第8話 その地獄は美しかった
かつて、俺は、クズだった。
自分可愛さに他を見捨てる、どこにでもいそうな、甘ったれたクズだった。
……柄じゃあないが、俺の生まれは貴族の三男坊だった。
今とは違い、クソ真面目で弱虫で臆病なガキだ。本は読めど、間違っても剣に触れるような性格ではなかった。
繰り返すが俺は貴族だった。親の懐には金が有り余るほどあった。
だから王都へ向かう最中、賊に攫われたんだ。
誇り臭い床に転がされたまま、殴る音、悲鳴、嗚咽を聞いていた。
俺は恐ろしくて、固く目を閉じて何も見ないようにしていた。そうじゃないと、きっと見てはいけないものを見てしまう。確信があった。
気が狂いそうな空間だ。実際に精神がいかれたようにうわ言をブツブツと繰り返していた奴もいた。
泣きじゃくる、あるいは黙って地に伏せる子供達。卑しく笑って子供達をいたぶる賊達。
そこはガキだった俺にとってまさに地獄と言えた。
「お父様……お母様ぁ……!!」
体中にミミズ腫れが浮き出るほど鞭で叩かれた俺はひたすら泣きじゃくりながらこの現状を嘆いていた。
「大……丈、夫?」
声をかけてきたのは、長い黒髪の年下の女の子だった。
顔に大きな青紫色のアザができていて酷く痛々しい。横たわり、今にも息絶えそうな程その体は弱々しく見えた。
「あと……もう少し、で……助け、が……くる、からね」
ひゅうひゅうと喉から漏れでる息が恐ろしい。
俺よりも酷い目にあっているにも関わらず慰めてくる彼女が、酷く恐ろしいまでに美しかった。
大丈夫だよ。そう何度も彼女は慰めを口にして俺の背を撫でた。
「……助け、なんか……」
俺はその続きを言えずに唇を噛んだ。
助けなんか来るはずがない。気休めなんかいらない。そう突き放したかった。
幼い俺は酷く臆病なくせに物を知らず、思考は甘く、そして無駄な行動力はあった。
そんな俺は異常な空間に耐えきれずに、逃げ出そうとして捕まった。
捕まってからは更に酷かった。
砂袋のようにさんざん蹴られ、殴られ続けた。
意識は朦朧とし、一体どれほど時間が経ったのか分からなかった。何度かその衝撃に耐えきれずに胃の中のものを吐き出した。
「一人ぐらいいいよなぁ」
男が何かを呟くのが見えた。音は聞こえなかった。
周りが騒ぎ始める。聞こえない。
男が俺の頭を掴み罵る。聞こえない。
一体何が起こるのだろう。
男が卑しい笑みを浮かべた。
ぼやけた視界にギラリと光る刃物が見えた。漸く状況を理解するも体はピクリとも動かない。
そうしてスローモーションで時間は進む。
目前に迫る刃物を見つめながら、諦めたように息を吐いて目を閉じた。
「……あ……」
暫く経っても来ない痛みに不思議に思い、目を開ける。その時、もう自分は死んでいてここは天国なのかもしれないと思った。目の前に天使がいたからだ。
「……だ、い……じょ、ぶ……」
酷く美しい天使が、血濡れたままこちらに覆いかぶさっていた。
先程慰めていた彼女だと気が付くのに時間はいらなかった。
大丈夫、大丈夫だと蚊の鳴くような声で繰り返し、動かすことも辛いだろう手を動かして俺の頬を撫でた。
凍りついた俺は視線だけを動かして辺りを見る。周りの子供たちは倒れたり青ざめたりしている。半狂乱に叫んでいる者もいる。
次に恐る恐る彼女の外傷を見た。その背中は刃物でぱっくりと裂かれ、ぬるりとした血が伝っていた。
「なんだよこの女。……まあ、一人も二人も同じか……」
血が滴る刃物を携えて男が近づく。
逃げなければ。逃げなければ。
それでも俺は彼女の美しい姿に見惚れて動けなかった。
ただその世界は美しかった。
「あ……!?」
小さな発砲音と共に男が刃物を床に落とした。同時にいくつもの足音が聞こえる。
騎士隊の服を翻す姿が目に焼き付く。男達は次々に捕縛されていく。
「盗賊団の捕縛完了致しました! 子供たちの保護に移ります!」
助けが来たのか。
理解すると同時に、俺は震える声を絞り出した。
「……あの、すいません、この子を、助けて、ください。お願いします。お願いします……!」
痛む体をそのままに、土下座をすると、騎士は慌てたようにこちらへ駆け寄った。
「顔を上げて。……彼女だね? 背中の傷が酷いな……至急手当をしなければ……回復班! こちらへ!」
彼女を抱き抱え、騎士は回復班を呼ぶ。
その騎士の背中は大きかった。
「大丈夫。彼女は助ける。……君も怪我が酷いな。こちらへおいで。歩けるかい?」
「……歩けます」
歩けるさ。俺よりも小さな彼女に庇われて、歩けないなんて言う方がおかしい。
俺のせいで傷ついた背中は酷く痛々しい。跡が残るだろう。死なないだろうか。
そしてまた、自身の無力さに酷く打ちひしがれ泣きそうにもなった。
彼女を救えるのは彼らであって、俺ではない。
俺はちっぽけで無力なただのガキだった。
俺に力があったら。
俺が騎士であったなら。
彼女を守れただろうか。
彼女の背中には、未だこの事件の時の傷痕が背中にあるらしい。
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