菖蒲が揺れる頃に
白藤 桜空
第1話
赤い提灯が揺らめき、女の白粉と男の汗臭い匂いがお香でない交ぜになっている。夜の闇に負けじと煌びやかに光り輝くその街は、女と男の欲望が入り混じる花街、𠮷原。
今日は年に一度のある祭りで、人々がいつも以上に賑わっている。
それを一人の遊女が格子付きの窓越しに見つめている。煎餅布団に寝転んでいる彼女は、呼吸がか細くヒュウヒュウと鳴り、頬は骨が浮き出る程に痩せこけ、白粉を塗ったように青白い顔をしていた。体にこびりついた垢は黒ずんで異臭を放ち、黒くて長い髪にはしらみが這いずっていた。
室内には濃厚な死の臭いを打ち消すためにお香が焚かれていたが、彼女の余命の短さを誤魔化せるものではなかった。
しかし当の遊女の顔は穏やかなものだった。小さな窓から微かに聞こえる祭りの喧騒を愛おしそうに見つめ、カサカサに割れた唇で唄を口ずさんでいた。
すると突然、眼前にお面姿の
「お嬢ちゃん、わっちの傍は危ないでありんす。病が移ってしまいんすよ」
だがお面の童は無言で見つめ返すだけだ。
困った遊女は、ふと思い出す。枕元にある盆を探り目的の物を掴むと、ズルズルと這って窓辺に近づく。
「ほら、これを持って行っておくんなんし」
その言葉と共に差し出された遊女の掌には、コロンと色とりどりの物が転がった。それは
遊女は格子の隙間から童に差し出す。と、童が初めて声を出した。
「お駄賃、
その瞬間童のお面が光り輝き、遊女の全身を包み込む。目が眩んだ遊女は瞼を固く閉じるのであった。
一瞬だろうか、永遠だろうか。しばらく目を閉じていた遊女は、ふと自身の体の違和感に気づき、おそるおそる目を開ける。
するとそこは空の上であった。頭上には満天の星空が広がり、眼下には赤く光る町並みが蠢いている。遊女の目の前ではお面の童が緑のたてがみの馬に跨っていた。目の前、ということは、自身も馬に乗っていると気づいた遊女は、慌てて童にしがみつく。
「お嬢ちゃん! こ、これは、一体何が起こっておりんすか⁈」
「…………」
だが、童からの返答はない。遊女はますます混乱して言葉を重ねる。
「こんなの落っこちてしまいんす! お嬢ちゃんも、こんなところから落ちたらひとたまりもありんせんよ!」
「……姉様は、変わらんでありんすね。」
「……え?」
「姉様はいつも人の心配ばかり。優しすぎるでありんす」
「お嬢ちゃん、もしかして……?」
「だからあちきは最後まで寂しくなかったでありんす。そばにいて、励まし続けてくれた姉様がおりんしたから。でも、今苦しんでる姉様のそばには誰も近寄ってきやしんせん! あんなに優しくされた恩を忘れ! あんなに敬う素振りをしていたのに! ……だから、せめて、あちきだけでも、最後までお供致しんす」
そう言い募った童のお面の下からは、涙がぼたぼたと零れ落ちていた。
「お嬢ちゃん……いや、
遊女は撫子と呼んだ童の涙を拭って後ろから固く抱きしめる。
撫子の涙はキラキラと夜空に散っていった。
二人を乗せて飛んでいた馬がいななく。ハッとした撫子と遊女は、つと吉原を見やる。ぬらりと赤く照った町並みも、祭りで浮かれた人々のざわめきも、今の二人には遥か彼方の出来事だった。
「いつもは大きく見えたあの門も、ちっぽけでありんすね」
「あちきらはもう気にしなくていいでありんすよ。ねぇ、姉様、覚えておりんすか? いつか一緒に広い空が見えるところで星を眺めようって約束」
「もちろん覚えてありんす」
「えへへ……姉様、これからはずっと、ずぅっと一緒に見られるでありんすよ」
「……そう。そうでありんすか。撫子、お迎えご苦労でありんす」
そう言って遊女は童に金平糖を渡す。
かつて、満天の星空を知る前に遊郭に来たと言う禿に、慰めで渡した金平糖を。
撫子が受け取るとお面が割れて弾け、光の粒となって二人を包み込む。気づけば遊女は花魁道中の格好をして空中を立っていた。傍には撫子と馬に加え、紫の毛並みの牛がいた。
「よッ!
そう言って自分の肩を差し出す。菖蒲太夫は一瞬呆気にとられる。しかしすぐに微笑みを浮かべて、少女の肩に手をかける。そのまま二人は馬と牛を付き従えて、天の川を歩き始める。
ズー、カラン、ズー、カランと音がする。
高下駄で外八文字を描く菖蒲太夫の姿には、もうどこにも惨めな気配はなかった。吉原から響く祭囃子は、ただただ二人を見送っていた。
撫子と菖蒲は誇らしげに天高く昇っていった。
祭りの喧騒が静まった頃、菖蒲太夫の病室に遣手婆が訪れる。だがそこには、金平糖を握っている彼女が待っていた。
瞠目する遣手婆。慌てて駆け寄り彼女の頬に触れると、陶器のように冷たい感触だけが返ってきた。
遣手婆は一瞬眉間に皺を寄せ、しかしその直後に優しいため息を零す。
「菖蒲太夫、あんたなんて幸せそうな顔してんだい」
遣手婆は痩せ細った菖蒲の頬を撫ぜる。
「こんな部屋からでも、少しは祭りを楽しめたのかい?」
–––––盆踊り。死者を供養するための祭りである。また、お盆には死者があの世から帰って来て、生者に会いに来るとも言われている。
菖蒲が揺れる頃に 白藤 桜空 @sakura_nekomusume
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