第13話 凱旋式
イトゥス暦一一八五年
その日、帝都カルコリスは沸き立っていた。空は抜けるように青く、盛夏の日差しが、太陽神イストアティスの光輝の矢のように地上に燦々と降り注いでいる。
街の中心を貫き、クルバール・サラン大神殿前の大広場を突き抜けて丘の上のコラリア宮殿へと向かう大通りには、身分や年齢を問わず多くの住民がひしめき合っていた。通りに面した窓という窓、露台という露台からも身体を乗り出した見物人が地上を見下ろし、隣国イェダルの手から南の一大交易地サハルシアを取り戻した帝国軍を盛大な拍手と歓声で迎え入れる。若い娘や子供たちは手にした花々を惜しげもなく兵士たちに投げ掛け、多くの観衆がヴルグラル帝国の象徴である緋色の旗を掲げて振り回している。
街に入った凱旋軍の先頭を行くのは、太鼓や喇叭を賑々しく奏でる軍楽隊だ。その後を大地の精に扮した十二人の少女が白い衣を翻し、薔薇の花びらを撒きながら滑るように練り歩く。やがて見えてきたのは、二頭の馬の引く戦車を堂々と乗りこなすヴルグラル帝国皇太子カハディーン。その後には第三皇子のエウリアスが続き、黒衣と金の頭帯で正装した宮廷魔術師の一団や戦功を上げた将軍、剣を下げ槍を掲げた兵士たちが続々と通り過ぎてゆく。
彼らの中でもとりわけ目を引くのは、皇帝とその一族にのみ許された黄金の月桂冠を頂き、豪奢な武具と緋色の外套を身に纏った皇太子カハディーンの姿だ。
彫りの深い眼窩の奥で、覇気に満ちた黒い瞳が輝き、端正な顔立ちがその威厳を際立たせる。馬上で背筋を真っ直ぐに伸ばし、鷹揚に微笑みながら市民たちの喝采に応える様は、すでに次期皇帝としての風格を充分に備えている。彼がここヴルグラル帝国の皇帝として玉座に座る日が来たならば、帝国は間違いなく繁栄の一途を辿り、この世のみならず、神々のおわす天の宮殿にまで名を馳せる大国になるだろうと、誰もが期待せずにはいられなかった。
***
馬上から見渡す光景は壮観だった。四方を埋め尽くす数多の人間。惜しみなく注がれる喝采と讃美と凱旋歌。それらは甘美なうねりとなってエウリアスの耳を刺激し、彼の心に染み渡ってゆく。
エウリアスは大きく息を吸い込んだ。肺が熱気を孕んだ空気で満たされる。
心地が良かった。群衆の歓声、晴れ渡った空、灼熱の風にうねる空気、そして、旗手の掲げる孔雀の国章や雑然とした街の匂いさえもが自分たちを祝福しているようで、エウリアスには全てがこの上もなく愛しいものに思えてくるのだ。高揚した心は年甲斐もなく浮き立ち、思わず満面の笑みが零れ落ちた。
「おいイズ、お前も澄ましてないで観客の声援に応えてやれ。ほらあそこ、花も恥じらう乙女たちがお前の熱い眼差しをご所望だぞ」
娘たちの一団を指差しながら、右側で馬首を並べるイズメイルに機嫌よく声を掛けた。友の肩越しに見える彼女たちは、頬を薔薇色に上気させながらこちらを窺っていた。年頃の娘たちなので、大方イズメイルの美貌に見惚れているのだろう。だが、当の本人はそんな少女たちには目もくれずに前方を見据えていたものだから、エウリアスはついからかってやりたくなったのだ。
イズメイルはちらりと彼を一瞥すると、少女たちを振り返り優雅に片手を掲げてみせた。若い娘特有の黄色い声がエウリアスの耳を突き抜けた。うら若い乙女たちを一瞬で恍惚とさせるイズメイルは、こちらからは見えないがさぞかし美しい笑みを浮かべているのだろう。自分には決して見せない、滴る蜜のように甘い微笑みで少女たちの心を鷲掴みにしたに違いない。
罪深い奴だとエウリアスは思う。イズメイルにはそんな気は一切ないのに、騙されるように彼に心を奪われる女たちが哀れだ。とはいえ、彼女たちに応えてやれと焚きつけたのは自分なのであまり文句は言えないのだが。
「お前こそ、あそこ見てみろ。屈強な紳士がお前に夢中だぞ。乙女みたいに微笑みかけてやれよ」
イズメイルが意地悪く笑いながら顎で示した先をちらりと見やると、興奮気味にこちらを見つめる大柄な中年の男と目が合った。口元を笑みの形にしながら軽く手を上げ、すぐさま友に向き直ると大袈裟に顔をしかめながら小声で言う。
「悪いが俺の笑顔は美女専用なんだ。むさ苦しい野郎に安売りしてたまるか」
「高望みするなって。そうやって出し惜しみしてると一生仏頂面のままだぜ」
にやにやと笑うイズメイルの顔が憎たらしい。この顔を先程の少女たちに見せてやりたいと心底思う。麗しの魔術師様の本性がこんなにもいけ好かない野郎だと知ったら、彼女たちはどんな反応をするのだろう。きっと、外見と中身は必ずしも一致しないのだと身を以て知るに違いない。
「構うもんか。お前みたいに男に執着されるくらいなら、俺は一生仏頂面で結構だ」
肩を竦めながらそう言えば、イズメイルは途端に苦虫を噛み潰したような表情で目線を逸らした。
若い文官に惚れ込まれたイズメイルが、二か月もの間しつこく口説かれた今冬の出来事は、エウリアスの記憶にも新しい。男色趣味とは無縁の友にしてみれば、災厄以外の何物でもなかっただろうが、思い出すたびにどうにも可笑しさが込み上げてくるのは、件の文官から贈られた奇怪な恋文のせいだ。
「”其は月下で輝く銀の籠。其に捕らえられし我が身は恋する一羽の哀れなカナリア”だったか? あれは傑作だったよな!」
歓呼に酔いしれ、いい気になったエウリアスはいつにも増して饒舌だった。忍び笑いを漏らしながら、記憶にある一節を紡ぎ出した次の瞬間、エウリアスの上体は見えない風の塊に強く押され、左側に大きく傾いた。慌てて両足に力を込めて身体を支え、辛うじて落馬は免れた。だが、額には冷や汗が伝い、心臓は今にも飛び出さんばかりだ。
「危ねぇな。何てことをするんだお前は。公衆の面前だぞ。俺に恥をかかせる気か」
エウリアスが恐々としながら言えば、イズメイルは鋭い眼差しで彼を睨みつけた。
「それならお前も公共の場での不適切な発言は控えろ。誰かに聞かれたらどうするつもりなんだよ」
エメラルド色の瞳の奧に、僅かな焦りと羞恥を滲ませる友の様子が可笑しく、つい口元がにやけた。
「誰かに聞かれたところで、恥をかくのはお前ひとりだから俺は問題ないさ」
「なんて奴だ。最低だな。だが自分だけ逃げられると思うなよ。俺が恥をかくときはお前も道連れだ、悪友!」
そう言って悪辣に笑うイズメイル。エウリアスは先ほどのお返しとばかりに袖を掴もうと手を伸ばすが、あっさりと友に叩き落とされる。そうやって他愛もない小競り合いを続けていると、いかにも含みがあると言わんばかりの咳払いが背後から突きつけられた。
「衆目があります。お控えくださいませ」
ニクスールの落ち着き払った声に気分の昂りは静められ、代わりに羞恥心が膨れ上がった。十九にもなって公の場で子供のようにはしゃいだことが酷く恥ずかしかった。顔を赤らめながら横目で友を見れば、彼もまたばつが悪そうな顔でむっつりと口を引き結んでいる。考えていることは同じようだ。
二人は馬上でしっかりと背を伸ばし、何事もなかったかのように取り澄ました顔で手綱を握る。歓声や蹄の音も賑やかな凱旋行進の最中だ。自分たちの大人げない行いなどさほど目立ってはいなかったと信じたい。
「……パルミアたちも来ているかな?」
ややあって小さな声でイズメイルが呟いた。エウリアスの瞼裏に懐かしい顔が二つ浮かび上がった。顔を上げ、かつて世話になった若い二人の姿がないかと目を凝らす。だが、道の脇を埋め尽くす人だかりの中に二人の姿は見当たらない。おそらく来てはいるのだろう。どこかで見ているはずだ。しかし、探し当てるのは難しそうだった。
「先生にも見ていただけたらどんなによかったか……」
「……そうだな」
イズメイルの言葉に万感の思いを込めてエウリアスは頷いた。もし、この場にエゼルキウス老師がいたら、皺だらけの顔をくしゃくしゃにしながら、偽りのない賛美と激励の言葉をくれたに違いない。
今は亡き恩師の温かな笑顔を思い浮かべると、鼻の奥が僅かな痛みを伴って疼いた。感傷に浸りそうになるのを誤魔化すようにイズメイルを振り仰げば、彼は目を細め、励ますように笑ってみせた。
「この街の人たちは皆、皇太子殿下とお前を称えるために集まっているんだ。せっかくなら皇子らしい威厳のある姿を見せてやれよ。お前は英雄なんだから顔を上げて胸を張れ」
友に親愛の籠った眼差しでそう言われると、悪い気はしなかった。エウリアスは友の声に背中を押されて顔を上げ、群衆を見渡し、誇らしげな笑みを浮かべながら手を掲げた。どこかで見ているであろうパルミアとナシード、そしてエゼルキウスにも届くようにと願いながら、大きく手を振る。浴びせられる歓声はますます大きくなり、彼の名を歓呼する声がこだました。
そうだ、自分は称賛されるべき人間なのだ。皇太子である兄の命を護り、戦功だって上げてみせた。
誇らしさと自信が再び彼の内を満たす。目を閉じれば勝利の瞬間が目に浮かぶようだ。彼は手綱を握り締めながら、三か月にも及んだサハルシア奪還戦に思いを馳せた。
***
エウリアスらがサハルシアに向けて立ったのは、今年の春の終わりのことだった。
翼を広げた鷲のように帝国南部に広がるサハルシア属州は、温暖な気候にもたらされる葡萄酒とオリーブの生産を掲げて周辺諸国と渡り合う帝国随一の交易地だ。
そのサハルシアに、南東部の国境を接するイェダル王国が侵攻を開始したのは七年前の夏のことだった。突如として国境を越えたイェダルの軍勢は、州都ルサを制圧すると、瞬く間に周辺一帯を支配下に置いたのだ。
サハルシアを取り返したい帝国側とイェダルの攻防戦は何年にも渡って繰り広げられた。絶え間なく各地で小競り合いが起き、時には両国の軍勢がぶつかり合う会戦や攻城戦も行われたが、ヴルグラル帝国と並んで東方の軍事大国であるイェダルを敗走させるのは容易ではなかった。このままではサハルシアを足掛かりに帝国南部がイェダルの手に落ちるのも時間の問題かと思われた。そこでメトディオス帝は、全軍の総大将を皇太子カハディーンに、そして、指揮官のひとりに第三皇子のエウリアスを任命し、魔術師部隊を含む総勢約二万もの大軍をサハルシアに向かわせたのだ。選抜された魔術師部隊にはイズメイルも含まれていた。奇しくも彼はエウリアスの麾下だった。
国境を流れるエステル川流域での会戦でイェダル軍を大敗させてからは電光石火だった。迫り来る帝国軍と大陸中にその名を馳せる帝国魔術師部隊に恐れをなしたイェダルの軍勢は、一気に総崩れとなった。そして、十日間の攻城戦を経てルサを陥落させ、イェダルの勢力をサハルシアから駆逐すると、ようやく帝国の東西交易の要をその手に取り戻したのだ。
エウリアスは、若いながらも兄の片腕として勇敢に戦ってみせた。エステル川会戦の折には、兄の首を狙った敵兵の腕を斬り飛ばし、その命を救いもしたのだ。エウリアスにしてみれば、父帝の後胤である兄を守るために当然のことをしたまでだったが、それでも手放しに称賛されたら誇らしく思わずにはいられなかった。兄の手から直々に黄金の月桂冠を頂く栄誉に与れたことも、何よりも嬉しいことだった。
***
「お前、六年前の約束覚えてるか?」
エウリアスは前方に目を向けたまま、傍らのイズメイルに問いかけた。目前には護衛兵に囲まれた戦車の上で堂々と手を掲げる兄の姿が見える。行進は、クルバール・サラン大神殿前の広場に差し掛かろうとしていた。柱廊の前に広がる円形の広場には、大勢の人間がひしめき合うように集っていた。
夏の乾いた風が踊るように吹き抜け、エウリアスの右耳の横で一房だけ伸ばして編まれた三つ編みを揺らす。それは、エウリアスなりのイズメイルへの親愛と敬意の証だった。
「俺は帝国一の将軍に、お前は帝国一の魔術師になるって誓っただろう。もうじきそれも叶いそうだな」
イズメイルは返事をしなかったが、彼が自分の話に耳を傾けてくれていることはエウリアスには分かっていた。頭上で輝く黄金の月桂冠の重みを感じながら、彼は言葉を続けた。
「お前は今回も俺と一緒に戦ってくれたし、これでもお前には随分と感謝している。だから、これからもずっと……」
次の瞬間。イズメイルの纏う穏やかな空気が、一瞬で抜身の剣のように研ぎ澄まされたものへと変化した。そのただならぬ様子に、エウリアスは尋常ではない事態を察知する。顔を引き締めて友を振り返り、そして息を呑んだ。
殺気にも似た光を宿しながら、ただ一点を見つめるエメラルド色の眼差し。その先には、群衆の海に揉まれながらもよく目立つ背の高い男がいた。年は三十を少し過ぎたくらい。生成り色の貫頭衣の上から季節外れの黒い外套を羽織った、カルコリスでは珍しい金色の髪の男だ。彼はその逆三角形の顔に奇妙な笑みを浮かべ、カハディーンに向かって緋色の布が握られた右手を振り上げる。今日この日に限っては何の変哲もない、ありふれた動作だ。しかし、何かがおかしい。何故、あの布は太陽の光を反射しているのだろう。まるで、その中に何かが隠されているような――。
エウリアスの背筋を冷たいものが駆け抜けた。全身が総毛立ち、顔から血の気が引く。あれはただの布などではない。あの中に潜む輝きは――。
「皇太子殿下、危ない!」
イズメイルの口から悲鳴のような叫び声が発せられると同時に、男の手から鈍色の短剣が放たれた。
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