第10話 訃報

 イズメイルの風邪は、一週間もすればすっかり良くなった。健康を取り戻した彼に不備はなく、迎えた試験も難なく通過し、晴れて彼は宮廷魔術師として採用されたのだった。


 彼の実力をよく知るエウリアスにとって、試験の行く末は懸念するほどのことではなかった。三年前と違い、魔術の技法も礼儀作法に関してもイズメイルは申し分ない。落とされることなどまずないだろうと思っていたので、彼の口から直接合格の知らせを聞いても、大した驚きはなかった。ただ「これからしっかりやれよ」とだけ手短に伝えると、イズメイルはエメラルド色の瞳に理知的な光を湛えながら静かに頷いたのだった。


 イズメイルは採用されてふた月も経たないうちに、魔術師部隊として戦場に派遣されることとなった。帝国東部の国境を接するマフムール王国が国境の街を包囲したとの知らせを受け、宮廷は急遽軍隊と魔術師五人を援軍として向かわせたのだ。その中にイズメイルも含まれていた。宮廷に戻って早々に重大かつ危険な任務を任されたのには、才能はあるものの年若い彼がどれほど真価を発揮できるのか、見極める意図もあったのだろう。だが彼は、宮廷や兵士たちが予想した以上の活躍を見せることとなった。彼の操る風と炎の魔術は、自国の兵士たちを予想以上に鼓舞し、敵軍を怯ませた。イズメイルの他に戦場に赴いた魔術師たちは皆熟練の宮廷魔術師で、実力も胆力も確かな者たちだったが、その彼らにも引けを取らない活躍を見せた若く美しい魔術師を、誰もが称賛した。そして、マフムールの軍勢を撤退させた一行は帝都に凱旋し、イズメイルは名実ともに宮廷魔術師として迎えられることとなったのだ。



 ***



 イトゥス暦一一八四年。


 その日、エウリアスは宮殿内の鍛錬場にいた。初秋の乾いた風が汗の流れた身体を撫でてゆく。ひやりとした感触が火照った身体に心地よく、額の汗を拭いながら鍛錬場脇の長椅子で一息つく。兵士たちが互いに剣や槍を持ち、土埃を舞い上がらせながら鍛錬に勤しむ様子を眺めながらぼんやりとしていると、そこにニクスールが慌てた様子で駆け寄ってくる。


「エウリアス殿下、イズメイル殿がおいでです。火急の用だとか……」


 言い終わらないうちに、彼の背後から黒い長衣の裾を翻しながらイズメイルが姿を現した。その顔が酷く青ざめていることに気がついたエウリアスは、彼のもたらす用件が決してよいものでないことを悟る。彼は顔を引き締めると、イズメイルを伴い鍛錬場を後にした。



「何があった?」


 鍛錬場を抜け居住区へと至る回廊の中ほど、あまり人目につかない柱の影に入り込むと、エウリアスはイズメイルを振り仰いだ。彼の答えは半分予想できている。彼が鍛錬場にまでわざわざ足を運び、かつ彼にも関係する非常事態といえば、思い当たることはひとつしかないのだから。


「エゼルキウス先生が、亡くなられたそうだ」


 悲痛な表情で告げられた言葉に、エウリアスは息を呑んだ。


 イズメイルが宮廷に戻ってからも、エウリアスは暇さえ見つければ度々エゼルキウスの元を訪れていた。とはいえ、二人とも次第に多忙を極めるようになり、彼を訪れることは少なくなっていたので、最後に彼の元を訪れたのはもう一年近く前の話だ。その時はパルミアとナシードの婚礼で、珍しくイズメイルも共に訪れ二人を祝福し、エゼルキウスや新婚夫婦と積もる話をしたのだった。その際もエゼルキウスは顔色が優れず、時折激しく咳き込んでいたが、彼はかつての宮廷魔術師だからきっと死ぬことはないのだと、エウリアスは根拠もなく思い込もうとしてた。しかし、彼もまた人間である以上は死から逃れられない。願わくばもっと先であるようにと切望していた死の影は、とうとうエゼルキウス老師を捕らえに来てしまった。


「昨晩容態が急変して、そのまま息を引き取ったらしい。お前も先生には世話になっただろうから、一報だけでも入れておきたくて」


 イズメイルが目を伏せながら言う。エウリアスはすぐには何も答えられなかった。

 エゼルキウスは、イズメイルにとってもエウリアスにとっても恩師だ。彼には知識や魔術だけでなく、生きる術をも教わったのだとエウリアスは思っている。彼には深く感謝していた。自分が出世し、宮廷で力を持つことが出来た暁には、彼に報いようと思っていた。だからこそ、その恩人を失った喪失感は大きかった。


「……知らせてくれて感謝する」


 それだけ言うと、エウリアスはイズメイルから顔を背ける。その背中に、いつになく頼りなさげな親友の声が投げ掛けられた。


「……明日、先生の家に行こうと思う。お前はどうする?」

「……行くよ。一緒に行こう」


 振り向いて答えると、イズメイルが静かに頷いた。エメラルド色の瞳が不安定に揺らめき、目元が赤く腫れていることに気がついたが、エウリアスは何も言わなかった。


 皇帝メトディオスのかつての教育係であったエゼルキウスの訃報は、翌日になると宮廷の隅々にも行き渡り、彼を知る者たちに衝撃をもたらした。先代の皇帝の専属魔術師を務め、その不興を買い宮廷から追放された彼であったが、宮廷では優れた人格者として一目置かれていたのだ。メトディオス帝の代になって恩赦を賜った後もなお宮廷に戻ることを拒み、市井で暮らすことを選んだ彼であったが、それでも彼を惜しむ声がなくなることはなかった。今、彼の死に宮廷は弔意に満たされていた。



 ***



 イズメイルが訃報をもたらした翌日の午後、エウリアスはイズメイルとニクスールを伴ってエゼルキウスの家へ向かっていた。三年の間飽きるほど通った道に、懐かしい思いと切なさが込み上げる。道ですれ違う人々の中にはエゼルキウスの学校に通っていた子供たちの姿もあり、彼らは一様に沈痛な表情をしている。カルコリスの第四地区では、すでにエゼルキウスの訃報は広まっている様子だった。


 エゼルキウスの家の扉を叩くと、ナシードに支えられたパルミアが泣き腫らした目で出迎えてくれた。イズメイルが彼女に慣例通りのお悔やみの言葉を伝えると、彼女は目頭を押さえながら彼らを中に招き入れる。

 エゼルキウスの遺体は、弔意を示す黒い帳が掛けられた寝室に横たえられていた。白い長衣に包まれた彼の枕元には火神クルバールとマリ女神の祭壇が設けられ、魂の安らぎを祈る六本の蝋燭が静かに燃えている。祭壇上部に設えられた夫婦神の像が蝋燭の明かりにぼんやりと照らし出され、亡き魔術師の顔を見つめていた。その痩せこけた土気色の顔が、彼はすでに故人であることを改めて思い起こさせ、どうしようもない悲哀に満たされる。


 イズメイルは、パルミアに促され、かつての師の枕元に粛々と膝をついた。寝台に身を乗り出し、その死に顔をしばし見つめると、震える指先で彼の顔に触れる。額の皺をゆっくりとなぞるその手の上に、水滴が二つ溢れ落ちるのが見えた。


「……どうして、死ぬまで知らせてくれなかったのですか? 生きてるうちにもう一度お会いしたかったのに」


 イズメイルの問いが宙に溶け込むように消えていった。土気色の顔を見つめる親友の肩に、エウリアスはそっと手を置く。そして彼の横に膝をつき、胸の上で組まれた老魔術師の手に自身の片手を重ね、祈りの言葉を小さく唱えた。これから冥神のおわす地下の国へ旅立つであろう彼を想い、エウリアスは心から哀悼の意を捧げた。


 エウリアスにとってエゼルキウスは、人生を変えるきっかけになった人物の一人だった。そして、エゼルキウスもまたエウリアスを認め、正しい道へと導いてくれたのだ。ここに通っていた頃は、些細なことでイズメイルと喧嘩をしてはその都度玄関広間の隅でいじける自分を様々な話で楽しませ、気を紛らわせてくれた。広間の壁を取り囲むモザイク壁画とそれにまつわる神話や物語を、ひとつひとつ懇切丁寧に解説してくれたことも、ままならない自分の境遇に倦むことなく前に進めるよう背中を押してくれたことも、今となっては忘れられない思い出だ。彼には深く感謝してもしきれるものではなかった。

 目元に熱いものが込み上げてくる。エウリアスは、共に彼に学んだイズメイルの傍らに跪くと、しばらくの間二人で亡き魔術師を悼んだ。あともう少しでも長生きしてくれたら、と思わずにはいられなかった。


 エウリアスが視線を感じてふと顔を上げると、パルミアが何かを言いたげな顔でこちらを見つめていた。夫であるナシードに肩を支えられた彼女は、どこか不安げな、憂いの色濃い表情だった。怪訝に思い、何かあったのか尋ねようと口を開いたところで、彼女の方が先に言葉を発する。


「少し、イズメイルを一人にしてあげましょう。彼には心の整理が必要ですわ」


 少し年上のパルミアのその言葉は、敏感になったエウリアスの神経を逆撫でた。彼女は以前からそうであったが、イズメイルのことを一番よく理解しているのはこの自分だとでも言いたげな口をきく。彼の一番の親友だと自負しているエウリアスにとって、それは愉快なことではなかった。彼女を睨み上げ、そんなことは分かっていると答えようとしてふと口をつぐんだ。彼女の物言いたげな表情を思い出し、少し冷静になる。


「……イズ、気が済んだら中庭で待ってろ。後で俺も行くから」


 エウリアスは立ち上がると、イズメイルの背中を励ますように軽く叩いた。友が心配だったが、少し側を離れるくらいなら大丈夫だろう。エウリアスはパルミアとナシードと共に部屋を後にした。



「何か言いたいことがありそうだな」


 客間に通されたエウリアスは、開口一番にパルミアに問い掛けた。憔悴しきった彼女はエウリアスの正面に腰掛け、隣に座る夫に寄り添いながら俯いている。その顔は心なしか青ざめているようにも見えるし、今から言おうとしていることに慄いているようにも見える。


「咎め立てはしないから、用があるならさっさと言うがいい」


 早く用件を済ませて欲しかった。一刻も早く親友の側に戻ってやりたい。エウリアスは苛立ったように足を揺する。すると、意を決したようにパルミアが顔を上げた。


「あの子……イズメイルは、宮廷では上手くやっているでしょうか? 何かおかしな様子はありませんか?」

「別に、特に変わった様子はないが」

「何か悩んでいる様子は?」

「いや……思い当たることはない」

「では、彼は、私たちの知る、ここを出て行った頃のイズメイルのままなのですね?」

「ああ。それは間違いない。まあ、強いて言うならあの頃より品は良くなったかな」


 パルミアはそれでも不安げな顔で夫を見上げた。ナシードは眉を寄せた表情で、妻の背中をさすり、慰めるように肩を抱く。二人がいったい何の目的で自分をここに連れてきたのかも何が言いたいのかもさっぱり分からず、エウリアスの胸にはただ釈然としない不快感がじわじわと広がる。


「お前たちは何が言いたいんだ?」


 問い掛ける声にも苛立ちが混じる。パルミアとナシードは二人顔を合わせ、覚悟を決めたようにエウリアスに向き直った。そして、真剣な面差しのナシードが重苦しく口を開いた。


「エウリアス殿下。どうか、お怒りにならないで欲しいのですが、イズメイルは……国を滅ぼす存在となるやもしれません」

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