第14話 決断
男の手から放たれた短剣は、日光を反射して輝きながらカハディーンの喉元目掛けて真っ直ぐに飛んでいった。観衆から恐怖に満ちた悲鳴が上がる。
「兄上!」
エウリアスは凱旋式の最中であることも忘れ、無我夢中で叫び手を伸ばした。当然ながら兄にも短剣にもその手は届かない。
次の瞬間。
鋭い一陣の風がエウリアスの右頬を掠めながら駆け抜けていった。風は今まさに皇太子の喉を貫こうとしていた短剣を弾き飛ばし、戦車の前方、人気のない場所に着地させる。金属が地面と触れ合う鋭い音が響き渡り、刃物の飛来に驚いた馬車馬が前足を振り上げながら嘶く。戦車は大きく揺れ動き、危険を察知した御者とカハディーンが飛び降りた直後にけたたましい音を立てながら横転した。馬が地面に倒れ、人々は逃げ惑い、歓呼に沸いていた神殿前広場はたちまち阿鼻叫喚に包まれた。
「賊を捕らえよ! あの金髪の男だ! 仲間がいれば決して逃がすな!」
エウリアスは、群衆を掻き分け逃亡を図る男を示しながら近衛隊に大声で命令し、すぐさまイズメイルに目配せをする。短剣を弾き飛ばしたのが彼の魔術であることは一目瞭然だった。心得たとばかりに頷いたイズメイルが、男の背中を鋭く見据えながら呪文を唱える。真横につき出された右手に導かれるように風が集まり始め、あっという間に研ぎ澄まされた刃となって飛び出す。風の刃は、群衆に紛れて追跡を誤魔化そうとしていた男の左肩を狙い違わず切り裂いた。
彼は呻き声を上げて人の海の中に倒れ伏した。悲鳴と怒号が沸き起こり、狂乱した群衆が寄ってたかって男を蹂躙する。屈辱と激痛にあえぎながら必死で上体を起こそうともがいていた男は、間もなく追いついた近衛兵に呆気なく引き立てられた。
男が確保されたことを確認したエウリアスは飛び降りるように下馬し、横転した戦車の陰から姿を現したカハディーンの元に一目散に駆け寄った。
「兄上、ご無事ですか!?」
「どけ! 邪魔だ!」
弟を乱暴に押しのけ、衛兵二人に両脇を拘束された男の元へと大股で向かう皇太子の顔には、抑えきれない憤怒が漲っている。兄に押されてよろめいた身体をニクスールに支えられながら、エウリアスは言葉もなく兄の後姿を見つめた。今すぐにでも犯人を切り刻み焼き尽くしてやろうと言わんばかりの眼光が、彼の怒りを如実に表していた。
カハディーンは自らの暗殺を企てた男の前に立ちはだかり、腰の剣を抜き放つとその切っ先で男の顎を持ち上げた。狂気と憎しみで血走った青い瞳が、皇太子の顔を憎々しげに睨み上げた。
金の髪に青い目。色素の薄いその容姿は、どう見ても生粋の帝国人には見えなかった。身に纏う外套も帝国のものとは形が違うようだ。元は秀麗な容貌だったのだろうが、怒りで気も狂わんばかりに歯を剥き出し、目を血走らせているその様は醜く、正視に耐えない。
「誰の指示で何の目的で私の命を狙った?」
底冷えするようなカハディーンの声。だが、男は怯むことなく唾を飛ばしながら常軌を逸した様子で絶叫した。
「復讐だ! お前が……! お前が、我が家族と故郷を奪ったから……だから、お前に復讐をしに来たのだ! カハディーン! この呪われた死神め!」
狂人の魂を削るような叫びが、エウリアスを戦慄させる。不快感と侮蔑の念に表情が歪む。
「愚かな……」
息と共に吐き出された小さな呟きは、幸か不幸か誰にも聞かれることなく空気の中に溶けていった。
復讐などに九年もの歳月を費やした挙句に、このような形でせっかく長らえた生を無駄にするなんて。正気の沙汰ではない。エウリアスにはその気持ちが理解できなかった。
背後で足音が聞こえたので振り返れば、丁度イズメイルがこちらに歩み寄って来るところだった。彼は皇太子の危機にいち早く気づいて動いた功労者だ。その功を称えるべく彼に近寄り、肩を叩こうとして初めてその顔が酷く青ざめ血の気がないことに気がついた。
「もしやお前、怪我でもしたのか!?」
血相を変えて問いただしてみれば、彼は固い表情で首を横に振った。その動作は倦怠で、虚ろな眼差しが真っ直ぐに男を見つめている。
「何でもない。突然のことに驚いただけだ」
蚊の鳴くような声で呟かれた言葉。だが、エウリアスにはそれを素直に信じることができない。
イズメイルの胆力は人並み外れている。それは、皇太子に放たれた短剣を弾き飛ばし、冷静に犯人を攻撃した手腕を見ても明らかだ。単純に驚いただけであれば、彼はあからさまに顔に出すようなことはしないだろう。エウリアスには、友が顔色を変えた理由が他にあるように思えてならなかった。
「本当に大丈夫なのか? 何か気がかりでもあるなら……」
「大丈夫だって。平気だから放っておいてくれ」
そう言って激しくかぶりを振り拒絶するように顔を背けた友に、エウリアスはそれ以上掛ける言葉を持たなかった。
カハディーンが近衛兵たちに目を向け、男を連行するよう無感情に命じる。
「協力者がいるようなら炙り出せ。拷問しても構わん。だが決して殺すな。こいつは見せしめに公開処刑にするつもりだ。どうせなら凱旋式を台無しにされた埋め合わせに、市民にも楽しんでもらおうではないか」
両の口角を吊り上げ、血も凍るような残忍な笑顔を浮かべてみせたカハディーンに、一瞬男が怯えたように口を閉ざして後ずさった。その両脇を二人の衛兵が乱暴に抱え上げ、割れるように開けた群衆の間を引きずってゆく。
「くそ……っ! 呪われろ! この人ならずの怪物が! 我が一族の恨みを思い知れ! 死してなお苦しみ苛まれるがいい!」
引きずられながら我に返ったように罵詈雑言を吐き散らかす男の姿は、無様であると同時に哀れだともエウリアスは思う。全てを失い、復讐にしか生きる道を見いだせなかったのだから。だが、どんな理由があれども彼の行ったことは大逆罪だ。しかも、この世で最も怒らせてはいけない男の逆鱗に触れた。あの男には死が待っていることだろう。世にもおぞましい、身の毛もよだつような死が。
***
男が引き立てられ連行されて行くと、群衆もまばらになり始めた。先程までの華やいだ様相はすでに消え去り、大神殿前の広場には不穏な空気が立ち込めている。恐慌を起こした観衆の多くは早々に広場を離れ、残っているのは混乱の最中で怪我をした者と好奇心旺盛な野次馬ばかりだ。群衆の圧力のせいで身動きできず、その場に留まらざるを得なかった者たちもいたが、彼らはもはや身の安全のために一刻も早くこの場を離れることしか頭にない。これでは凱旋式など続けられようはずもなかった。
カハディーンは凱旋式の規模を縮小し、この後予定していたクルバール・サラン大神殿での礼拝や、各神殿への巡礼も取り止めることを宣言した。苦渋の決断だった。その代わり、宮殿で開かれる祝宴や闘技場での催し物は盛大に行うことを告げると、ようやく張り詰めていた空気は緩和されたのだった。
「弟よ、よくやってくれた」
近衛兵に労いの言葉を掛けつつ状況確認をしていたエウリアスの耳に、カハディーンの朗々とした声が届く。歩み寄って来る兄を認めた彼はいち早く臣下の礼を取り、側で控えていたニクスールとイズメイルもそれに倣う。カハディーンは一同に顔を上げるように促すと、揶揄を含んだ眼差しを年の離れた弟に注いだ。
「お前にしては上出来だ、エウリアス。愚図のうつけであった昔からは考えられぬ成長ぶり、この兄も嬉しく思うぞ」
「……ありがたきお言葉です、兄上」
褒めているのか貶しているのかよく分からない兄の言葉に、エウリアスは複雑な心境で頭を下げた。カハディーンは続いて、エウリアスの半歩ほど後ろに控える美しい容貌の魔術師に目を留めた。
「短剣を弾いたのはそこのお前か?」
突然の皇太子の問い掛けにもイズメイルは慌てることなく、如才なく「仰せの通りにございます」と一礼してみせた。その姿に、先程までの狼狽した様子は微塵も見受けられない。若く美しい魔術師の流れるような動作に、カハディーンが感嘆の声を上げるのがエウリアスにも分かった。
「そなたのお陰で我が命は救われた。感謝せねばなるまい」
そう言ってカハディーンは、僅かに背の低いイズメイルの顎をぐいと持ち上げた。皇太子の鳶色の瞳と魔術師の瞳がかち合った。怯えることも逸らされることもないエメラルド色の瞳が、毅然と皇太子を見据えている。常であればそのような不遜な態度を、カハディーンは決して許しはしなかっただろう。だが、この時の彼は、まるで魅入られたかのように魔術師の姿に釘づけになっていた。かつてカハディーンはイズメイルのことで頭がいっぱいのエウリアスを「貴様はあの子供の魅了の魔術に掛けられたに違いない」と笑ったが、今はその彼がイズメイルに魅了されているようだった。
「……そなたはこの私を恐れぬのだな」
皇太子の声音には感嘆と、どこか面白がるような響きが滲んでいた。
背の高いカハディーンが俯き加減に相手を見下ろすと彫りの深い彼の目元は落ち窪んで見えるため、大抵の人間はその風貌と覇気に縮み上がるのだ。しかし、目の前の若い魔術師は、委縮するどころかうっすら笑みさえ浮かべながら真っ直ぐに見返してくる。それがカハディーンには新鮮で愉快で、不思議と咎め立てる気にはならなかった。
イズメイルはカハディーンから目を逸らさぬまま、昂然と口を開いた。
「貴方様は、御身をお救い申し上げた臣下に罰をお与えになられるような方ではございませんでしょう? ならば我が行いを誇りこそすれ、恐れる必要がどこにありましょう?」
いっそ傲慢とも取れる態度に挑発するような物言い。さしものカハディーンも呆気に取られたように目を見開き、周囲からは非難を含んだどよめきが沸き上がった。若造の無礼に得物を鳴らして色めき立つ近衛兵を、カハディーンが鷹のような目で睥睨し黙らせる。皇太子はふてぶてしく顔を上げる若い魔術師としばし睨み合った。そして、堪え切れずといった様子で吹き出した。
「そなた、見た目によらず胆の据わった男だ。この私にそのような口を利くとは、命知らずと言えばよいのか無謀と言えばよいのか。だがお前のような気骨のある男は嫌いではないぞ。――イズメイル」
そう言って機嫌よく笑うカハディーンが自分の名を呼んだことに、イズメイルは不思議そうに目を瞬かせる。
「……私の名を、ご存じなのですか?」
「ああ、知っているとも。そなたの美貌と才は宮廷でも噂の的だからな。美しく能力もある新人ともなれば、気にならぬという方がおかしな話だ。それにそなた、何年か前に弟と騒ぎを起こしただろう?」
にやりと笑いながら悪戯っぽく言われたその言葉に、イズメイルは顔を赤くしながら初めて目を逸らした。その顔は酷くばつが悪そうだ。「あれは下働きの子供のやったことです。皇帝陛下がそう仰ったのです」と、言い訳がましく口ごもるイズメイルの姿に、カハディーンが再び声を上げて笑う。
面白いものを見つけた子供のように目を輝かせる彼は、見目麗しく才気煥発な魔術師を相当に気に入ったようだ。皇太子に気に入られるということは、宮廷の人間にしてみればこの上なく名誉なことに違いない。だが、友の類稀な美貌と兄の色好みをよく知るエウリアスの心中に、一抹の不安がよぎる。
「イズメイルよ。私はそなたが気に入った。恐れ知らずで大胆不敵。頭の回転も速いと見える。どうだ、我が近衛魔術師としてその能力を生かしてみる気はないか?」
ああ、とエウリアスは絶望したように溜め息をついた。それは実質皇太子による命令と言ってよかった。
皇帝とその一族の身辺を護り、助言を与え、常につき従う近衛魔術師。彼らは宮廷魔術師の中でもとりわけ高い地位と権力を有している。皇太子の近衛魔術師ともなれば彼の齢では破格の出世だ。にも関わらず、こんなにも受け入れがたいと思ってしまうのは、唯一無二の親友を強欲な兄に奪われたことへの子供っぽい嫉妬心か。もしくは、あの気まぐれな皇太子を感服させた才気溢れる友への劣等感だろうか。それとも、これから友の身に降り注ぐであろう黒々しい妬み嫉みへの懸念か――。
弟の固い表情に気がついたカハディーンが、にやりと意地悪く笑った。その目に侮蔑と嗜虐心がちらついているのを、エウリアスは見逃さなかった。
「そのような顔をしてどうした、弟よ。友人を取られるのがそんなにも不満か?」
エウリアスが兄から目を逸らし、苦々しい表情でいいえと短く答えると、カハディーンは満足したようにくつくつと笑いながら再びイズメイルに向き直った。
「イズメイルよ、そなたに尋ねよう。そなたはこの私と我が弟、どちらに仕えたいと申すか?」
エウリアスは青ざめて親友を見やった。
もし友が、皇太子を差し置いて妾腹の末子にすぎぬ自分などを選べば、彼の出世は絶望的だ。それどころか、矜持を傷つけられた兄の不興を買い、下手すれば命すら危うい。皇太子の言葉は、問い掛けのようであって問い掛けなどではなかった。答えるべきことはすでに決まっているのだ。
だが、カハディーンに仕えることを選んだとして、イズメイルは幸せになれるだろうか。あの兄の側で、イズメイルはいつまでも笑っていられるのだろうか――。
不安の色も露なエウリアスの目を、イズメイルは静かに受け止めた。
この時、友のエメラルド色の瞳の奥に渦巻いていたものがいったい何であったのか、後になって考えてもエウリアスには分からない。だがイズメイルは、自らの運命を決定づけるこの瞬間、その静かな瞳の奥で血を吐くような苦しみに苛まれ、引き裂かれるような葛藤をしていたに違いない。それをエウリアスが知ることになるのは、何年も後になってからのことだった。
イズメイルは息を吐き、二、三度目を瞬かせるとエウリアスから目を逸らして挑むように皇太子を見上げた。その目に燃え盛る野心と強い意志を漲らせながら、口角を上げてみせる。
「私にお目を掛けて頂いたご恩には、必ずや報いてみせましょう」
イズメイルはそう言って恭順に跪き、こうべを垂れた。
「我が命は御身のもの。カハディーン皇太子殿下。我が生涯の忠誠を貴方様に捧げると、この場でお誓い申し上げます」
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