ちいちゃんの鋏

 ちいちゃんは私の保育園の時に出来た友達で、あまり人と話さない子だった。私と同い年なのに妙に落ち着いていて、いつも人の顔を見ていて、私は少しちいちゃんを不思議に思う。

 ちいちゃんと友達になりたいな、そう思う。

 だからだろう、ちいちゃんが砂場で遊んでいる時に必ず蟻を踏み潰したり、手足を千切っていることに私だけが気づいたのは。

 ちいちゃんのその時の表情は憎しみも楽しみもなくて、ただそうすることが自然であるような穏やかさで、私はそのちいちゃんの顔があまりにも自然なものだからちいちゃんのその振る舞いも自然なものであるように感じてしまった。ちいちゃんこそが世界の在り方として正しくて、他は何も正しくない。そんな心地。


「ねえちいちゃん」

「え、なあに?」

「ううん、なんでもないよ」


 ちいちゃんは声をかけるとその行動を咎められると思って必死に隠そうとする。私はそれについて何も言わない。気がつかないフリをする。

 私の知る世界の中で、ただ一人。ちいちゃんだけが正しいことをしているように見えた。

 きっと、ちいちゃんのその在り方に私は心動かされたのだろう。


▲▲▲


 小学校に上がる。私はちいちゃんと同じクラスになる。

 ちいちゃんの行動は収まることはなくて、むしろエスカレートする。私はちいちゃんに話しかけてちいちゃんと遊ぶ普通の友達であるように振る舞いながら私と一緒にいる時に、ちいちゃんが私に隠れてこっそりと生き物の命を奪う様を見逃さない。

 ちいちゃんは拘りが強い方で、殺し方が確立させていく。蟻を殺す時は踏みつぶさない、必ず左腕から千切るようになる。

 そうして蟻では飽きたらなくなって、ちいちゃんは鋏を手にするようになる。

 小学校で、犬や猫がいなくなったということが話題になる。ああ、ちいちゃんだなと私は思う。

 ちいちゃんの家には普段誰もいない。ちいちゃんのお父さんもお母さんもずっと家を開けている。だから、きっとちいちゃんは夜になると外に出て、犬や猫を殺す。


「ちいちゃん。遊ぼうよ」

「うん」

「わあ、うれしい。遊びにいってもいい?」

「いいけど。わたしのうち何も無いよ」

「いいよ、何もなくても。ちいちゃんと遊びたいの」

「うん」


 そうしてちいちゃんの家に行く。

 私はちいちゃんと遊びながら、ちいちゃんが席を外した時にちいちゃんの部屋を漁る。

 ちいちゃんの学習机の中に鋏があって、刃の部分はとても綺麗だけど、親指穴と四本指穴が赤黒い汚れがあるのに気付く。

 きっとこれで、犬や猫を殺しているんだ。

 そう思って、私はその日ちいちゃんの家に泊まる。お風呂に入ってちいちゃんの体を見る。

 ちいちゃんの体にはたくさんの痣がある。


「お父さんとお母さんが、愛しているからって」


 そうちいちゃんは言う。私は何も言わない。白く、もちもちしたちいちゃんの肌の黒いシミのような痣がいくつもあって、それはちいちゃんの肌を侵食しているように見える。

 夜になって、ちいちゃんと一緒に眠る。

 真夜中に、ちいちゃんが布団から起き上がる気配を私は感じる。机の引き出しを開けて、鋏を取り出す音がする。ちゃきり、という音がする。

 ちいちゃんは私に気にも留めずに外へ出ていく。

 私は起きて、ちいちゃんを着けていく。ちいちゃんはもう生き物を殺すことで頭がいっぱいで、私には気づかない。

 そうして、私は見る。

 ちいちゃんがとても綺麗な手際で猫を捕まえて、ゆっくりと鋏を差し込む様を。あの日、蟻を解体するのを見たのと同じようにちいちゃんは命を奪っていく。

 猫は声もあげない。ちいちゃんの殺し方がとても綺麗で、あまりにも自然だから。世界がそうであるように鋏で切り込むものだから。猫は声もあげずに死んでいく。そうするのが命の正しい流れであるように。

 その夜、私はちいちゃんに気づかれないように布団に戻ってちいちゃんが帰ってくるまで眠らなかった。


 小学校高学年になって、私が引っ越すことになる。

 私はちいちゃんに最後に遊ぼうと行って、ちいちゃんの家へ行く。

 ちいちゃんが目を離した隙に鋏を二つに分けて、私は家に帰る。

 そうして、ちいちゃんの鋏を奪って、ちいちゃんが気付く前に私は引っ越してしまう。

 どうしてこんなことをしたんだろう。車の中で鋏の片割れを見つめながら、私はぼう、っとそう思う。


 あっという間に時は流れていく。

 私は新聞やニュースをチェックするけれど、私と同い年の女の子が人を殺した話を見ないで少し安心する。ちいちゃんは拘りが強いから、私が半分奪った鋏でないと命を奪えないのだ。つるつるとした鋏の刃に指を当てて、私は何もできないちいちゃんのことを考えて日々を過ごす。

 大学に入学して、サークルの新歓コンパで私はちいちゃんと再開する。


「もしかしてちいちゃん?」

「あ……」

「うわー久しぶり! 元気だった?」

「うん、元気だったよ」


 そうして私とちいちゃんの交流は再開される。

 ちいちゃんと同じ講義を受ける。同じサークルに入る。同じゼミに入る。

 私はちいちゃんの家で日々を過ごす。

 ちいちゃんからあの日の完全性は失われていて、何処にでもいる女の子になっていた。ただ少し人よりもおどおどとしていて、静かな女の子。

 二人で過ごす。ちいちゃんは鋏について何も言わない。

 私はちいちゃんに口付けをする。頬に手をあてて、ちいちゃんの体に手を滑らせていく。


「ちいちゃん。大好きだよ」

「うん……好きだよ」


 鸚鵡おうむ返しのちいちゃんの言葉。ちいちゃんから私を好きと言った時なんて、一度もない。

 ちいちゃんの体に痣はもう、無い。ちいちゃんは私に抱かれながら、うつろな瞳でどこかを見ている。

 どうして、私はちいちゃんから鋏を奪ったのだろう。私はあの時、ちいちゃんという存在が正しいと思ったはずなのに。命が生きながらえていくよりも、ちいちゃんという世界の流れのようなもので命が奪われていく方が正しいと私は感じたはずなのに。

 ちいちゃんは大学で私以外の友達も出来て、たまに笑う。 

 ちいちゃんは普通に生きていて、きっとこのまま生きていけば普通の道を歩いていける。

 私はまだ、あの頃から心が離れていない。ずっとずっと、何かを求めている。

 きっと、私はちいちゃんの完全さが妬ましかったのだ。ちいちゃんが何かの命を奪って、それで心を穏やかにして生きていけることが、ただ妬ましかったのだ。

 私は誰からも見つめられていない。パパもママも、私の事を見てくれなくて、私は誰かに見つめられてかったのに誰も見つめてくれなくて。だからちいちゃんの家に何も言わずに泊まっても何も言われない。それは私の存在が私の家族にとって、不純物であるようで、自然な流れの中にいないようで。

 同じだと思ったのに。ちいちゃんにはとても純粋な殺意があって。

 ちいちゃんの部屋に泊まった小学生の頃のあの夜、私はちいちゃんに殺されようと思ったのだ。蟻でも犬でも猫でもなくて、私がちいちゃんに殺されれば、とても綺麗に、世界の在り方としっかりと噛み合うことが出来ると思ったのだ。

 だから殺されようと思ったのに。ちいちゃんならそうしてくれると思ったのに。

 でも、ちいちゃんは私を殺さなかった。ただ鋏を持って、外へ行ってしまった。


 夜になって、ちいちゃんがお風呂に入っている隙に私はちいちゃんの机の上に鋏の片割れを置く。

 ずっと、ずっとちいちゃんが探していた鋏の断片。

 押さえ込まれていたちいちゃんの在り方が解き放たれた時、ちいちゃんは私を殺してくれるだろうか?

 完璧だったちいちゃんを押し留めたひずみが、私へ向けて開放されないだろうか?

 わからない。ちいちゃんが私を見つめてくれるかもしれないし、また犬や猫を殺すかもしれないし、もしかしたらもう全ては失われていてちいちゃんは何も殺さないのかもしれない。

 ちいちゃんが普通になんてなっていませんように。他の子も誰のものにもならないで、ただ鋏を振るってくれますように。

 私はこの鋏で、ちいちゃんが正しく壊れてしまえばいいな、なんて思う。

 私はただ、ちいちゃんが鋏を手に取ることを想って眠る。


 ちゃきり、ちゃきりと音がする。〈了〉

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