを頂く。煮込んだねぎが甘く、出汁と醤油が効いたつゆを飲み始めたら、止まらない。

 何年ぶりだろうか。思い切り食事をしたのは。

 初めてかもしれない。料理がおいしいと思えたのは。

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