第6話 再会

 カハディーン。


 メトディオス帝唯一の嫡子であり、ヴルグラル帝国の皇太子。今年で二十六になる彼の武勇は、ここエスタティス大陸にひしめく数多の国に轟き、その名を知らしめている。

 十七歳で現在の属州メディアを制圧し、その次の年には東部のリスラン王国とカルガンシア王国を、三年前には〈湖岸の民〉三部族を滅ぼしキスギル王国を支配下に置いた。つい先立っては、半年前に南部のハヴァリ王国を併合し、華々しく凱旋帰国したばかりだ。


 彼の勇姿は、ヴルグラル帝国内においては、五百年の昔に帝国を繁栄と栄光に導いた戦帝アクルーダスの再来と言わしめ、諸外国においては、冥王シュガルが遣わした死の将軍セグの化身と恐れられた。


 そんな兄カハディーンを、エウリアスは畏怖し、憧れ、慕っていた。決して優しい兄ではない。むしろ気まぐれで、機嫌が悪ければ鬱憤の捌け口にされることも少なくはなかった。それでも彼が兄を慕うのは、奴隷の血を引くこの自分を弟として認め、受け入れてくれたからだろうか。カハディーンにとってはそれも気まぐれのひとつでしかなかったのかもしれないが、母を亡くし、この広い宮廷で孤独にうちひしがれていたエウリアスは、彼によって確かに救われたのだ。幼かった彼が年の離れたこの兄を敬愛する理由としては、それだけで充分だった。


 カハディーンは鍛練場を抜け、汗を流すために浴場に向かう。エウリアスもその後をついてゆく。宮殿の回廊に日の光が差し込み、気まぐれな風が二人の汗を拭い取るように撫でてゆくのが目に見えるようだ。季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。


「ここ最近のお前は随分と魔術に興味津々だそうではないか。いったいどういう風の吹き回しなのだ?」


 振り向きもせずに尋ねられ、エウリアスは顔を赤らめた。イズメイルが宮廷を去ってから三か月の間、彼は暇さえできれば今まで寄りつきもしなかった図書室に通いつめ、魔術や魔術師に関する書籍を読み漁っている。そして、時折魔術師の宿舎を訪れては気の弱そうな魔術師を捕まえ、気の済むまで質問攻めにするのだ。それゆえ彼は宮廷の者たちから"魔力も持たないのに魔術師に憧れる夢見がち皇子"と揶揄の対象となっていた。それは決して愉快なことではないもののさほど気にしていなかったが、いざ兄に言われるとどうにも気恥ずかしいものを感じる。


「それはその、我が国が登用する魔術師というものを、俺、いや私も知っておくべきかと思いまして……。へへっ……」


 しどろもどろになりながらの苦しい言い訳を、カハディーンは鼻で笑う。


「心にもないことを無理に言うな。貴様が気になるのはあの子供であろう? 名はイズメイルといったか?」


 やはり兄は気づいていたか。エウリアスは苦笑しながら頷いた。カハディーンは弟の顔を一瞥すると、前に向き直り固い声で言った。


「お前と互角に殴り合ったのだったか。宮廷魔術師の分際で皇子を殴るとはな。命知らずもいいところだ」

「でもあの時は俺も変な格好をしていたから、相手は俺が皇子だとは気づかなかったんだと思います。それに、俺も酷いこと言ってしまったし。俺もちょっとは悪かったから、あいつだけが悪いわけではありません」


 そう言うと、カハディーンが立ち止まって振り返り、意外そうに目を丸くした。


「ほう。お前が誰かを庇うなど珍しい」


 兄の言葉に、エウリアスは心外だとでも言いたげに眉を寄せる。大きな黒い瞳がくっきりとした眉の下で反抗的に煌めいた。


「俺だって人を庇うことも助けることもあります。あいつは俺を殴ったり怒鳴ったり滅茶苦茶なことばかりやってくれましたが、面白い奴だったからこのまま追放処分にするには惜しかったんです」


 それにかなりの美少年だったし、と口を尖らせながら付け加えれば、カハディーンは愉快だと言わんばかりに声を上げて笑った。


「さては貴様、あの子供の魅了の魔術にかけられたな!」

「……あいつは男です。魅了の魔術って女の使うものでしょう?」

「そうとは限らぬ。男が男に使うこともある」


 カハディーンは口許を歪め、にやりと笑う。エウリアスはややげんなりしたように兄を見上げた。

 ヴルグラルの皇太子カハディーンは、その武勇とともに色を好むことでも知られていた。その相手は女に限らない。それを知るエウリアスは、兄が言外に仄めかすものにいち早く気がつき、不快感が込み上げた。


「……そんなんじゃありません。変な妄想は止めてください」


 カハディーンの顔からすっと表情が消え、エウリアスは青ざめた。今日は機嫌よく接してくれることに安心して度を越えてしまったようだ。カハディーンは、愛らしいと手のひらで愛でた小鳥を、次の瞬間にはその手で躊躇なく握り潰す男だ。いったい何をされ、何を言われるのか。エウリアスは恐る恐る兄を見上げたが、カハディーンは何も言わず、すぐにまた前に向き直り歩き出した。


「兄上、あいつは、イズメイルは、きっとそういう魔術を使うような奴ではなくて、曲がったことを嫌う奴なんだと思うんです」


 兄の機嫌を損ねたくなくてエウリアスはその背中に必死に言い募る。大股に裾を捌きながら歩くカハディーンについてゆくには、小走りにならなければいけない。


「だから、これは、俺がただ単に興味を持っているだけなんです」


 年の離れた二人の兄弟は足早に歩いていたが、カハディーンが急に立ち止まり、エウリアスはその背中にぶつかりそうになって慌てて足を止めた。


「つまり、お前はあの子供と友人になりたいわけだ」


 言われた言葉に、エウリアスは目を丸くした。


「友人、ですか……?」

「ああ。お前、自分で気づいていなかったのか? お前とあの子供はよく似ているではないか」


 振り返った兄の鳶色の目に、ほの暗い嗜虐心がちらつくのが見て取れ、心ここにあらずであったエウリアスの背筋に嫌な汗が伝う。その面には蔑むような冷たい笑いが浮かんでいた。


「お前にもあの子供にも、流れているのは下賤の血だ。下賤の者同士お似合いだと思うがな」



 ***



 その日、エウリアスとニクスールは質素な仕立ての貫頭衣と外套、木と革のサンダルという出で立ちでカルコリスの街に馬を走らせていた。一見すればちょっと裕福な商人の息子とその従者といったところか。少なくとも宮廷の皇子様御一行には見えないだろう。


 向かう先は元宮廷魔術師エゼルキウスの邸。彼はカルコリス中央を流れるリタ川以北、トゥリエル湾に面した第四地区に邸を構えているはずだ。少し奥まった分かり辛い場所とのことだったので、分からなくなれば地元の人間に尋ねて回る。

 かつての宮廷魔術師で、現在カルコリスで活動するエゼルキウスを知らぬ者は、ここ第四地区にはいない。病人や怪我人を始め、探し物の見つからない亭主や夫の浮気を疑う夫人、意中の相手を振り向かせたい娘など様々な事情を抱えた人々が彼を訪れる。だから、エウリアスとニクスールが、彼について尋ね回っても怪しまれることはなかった。街の人々にとっては二人もそういった"わけありの尋ね人"のひとりに過ぎないのだ。


 二人は石造りの家が連なる大通りを抜け、入り組んだ路地を進み、ようやくエゼルキウス師の邸へ辿り着いた。聞いていた通り、かつての誉れ高い宮廷魔術師の棲みかにしてはひっそりとした場所にある。二階階建てのその建物は一軒丸ごとエゼルキウスの所有する施術所兼住居のようだった。

 エウリアスはその扉の前に立って少しの間逡巡していたが、ニクスールに目配せすると彼は軽く頷きながら扉を叩いた。軽やかな足音が近づいてきたかと思うと、扉が大きく開かれた。

 現れたのはエウリアスよりも少しばかり年上の少女だった。戸口に立つ彼女は、足首まで隠れる裾の長い生成りの衣装を身に纏い、黒い髪を覆うようにベールを被っている。小間使いだろうか。彼女はつかの間その大きな榛色の瞳で二人を観察すると、合点が行ったというように顔を輝かせながら両手を打ち合わせた。


「あなた方が、お祖父様が今朝仰っていた高貴なお客様ね。どうぞこちらへ」


 少女はそう言ってくるりと踵を返すと、二人を先導して玄関広間を通り過ぎ、客間に招き入れた。そして慌ただしく足音を立てながら出てゆくと、あっという間に姿を消す。


 エウリアスは深紅の繻子張りの長椅子に腰掛け、客間をぐるりと見回した。壁は青を基調とした鮮やかなモザイクで彩られ、イトゥス十二神神話の意匠が施されている。その中でも一際目を引くのは星の散りばめられた青い衣装を纏い、黄金の冠を頂く銀の髪の美しいハヴィ女神の肖像だ。思わずエウリアスは魅入られたが、その温かみの感じられない冷たい笑みにふと居心地の悪さを感じ、身じろぎしながら背後に佇むニクスールを見上げた。


「イズメイル、元気にしてるかな?」

「どうでしょうね。エゼルキウス殿にこってり絞られてげっそりしているかも知れませんよ」

「まさか。あいつがそんな殊勝なたまか」

「でもあのエゼルキウス殿ですよ。生半可な指導ではないと思いますがね。人相くらいは変わってるんじゃないですかね」

「……死んでたらどうしよう」

「そのときはせめて安らかであるように冥神へ祈ってやるとよいでしょう」


 そうしているうちに、エゼルキウスが姿を現した。先代皇帝の専属魔術師をも務めた圧倒的な威厳と優雅な立ち振舞いは、老いてもなお変わらないようだ。エウリアスは、彼の灰色の目にひたと見つめられるや、思わず唾を飲み込み、背筋を伸ばした。

 エゼルキウスは、エウリアスの前で膝を折ると、貴人に対する礼を取り恭しく声を掛けた。


「お初にお目にかかります、エウリアス殿下。わたくしはアポニウスの子エゼルキウスと申します。この度はご足労頂き、誠に恐縮にございます」


 エウリアスが顔を上げるように促すと、彼は真っ直ぐに幼い皇子の黒い瞳を見つめ、そして、ふと表情を緩めた。


「貴方様は、父君であらせられるメトディオス陛下によう似ておられる」


  父帝の面影を重ねるように、老魔術師の目が細められた。


「……父上を知っているのか?」

「ええ、よく存じ上げておりますとも。陛下がご幼少の頃は教育係を勤めさせて頂いておりましたゆえ。貴方様によく似た、意志の強そうなお子でございましたよ」


 思いがけず父の幼少期を知る人物に出会い、驚きを隠せない。そして、さりげなく褒められたことに赤面してエゼルキウスから目を逸らす。


「イズメイルは? あいつはどこにいる?」

「今呼びに行っております。じきにやって来るでしょう」


 エゼルキウスの言葉に被せるように、廊下を走る二つの足音が近づいてきた。重さの違う二つの足音のうち、軽い方は間違いなくイズメイルだろう。エウリアスは弾かれたように出入り口を振り返った。そこからひょっこり顔を覗かせたのは色白で優しそうな顔の二十歳くらいの男。室内に視線を巡らせ、エウリアスとニクスールを認めると軽く目を見張る。その彼の脇から身体をねじ込むようにして姿を現したのは、エメラルドの瞳と白金の髪を持つ、生意気で負けん気の強い、同い年の少年――。


「イズメイル!」


 実に三か月ぶりの再会だった。驚きのあまり立ち尽くすイズメイルの目前で、エウリアスは喜色を浮かべて破顔した。

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