02 埋め尽くされる苦しみ
「
今朝当番を代わってもらった、朝当番遅刻常習犯として知られる音楽教師の
しかし、それだけポツリと呟いたっきり何も話そうとしない。川相はこれで分かっただろうという風に
どうやら、地元住民や教師陣にとっては割と有名な話であったようだ。
「黒住桃花は、何人もの男性と恋をした女性として、ここら辺では有名なのよ。
そしてそれは、何人もの男を誑かしたように見える。当事者がどう思っていようとね。だから彼女が全盛期の時期から、周りの女たちの恨みがふつふつと湧いてきていたらしくて、悪女とか、妖鬼とか呼ばれていたの。
でも、彼女はとても強い女性だった。老後も、人の白い目を気にもとめず、あの家に住み続けて孫娘を守った。息子さんや娘さんが、病気や事故で死んでしまうのを目の当たりにしながら、ね。
最後に残った孫娘 白羽さんだけは、必死に守っていたそうよ。
でもそんな強い女性でもいつかは老いる。病気に負けて、桃花さんが死んだあと数日は何もなかったけれど、そのあとは……」
イジメが始まった。
黒住桃花の孫娘というだけで、外に出て来た白羽に石が投げられ、固く握りしめられた拳が振り下ろされ、蹴りが飛んできた。それゆえに、彼女は事情を知られていない隣町へと大量の種を買いに行ったのを最後に、門戸を閉ざして家で引きこもり生活を始めたそうだ。
……それを、晴寄は外に無理やり連れ出してしまった。
川相からその話を聞いた晴寄は、血相を変えて一限目終業五分前に職員室を飛び出し、終業のベルが鳴った直後の教室に飛び込んだ。
一番後ろの隅の席。すれ違った教師はあえて無視をしていたのか、気づかなかったのか。
黒住白羽は三方を囲う席の生徒に机を寄せられ、見えない戦いを強いられていた。
「何をしているんですか!」
温厚な晴寄の、珍しい怒号が飛ぶ。一直線に白羽に歩み寄り、シャーペンの芯を刺そうとしていた女子生徒の手を払った。
短く響く
そして、教室にいる生徒たちの、興味津々な視線が、ドっと晴寄に向けられた。
「先生、どうかなさいましたか?」
少し離れた席に座っていた花宮が、髪を逆立て獅子のような迫力を身に纏った晴寄に、怯えもせずに話しかける。
口元には朝と同じようなふわりとした笑み。しかし、目はどこか意地の悪い狐のように歪んでいた。
「花宮さん、あなたはここから遠い席で当事者とは違うでしょう。口を挟むのはやめて貰えないでしょうか?」
できるだけ声のトーンを上げて、怖がらせないように花宮に忠告する。
しかし意識は、花宮にもイジメを行っていた女子生徒にもはっきりと向け続け、どちらも逃すまいとしていた。
「体罰、ですわね」
「では、君たちは傷害ですね」
「訴えてもよろしいということかしら」
「ここで放置すれば、君たちはロクな人間にならないだろう」
「この女に、絆されたのではなくて?
先生も、知らないわけが無いでしょう? この女は、黒住桃花の孫娘よ?」
蔑みの視線が花宮から放たれる。晴寄もすくみ上がった女子生徒から一度目を離し、正義の意思で真っ向から睨みあげた。一人を大勢で、そんな横暴を許してはなるものかという確固たる意志だった。
「いえ、それは違います。僕は君たちの担任教師。人の道を踏み外すようなことをしている生徒を止める義務があります。
仮に、あなたたちが彼女にしていることが正義だとしても、それは行き過ぎた正義です。人を、そのように傷つけていいはずがない」
「それは、ただの偽善ですわ。世間一般の常識で考えると正義かもしれませんけど、彼女は黒住桃花の孫娘。それは正義ではなく悪です」
花宮の勢いは止まらない。何が彼女をこうまでさせるのか、黒住桃花の孫娘であることが、何がいけないのか、晴寄には分からなかった。
既に教室中の視線が晴寄に向いていた。その視線は、一様に負の感情を持っていて、クラスの人間が白羽に暴力を与えることを容認し、晴寄を排除しようとしていた。
始業のベルが鳴る。次の授業の準備に来た教師によって晴寄は、教室を出ていかざるを得なかった。そして奇妙なことに、一限だけという始めの話と違い、白羽が帰宅したのは昼休憩のあとだった。
************
晴寄が教室の現状を目の当たりにした次の日。彼は謝罪のために、白羽の家を訪れた。
眠気眼を擦りながら出迎えた白羽は、いつもの通り灰色のテープをその手に渡す。晴寄はもう何も言わず、桃の枝を一節折って、白羽に手渡した。
桃は既に玄関を埋め尽くし、居間にまで浸食を始めていた。
その桃色の空間でポツリと、いつも以上に瘴気を放つ黒百合一輪。ボサボサの髪のなかから放たれる強い視線は、まるで晴寄を睨んでいるようだった。
「昨日は、すみませんでした。ほんとうに。
あなたの現状を知りもしないで」
「…………」
無言。
しかしその目は離さず。
「お詫びと言ってはなんですが、薬や絆創膏を持ってきましたので、傷の手当てを」
「…………」
そう言って、晴寄は近くのドラッグストアで貰うビニール袋を掲げた。
無言。しかし、黒髪が少しざさりと揺れた。
晴寄は少しだけ笑顔を引きつらせた。そろそろ耐えられないから、なにか反応が欲しい。
「上がってください」
白羽は少し顔を俯かせ、少し見えていた白い肌を隠してそう呟いた。
俊敏に、最小の動きで差し出された来客用のスリッパ。
「では、お邪魔します」
その戸惑った小動物のような可憐なしぐさに、すこし笑みを浮かべそうになりながら、晴寄は靴をそろえて玄関を上がった。
彼は、部屋に上がる前、むせかえるような桃の香りを、どこか儀式の前哨戦とばかりに胸いっぱいに吸い込んだ。
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