第11話 ネムニスの予言

 エウリアスは、長椅子の間に置かれた机に手をつき、大きな音を立てて立ち上がった。


「今何を言った!?」


 怒りで我を忘れて叫ぶ。パルミアが怯えたように自分を見上げるのが分かったが、沸き上がったこの激情は並み大抵のことでは収まりそうにない。親友を侮辱されたのだ。黙ってはいられなかった。


「あいつが国を滅ぼすだって? 貴様らよくもそんなことが言えたものだ! 仮にも三年間共に暮らした相手ではないか。あいつの何を見てそのようなふざけたことを言うのだ!」


 エウリアスの激昂を、ナシードは落ち着いた眼差しで受け止める。


「どうか、お怒りをお収めください。何故このようなことを申し上げたのか、きちんとご説明いたします」


 エウリアスはナシードの胸倉を掴み、燃え上がるような眼差しで彼を睨みつける。パルミアが短い悲鳴を上げた。物音と主の大声を聞きつけたニクスールが慌てた様子で部屋に押し入り、彼ら三人の様子を見て顔色を変えた。


「何事です? エウリアス殿下」

「大事ない。お前は出ていろ」

「しかし……」

「出ていけ!」


 皇子の怒鳴り声に、彼は何か言いたげに開いた口を閉ざし、渋々一礼して部屋を退出した。それを見届けたエウリアスは、ナシードを突き放して、再び長椅子に腰を下ろす。引き下がったものの納得はしていない様子のニクスールに後で詰問されるかもしれないが、今はとりあえずナシードとパルミアの話を聞かなければならない。少し冷静さを取り戻したエウリアスは改めて二人に向き直った。


「話せ。何を根拠にそのようなことを言う?」

「……実は、エゼルキウス先生が、亡くなる少し前から、妙なことを言うようになったのです」

「妙なことだと?」

「ええ。……その、この国の未来は暗い、イズメイルが国の滅亡の引き金となる、と」


 エウリアスは目を見開き、愕然とその場で固まる。受けた衝撃があまりにも大きく、頭が真っ白になった。まさか、あのエゼルキウスが、かつて、愛弟子の行く末をあんなに案じていた、あの慈愛に満ちたエゼルキウスが、三年間同じ屋根の下で暮らしたイズメイルをまるで忌まわしい災いの元であるかのように言うなんて。

 信じられなかった。だが、エゼルキウスは根拠もなく他人を中傷するようなことを言う人間ではない。三年間彼の元に通い、その人となりを見てきたエウリアスにはそれがよく分かる。だから、彼が本当にそのようなことを言っていたのだとしたら、何らかの理由があるはずだった。


「……いったいエゼルキウスに何があったのだ。そのようなことを言うようになったきっかけに心当たりはあるのか?」


 エウリアスが尋ねると、パルミアが口を開いた。


「祖父は、イズメルが宮廷魔術師となった後も、あの子のことをずっと気にかけておりました。ですが、半年ほど前から持病の胸の病が酷くなって、外に出ることもままならなくなってきたのです。おそらく、その頃に祖父は彼と貴方の未来を見たのだと思います」

「……それは、魔術でか?」

「ええ。祖父は何も言いませんでしたが。でも、その頃から憂鬱そうな表情が増えて、食事も喉を通らなくなっていったのです。私たちは心配でしたが、何を言っても祖父はその理由を教えてはくれませんでした。そのうちに病状も悪化してきて、祖父はとうとう寝台から起き上がることもできなくなってしまいました。そう、あれはちょうどひと月ほど前でしたわ。祖父は、私と夫に、イズメイルを宮廷に戻したのは間違いだった、あれはこの国に災いをもたらすのだと、そう言いだしたのです」


 エウリアスは何も言わなかった。ただ、顎に手を当てて考え込むように目を伏せていた。


「もちろん、私たちも最初は本気になどしていなかったのです。あの子が、あの陽気で可愛いイズメイルが、そんな恐ろしいことをするはずないと思っておりましたもの。でも、祖父は冗談を言っているような様子でもなかったし、痴呆でもありませんでした。本気で恐れ、怯えていたように思うのです。私たちはいったい何を見たのか何度も尋ねてみました。でも、祖父は一切教えてはくれませんでした。だから、私たちはナシードの魔術で、祖父が見たであろうイズメイルの未来を見たのです」


 パルミアはエウリアスを見上げた。その顔には血の気がなく、目尻に涙が浮かんでいた。

 エウリアスの知るパルミアはこのような弱々しい娘ではなかったはずだ。もっと勝気でしっかり者で、気丈な少女だったのに、その彼女をここまで憔悴させている未来とはいったいどんなものだったのだろう。思わず背筋に冷たいものが走る。


「未来を視る魔術は、術者の魔力によって視え方が変わります。だから、私が視たものと先生が視たものが、まったく同じものであったとは言い切れません」


 パルミアの言葉を引き継いだのはナシードだった。


「ですが、私たちが視たものは……恐ろしいものでした。おそらく先生も、同じようなものを見たのだと……」


 ナシードは気丈に振る舞っていた。だが、その青ざめた顔と微かに震える口元が、彼らが視たという未来の光景が決して幸せなものではなかったことを、雄弁に物語っていた。

 それを自分も知るべきか、それとも、何も聞かなかったことにして蓋をしてしまうべきか。

 エウリアスは葛藤する。だが、聞いてしまった以上、なかったことにはできなかった。


「……それを俺にも見せろ」


 低い声でエウリアスが言うと、ナシードとパルミアは顔を強張らせる。顔を見合わせ、不安げに目配せし合い、そしてエウリアスを真っ直ぐ見つめると、神妙な顔で頷いた。


 エウリアスは夫妻に連れられ、客間の隣にあるエゼルキウスの書斎に足を踏み入れた。ここを訪れるのは二年ぶりだった。壁に貼り付けるように設置された本棚に詰め込まれるあらゆる分野の本たちが、かつてと変わらずエウリアスを威圧しながら出迎える。本棚の所々には瓶や箱類が無造作に置かれ、天井近くには相変わらず乾燥させた薬草が吊るされていた。部屋の中は雑多としているのに、中央に置かれた机の上だけは綺麗に片付けられているのも、在りし日と変わらない。二年前まで、イズメイルがここにいた頃は、ここで彼とナシードと共にエゼルキウスの講義を受け、彼らの魔術の訓練を眺めていたのだ。この部屋はエウリアスにとって思い出深い、懐かしい場所だった。この場所が彼に嫌な思いをさせたことなどなかった。だが今、部屋に立ち込めるのは重苦しい空気でしかなかった。


 ナシードが、部屋の隅に掛けてある大鏡の布を取り払う。エゼルキウスの貴重な魔道具であるそれは楕円形の等身大の鏡で、翼を持つ獅子の装飾で象られ、鈍い光を放っていた。重く不気味な存在感を放つ鏡の周囲にぞっとするような嫌な空気を感じ取り、エウリアスは思わず自身の腕をさする。まるで亡き持ち主の思念を宿しているようで、鏡そのものが生きているかのようだった。彼には鏡の正面に立つ勇気はなかったので、迷いなくその前に立ったナシードに対して内心感嘆する。


 ナシードは右手の指先で軽く鏡の表面に触れた。

 未来を見る鏡術は高度な魔術だ。古代の呪術に起源を発する鏡術の中でも、エウリアスが知る限り最も複雑な呪文と手順が必要になってくる。ナシードの口から紡がれ始めた古代語が、歌のように流れ、不思議な抑揚を伴ってその場を包み込む。しばらくの間微動だにせず呪文を唱え続けた彼は、両手の指先を鏡の上部に押し当てた。その瞬間、それまで何の変哲もなかった鏡の表面がぐにゃりと歪み、底の見えない濁った沼地のような暗く深い空間が現れた。ナシードは古代語の呪文を唱えながらその空間をなぞるように、両の指先で文字のようなものを描き出す。左右対称に書かれるそれが、垂らした糸が描く模様のような独特の形状を持つシャロン文字であることに気がついたエウリアスは、この魔術が複雑かつ高度だと言われる理由を真に理解した。口で唱える言語と指で書く文字が異なる、つまり、別々の言語を同時に操らねばならないのだ。これは相当の技術と精神力と集中力が求められる。見ればナシードの額には丸い玉のような汗が滲んでいた。エゼルキウスは、これを病魔に冒された身で行ったのだろうか。だとしたら相当の気力が必要だったことだろう。

 文字は書かれる側から消えてゆき、ナシードの指が鏡の真下まで来ると、今度は鏡文字のように反対に文字を綴ってゆく。それを何度か繰り返した頃、鏡の奥に赤い光が浮かび上がってきた。ナシードはそれを認めると鏡から手を放し、一歩後ずさる。彼がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。


 鏡の奥で炎が燃えていた。周囲は吸い込まれそうな闇に包まれている。鏡の中で燃える炎はやがて鏡の表面いっぱいに広がり、その中に、白い塊が姿を現した。それはやがて人の姿となってエウリアスらの前に立ちはだかる。

 その人物は、肌も長い髪も背中の翼も、全てが白かった。女とも男ともつかない容貌で、足首まで隠れる襞のたっぷりとした白い衣服を纏っている。翼は大きく広げられ、額には第三の目が不気味に開いていた。その目は鮮やかなエメラルド色だ。

 エウリアスは息を呑む。宮殿内のイトゥス十二神を描いたモザイク画の中でもとりわけ異彩を放っていたその姿形と、目の前の不気味な人物の姿が重なった。


 間違いない。これは、破壊の女神ネムニスだ。復讐と破壊を司る血塗られた女神。予言に登場すれば、その未来は破滅と絶望に彩られるという、不吉な存在――。


 女神の爪の長く伸びた左手は、首のない孔雀の死体を引きずるように掴んでいる。右手で握っているのは切り落とされた孔雀の頭。それを片手で砕いたネムニス女神は、真っ黒な口内を覗かせ、けたたましい笑い声を上げた。指の隙間から赤黒い血が滴り、孔雀の肉片が爪先に落ちる。

 次の瞬間。女神の白い指先が砂のように崩れ落ちた。指先から腕、肩、頭、胴体と彼女の身体は瞬く間に崩れ落ちてゆき、最後には砂の山となって風に散らされる。そして赤々と燃えていた炎も勢いを失い、吸い込まれるように消えてゆく。

 そして鏡面は最後にぞっとするような暗闇を写し出し、掻き消されるように唐突に元に戻ったのだった。

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