第12話 一滴の黒墨
ナシードが崩れ落ちるようにその場に膝をつき、パルミアが慌ててそれを支える。
エウリアスは言葉もなくそれを眺めるしかできなかった。今のはいったい何なのだ。これがあいつの、この国の未来だというのか。エウリアスにはにわかには信じがたい光景だった。
「予言の魔術は、他の鏡術に比べて視え方が非常に曖昧なのです」
息を整えながらナシードが言う。
「ですから、同じものを視ていても解釈が異なる、時には正反対の解釈がなされるということもあり得ます。しかし、今回の予言は、どう解釈しても不穏なものにしかなりえません。孔雀は我が国ヴルグラルの象徴。それを握り潰し、砂となって崩れ去るネムニス女神。イズメイルと同じ色の複眼を持つネムニス女神は、おそらく彼の象徴でしょう。そう解釈すれば、これは、この国と彼……イズメイルの、破滅の暗示に違いありません」
ナシードの言葉がどこか遠くでこだまする。憤り、動揺、不信といった様々な感情が喉元までせり上がって来ては、波のように引いていった。自分が生まれ育った愛する祖国を、愛する親友が滅ぼすであろうという残酷な予言。それは、エウリアスにとって、あってはならないことだった。
「俺は信じない」
彼は、芽生えようとしていた不信の芽を無理矢理に摘み取り、胸騒ぎと不吉な予感に蓋をした。
「俺は、あいつがこの国に災いをもたらすなど信じるものか。あいつは優秀で素晴らしい魔術師だ。あいつが我が国にもたらすのは栄光と繁栄だ」
「しかし……」
「ナシード、お前の実力を疑うわけではないが、予言の魔術とて外れることはあるのだろう? それに、必ずしも視たものが現実になるとも限らないし、解釈違いもあり得ると言ったじゃないか」
「ですが……」
「あれはイズじゃない。あいつはそんなことしない。お前もパルミアも、神経質になりすぎだ」
エウリアスはそう言って、夫婦に背を向けた。
「エウリアス殿下……」
「黙れ」
パルミアのか細い呼び掛けを一喝する。
「俺は何も聞かなかった。だから、お前たちもこのことは忘れろ。イズには俺がついている。宮廷での待遇も悪くないし、あいつが国を滅ぼす理由などありはしない」
エウリアスがきっぱりとそう言うと、パルミアとナシードは互いの顔を不安げに見合わせた。その様子がまるで自分の言葉が信用には値しないのだと言われているようで、癪に障った。不機嫌になりながら足音も荒く部屋を立ち去ろうとしたところで、パルミアに呼び止められる。彼女の声に切実な響きを感じ取り、エウリアスはゆっくりと振り返った。パルミアは夫の元を離れて彼に歩み寄ると、自分よりも頭ひとつぶんほど背の高い皇子を見上げ、その目を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「エウリアス殿下。どうか、お願いいたします。あの子を、イズメイルを、支えてやってくださいませ」
かつてのエゼルキウスの真摯な眼差しを思い出した。二年前、彼も同じことをエウリアスに言ったのだ。
「彼が道を外さないよう、どうか、お願いいたします。これが私たちの、そして、祖父の最期の願いでもあります」
三年の間、共に過ごした弟のような少年を案じるパルミアの思いが、痛いほど胸に突き刺さる。親友への愛情とくすぶるような嫉妬心が沸き上がり、寄る辺のない気持ちで満たされた。エウリアスは、部屋を立ち去るべく足早に扉に近づき、取っ手に手をかける。開いた扉の向こう、通路の奥の玄関広間で従者が暇そうに壁のモザイクを観察していた。主君の姿に気が付いた彼がこちらを振り返り、顔色を変えて駆け寄って来るのを振り切るように、エウリアスは邸の中庭へ足を向けた。
***
吹き抜けの中庭は、二年前までとちっとも変っていなかった。半円形の通路を抜けた先に広がる空間。中央に散策用の石畳の小道が敷かれ、その左右を灌木と草花が彩っている。中庭を見渡せるように一番奥に設えられた長椅子で、イズメイルは待っていた。彼は所在なさげに肘置きに肘をついて、鏡を覗き込んでいる。
思えば初めてこの邸を訪れ、イズメイルと本音をぶつけ合ったのもこの中庭と長椅子だった。ここは少年だったころの二人が共に過ごした、最も思い入れの深い場所だ。あの頃は本当に無邪気で、幸せだったと実感する。
エウリアスの足音にイズメイルが顔を上げ、ようやくやって来た友人を見上げる。
「……遅かったな」
鏡を懐にしまいながら憔悴したように弱々しく笑う友の姿に、エウリアスは気まずそうに頭を掻いた。イズメイルの側を離れてからすでに一刻以上経過していた。
「……悪い」
「何をしていたんだ?」
そう問い掛けられ、エウリアスは言葉に詰まった。お前がこの国を滅ぼす予言を視たなどと、到底言えるものではない。ましてや、彼もよく慕っていたパルミアとナシード、そして師であるエゼルキウスがそのような危惧を抱いているなど。彼を傷つけずに納得させるには何と答えたらよいのか分からず、彼は黙り込む。その様子をじっと見つめていたイズメイルが、ふと息を吐いて呟いた。
「言いたくなければ言わなくてもいいさ」
二人はしばらく何も話さなかった。並んで長椅子に腰掛け、イズメイルは手すりに肘をついたまま、エウリアスは爪先を見つめたまま、髪を風に弄らせている。そうやって静かに時間が流れてゆくのに身を任せていた。
「……なぜ、先生もパルミアたちも、亡くなる前に知らせてくれなかったのだろう。最期に一目だけでも会いたかったのに」
「……きっと弱ったところを見られたくなかったんだ。ほら、エゼルキウスは頑固だっただろう? だから、弱った姿を見せれば、生意気なお前に何言われるか分からないと思って、それで、意地張って呼ぼうとしなかったんじゃないかな。……まあ、意地張りすぎたんだと思うけど」
こういう時にとっさに機転を利かせられるほど、エウリアスは雄弁でも頭の回転が早くもない。親友を満足に慰めてやることもできない不甲斐ない自分を呪いつつ、最後の方は尻すぼみになりながらそう言えば、イズメイルは苦笑交じりに歪な笑みを浮かべた。無理に笑おうとしているようなその表情に、友人の下手な慰めも無下にしないイズメイルの優しさを感じて心苦しくなる。気まずさに耐えきれず、エウリアスが黙り込んで目を逸らすと、再び無言の時が流れた。
「もしかしたら、早めに亡くなってよかったのかもしれない」
イズメイルの口から出たその言葉は、自分自身に言い聞かせるような小さな呟きだった。エウリアスは驚いて顔を上げた。
「……何故、そんなことを言う?」
「病が長引けば長引くほど、先生は苦しんだだろうし……」
イズメイルは口をつぐんだ。青ざめたその顔を苦しげに歪めると、俯いて首を振る。
エウリアスはごくりと唾を飲み込んだ。どこか不自然な友の様子に胸がざわつき、脳裏にナシードの言葉が蘇る。
――イズメイルは、いずれこの国を滅ぼす存在となるだろう。
そんなはずはない、とエウリアスは忌まわしい予言を振り払う。彼に限って、そんなことはあり得ない。エウリアスは顔を上げると、イズメイルを真っ直ぐ見つめ口を開いた。
「……実はさ、お前がここを去るちょっと前に、エゼルキウスに言われたんだ。お前を頼むって」
かつてエゼルキウスがこの中庭で自分に託したことを、エウリアスは親友に話してやった。あの日のエゼルキウスの言葉と眼差しには、確かにイズメイルへの愛情が込められていた。父親が息子を案じるような温もりと優しさに満ちたそれに、ほんの少しの羨望と切なさを覚えたことも昨日のことのように思い出せる。友の心を慮り、彼にしては最大限の気を遣いながら、エウリアスはイズメイルに亡きエゼルキウスの想いを伝えた。見る見るうちに友の目に涙が溜まる。
「そんな、だって、先生はそんなこと一言も仰ってくださらなかったのに……」
その激しい気質の割にイズメイルは涙脆いのだということを、エウリアスは知っている。常に自信と野心でそのエメラルド色の瞳を輝かせる彼が、自分の前でだけは安心したように弱みを見せるのも、エウリアスだけが知る彼の素顔だった。
エウリアスは、片手で顔を覆って嗚咽する友の背中をゆっくりとさすってやり、押し殺した声を聞きながら庭に目を向けた。少々傲慢で短慮ではあるが根は優しく繊細な面も持っている彼が、我が国に害成すような真似をするはずはない。イズメイルと自分は共にこの国一番の魔術師と将軍になって歴史に名を残すのだと、五年前にまさにこの長椅子で約束したのだ。だから彼が――愛する友が、それを裏切るなどあり得ない。
先ほど見たあの予言は、何かの間違いに決まっている。それに、途中で予言自体が変わらないとも限らないではないか。
エウリアスは心の奥底に芽生えた黒い靄を隅へと追いやりながら自分自身に言い聞かせる。
きっと、予想外のことを言われたせいで冷静になれず、必要以上に動揺しているのだ。だから、余計な疑心暗鬼を生むのだろう。時が経てば、あれは愚かな杞憂に過ぎなかったのだと笑い話になる。そう考えると不思議と気持ちは落ち着き、胸のざわつきも鳴りを潜め始める。
だが、エウリアスは知らなかった。透明な水に一滴垂らされた黒墨は、薄まることはあっても決してなくなりはしないのだということを。そして、それが繰り返され、一度に注がれる黒墨が僅かであっても二滴三滴と増えてゆけば、透明だった水はたちまち黒く染まるであろうことも――。
***
エゼルキウスの葬儀は二日後に行われた。カルコリス第四地区の人々に慕われた彼のこの世での最期の挨拶に、カルコリス中から老若男女問わず多くの人々が駆けつけ、その死を悼み慟哭した。驚いたのは、エウリアスの父メトディオス帝もその葬儀に使者を遣わしたことだった。皇帝にとっても、かつての教育係であり師であったエゼルキウスの死は深い悲しみをもたらしたのだ。
彼の遺体は儀礼用の馬車に乗せられ、カルコリス中心部に鎮座する四本の尖塔と丸屋根を持つ崇火教の総本山、クルバール・サラン大神殿前の広場まで葬列を伴って運ばれた。柩の乗せられた馬車のすぐ後ろに黒装束に身を包んだパルミアとナシードが続き、その後を同じく黒衣の皇帝の使者や貴賓の参列者が影のようにつき従う。そして市民たちが哀悼歌を歌いながら重い足取りでついて行く。
広場に運ばれたエゼルキウスの柩は、丸太を組み合わせて作られた祭壇に安置された。クルバール・サラン大神殿にはカルコリスの守護神火の神クルバールと大地の女神マリの夫婦神像が祀られている。だが、清浄を尊ぶ神殿内に穢れの象徴である死者の身体は入れない。だから、遺体はその前の広場に安置され、神殿前に設置された祭壇を通して儀式が執り行われるのだ。祭壇に二羽の鶏と数種類の穀物が捧げられると、大神官の手によって冥神と夫婦神への祈祷がなされた。祈祷が終われば、捧げ物はエゼルキウスの亡骸と共に柩に入れられ、その身を冥府へ送り届ける準備に入る。
エゼルキウスの遺体は、街壁の外にある火葬場へと運ばれた。設えられた薪の祭壇の前に神官たちが並び立つ。彼らによって歌にも似た呪文が紡がれると、遺族や市民たちから柩に哀悼を示す白い花や植物が投げ込まれる。やがて薪に火がつけられると、炎は神官たちの呪文に合わせて踊るように燃え上がって瞬く間に柩を包み込み、黒々とした煙を立ち上らせた。
死は穢れだ。その穢れは火神クルバールの聖なる炎で焼かれることで浄化される。そして、清浄を取り戻した魂は冥府へと旅立ち、そこで安息を得るのだ。
遺体が燃え尽きて灰と僅かばかりの骨になると、大人の頭ほどの骨壺に納められ墓所に安置された。その墓所は、第四地区の東の外れ――ちょうど城壁のすぐ内側――の、海を見渡せる共同墓地内にある。
葬儀に参列できなかったエウリアスがそこを訪れたのは、エゼルキウスの死から三月近くが経ってからだった。そして、皇子エウリアスと魔術師イズメイルに転機が訪れたのは、そのさらに半年後の夏のことだった。その頃には二人は十九歳になっていた。若さの盛りである時代は希望に満たされているかに思われたが、彼らの転落と破滅はこの時からすでに始まっていたのだ。だが、エウリアスはそのようなことなど知る由もなかった。
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