春雨に濡れて行こう

兵藤晴佳

第1話

「あ……」

 朝刊を開くと、見覚えのある姿が目に飛び込んできた。

 図体のでかい男が、去年の秋の豪雨災害から復興した、山崩れの跡など微塵もない村を背景に佇んでいる。

 俺があの独活の大木に出会ったのは、週末を迎えた高校の俳句研究会の部室だった。

 入学してそろそろ1年経った3月初めのことだったろうか。

曽根そねひろし君?」

 ボソボソ言いながらやってきた図体のでかいヤツに、俺は思い切り突慳貪に言ってやった。

「あ、俺、部長じゃないから」

 名前を聞くつもりなどなかった。だが、それを察するのに、こいつは少々鈍すぎた。

「頼みたいことがあるんだけど」

 この時期にやってくるのは入部希望者しかない。

「ここ狭いし」

 部室といっても、校舎の隅っこにある2畳くらいの物置だ。廃部寸前の部活には、それで充分だった。

 だが、こいつは食い下がった。

「いや、話だけでも聞いてくれたら」

「部長いないし、また今度」

 それは、帰れという意味だ。

「ここだけ……いや、君だけが頼りなんです」

 ここに入るだけ時間のムダだ。部長にしてからが、幽霊部員なのだから。

 俺も早く帰りたい。この部にいるのは、内申の点数稼ぎのために過ぎなかった。

 だが、そんなことはこいつの知ったことじゃない。

「あの、衛門えもんゆたかっていいます……隣のクラスの」

「それ先に言え!」

 仕方なく、俺は用件だけは聞くことにした。


 俺が立ち上がって勧めた、たった一つの椅子に座った衛門は、でかい図体を小さく丸めてつぶやいた。

「短い言葉で気持ちを伝えるなら、俳句かなって」

 部員も顧問も来ない部活で俳句なんか作れるわけがない。

 だが、こいつの情けない姿に、俺はついこう答えてしまった。

「事情次第だな」

 豊は、それまで抑えに抑えた思いを一気に吐き出すかのように告げた。

しずかさんのことなんです」

「どの静だよ」

 俺のツッコミに、豊は口ごもり口ごもり、話の前後を行きつ戻りつしながら、説明を始めた。

 それをまとめると、こういうことである。


 衛門豊には、好きな女の子がいる。

 名前を、厚東ことうしずかという。

 好意を持ち始めたのは小学生のときだ。

 地元のお祭りにかこつけて気持ちを伝えようと思っているのだが、果たせないでいる。

 以上。


 俺は結論を一言で告げた。

「悪いが、力になれない」

 こいつには無理だ。俺が女なら、間違いなく引く。

 さらに、こいつは何の脈絡もないことを口にした。

「言葉の神様なんだ」

「だから何が」

 こいつの回りくどい話が、また始まった。


 地元には、閏神うるうがみという言霊を祀る神社がある。

 4年に1度、山の上の祠まで登って、願いや誓いを告げる祭りがあるらしい。

 恋する相手と2人で登って思いを告げることができれば、それが叶うのだという。


 察しのよさには自信がある。

 事のあらましが見えてきたところで、俺は話を遮って聞いてみた。

「で、最初はいつだったんだよ」

「4歳のとき。親が撮った写真で見た」

 つまり、何か言ったにしても覚えてはいないということだ。

「8歳のときは?」

「他の子が、お嫁さんになってって言った」

 その時点で負けじゃないかと思ったが、気の毒で言えなかった。

 だが、子どもの時の話だから、冗談で済むと言えば済む。

 むしろ肝心なのは、目の前のことだ。

「で、次のはいつ?」

「明日」

 バカ野郎と罵る気力もなかった。

 間に合わない。

「別のときでいいだろ」

 祭りにこだわることはないのだ。

 だが、豊はがっくりとうなだれた。

「実家なんだ、そのお祭り」

「帰ればいいだろ、土日とか」

 豊はますます力なく言った。

「無理」

 震える指が、校内で使用が禁止されているスマホの電源を入れた。

 負のオーラに気圧されながら恐る恐る画面を覗きこんでみると、制服姿の男子と女子が映っている。

「これがその、静さん?」

 幼い顔立ちの、小柄で清楚な感じのする、長い黒髪の女の子だった。

 記事の見出しには、「ICTを使って地元の魅力を発信する生徒会」とある。

 副会長の肩書で紹介されていた。

 豊は深い溜息をつく。

「落ちちゃってさ、こっち」

「うるさい」

 こっちはどうせ、都市圏の隅っこにある底辺私学だ。

 まあ、遠いわ格好悪いわで、疎遠になったのはよく分かる。

 しかも、隣にいる長身の生徒会長は聡明そうな美少年だった。

乾辺皐かんべ さつき。ほら、8歳のときの……」

 豊はそこで口を閉ざしたが、その先は言わなくても分かった。

 しかも、記事にはインタビューまで載っている。

 地元のために一生を捧げるつもりで、生徒会で活躍したいということだった。

 豊が呻くようにつぶやく。

「皐、地元の名家の息子なんだけど難しい病気抱えててさ、静、小学校も中学校もずっと心配してたんだ」

 その結果が、この絵になる2人というわけだ。

「諦めた方がよくね?」

 通学鞄を手にして立ち上がったが、その俺の目の前で、豊は男泣きに泣き出した。

「わかった! わかったわかったわかった!」

 俺は本棚から古い歳時記を取り出すと、知ったかぶりで俳句の講釈を始めた。

 泣きやんだ豊は、ふんふんと鼻を鳴らしながら涙目で聞く。

 ページをいくつかめくると、1枚のメモがふわりと床に落ちた。

 拾い上げてみると、こう書いてあった。


  霧雨や 濡れて歩かん 傘もなし  閏雨


 おそらくは、昔の部員のメモか何かだったのだろう。

 それを俺は、こう解釈してみせたのだ。


  春の霧雨は、傘を差しても身体を濡らす。

  そのくらいなら、濡れて歩いたほうが風流だろう。



 そして週明けの部室には、あの総身に知恵の周りかねた大男が、小さく開けたドアの隙間から滑り込んできた。

 曇りのち雨の週末に何があったか、それで察しはついた。

「何やらかしたんだよ」

 実は、と豊がぼそぼそ語ったのは、こういうことだった。

 

 今年、閏神の祭には多くの観光客が集まった。

 例の皐がSNSを駆使した宣伝が効を奏したのだ。

 ところが、載せる写真を撮ろうとして走りまわったのが祟り、彼は体調を崩して倒れてしまった。


「チャンスじゃないの」

 血も涙もないとは思ったが、豊が静と2人きりになるには渡りに舟というものだ。

 ぼそぼそ言う声が、ためらいながら答えた。

「僕も、2人で山に登ろうって言ったんだ。そしたら……」 

 聞き取りづらい上に、回りくどい話がまた始まった。


 静は、厳しい言葉で豊を叱りつけたのだという。

 この祭りは、特に産業もない土地の貧しさのため、一度廃れた。

 それを、大学に通うためにこの辺りへ出ていた、皐の曾祖父が再興した。

 この土地から出られない皐にとって、この祭りは思い入れの深いものだったのだ。


「で? お前は皐を連れて山を登ったと?」

 そのくらいの展開は察しがつく。

 豊は子どものように、こくんと頷いた。

「おぶって」

「それで? 俳句は?」

 言いづらそうに、豊はつぶやいた。

「霧雨に 傘も……」

 

 その祭りの終わりは、最後に祠へとたどりついた3人の、この句で締めくくられた。


  霧雨に 傘もひとつや 閏神


 言葉が続かずに言い淀んだ豊の句を、皐が引き継いだのだ。

 この句には、よそから来た人々の喝采がいつまでも続いたという。


「帰れ!」

 俺は豊を部屋から追い出して部室を出ると、高校を卒業するまで二度と戻ることはなかった。

 その後、俺は遠方の大学へ進学した。特に、地元のことは気にしなかった。

 ただ、ある年の豪雨で、豊の地元が山崩れの大きな被害を受けたことは何となく知っていた。



 Uターン就職した俺が豊に再会したのは、町中の喫茶店だった。

 外回りの合間の息抜きだったが、店に入ってきた相変わらずムダにでかい図体には息が詰まったものだ。

 だが、その傍らに立つ黒髪の清楚な美人の姿は、俺の心を解きほぐしてくれた。

 それでもう、察しがついた。

「いつから?」

「今年の春から」

 豊はいつもの口調でぼそぼそと、例の如く回りくどい話を始めた。

要約すると、静とは結婚を前提に交際していた。

 成人式を迎えるために閏神の山に登って、やっとのことで愛を告げたらしい。

「例のアイツは?」

 強敵だったはずの皐のことに触れると、豊は沈黙した。

 背筋が凍るほど凛とした声が、言葉を継ぐ。

「亡くなりました」

 豊の大きな手が動いて、それを遮った。

「あいつのおかげなんだ」

 静さんの代わりに、割と分かりやすく話したのは、こういうことだった。


 皐は地元で就職して、地価の安さと環境の静かさを生かしたプロバイダ事業を1つ立ち上げていた。

 ところが、あの豪雨災害が起こり、その被害で成人式さえもできなくなったらしい。

 皐は復興のために駆けずり回ったが、その無理が祟って命を縮めることになってしまった。

 死期を悟った彼は、災害で中止された成人式を閏神の祭で山で行うことを提案して死んだのである。


 そこで静さんは、明るく微笑んでみせた。

「私も皐さんのそばで働いてたんです。心配で……だから、よく思い出しました。豊さんの背中を」

 彼女に叱り飛ばされて恋敵を背負った大きな背中は、俺の側からは見えない。

 だが、察しのついたことがある。

「そのきっかけは、あの俳句だった」

 静さんは頷いた。

「俳句好きだったひいお祖父さんの影響で、皐さんも作っていたんだそうです」

 それは、俺も思い出すことができた。

 告白に失敗した話にはイラっときたが、その句は悪くないと思っていた。


  春の霧雨は、傘を差しても意味がない。

  それでも二人で肩を寄せ合って歩きたい。

  せめて4年に一度の、閏神の祭では。


 おそらく皐は察したのだ。言い淀んだ豊の言わんとすることを。

 もしかしたらと思って尋ねてみた。

閏雨じゅんうというんじゃありませんか? ひいお祖父さんの号は」

 静さんは怪訝そうな豊の前で、小首を傾げた。

「そうだったかと思いますが……どうしてそれを?」

 休憩にしては、時間を取り過ぎている。答える代わりに、俺は豊に尋ねた。

「これから、どうするんだ?」

 豊はきっぱり答えた。

「こっちの仕事辞めて故郷へ帰ります」

「大丈夫かお前」

 本心から心配したのだが、返事は平然としたものだった。

「皐のコネがあるんで」

 死んだ恋敵の世話になるのは、俺なら御免被るところだが。

 とりあえず、祝福を込めて言ってやった。

「それ先に言え」

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春雨に濡れて行こう 兵藤晴佳 @hyoudo

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