03 癒えない傷を

 家のなかはとても古風な作りだった。案内された居間の床は玄関と同じ板張りで、部屋の中央には少し小さめのちゃぶ台が置かれている。

 少し大きめの窓は、他人からの批難から逃れるためか雨戸が閉められているので、まだ夕方だというのに少し陰鬱な雰囲気が部屋を満たしていた。天井には時節パチパチと呼吸をする木組みで覆われた天井灯があり、その白い光は闇を抱えた少女の顔をチカチカと明滅させている。


「どうぞ」


 白羽しらはにしめされたちゃぶ台には座布団が四つ置かれ、座るものが居なくても綺麗に洗濯されて整えられている。

 白羽はそのうちの二つをくっつけ合わせるように近くに置き、晴寄はれよりを促した。

 しかし、晴寄は首を振ってそれを断った。

 白羽の訝しげな視線が晴寄を刺すように見つめる。


「おばあさまに、ご挨拶をさせてくださいませんか?」


 ある意味賭けではあった。この言葉を白羽はどう受け取るか。もし断られたらすぐに引き下がるつもりであったし、言い訳も考えてきてある。

 しかし、返事をしない白羽の顔は、若干青くなっている。引き下がるべきかと自分で判断し、晴寄は口を開こうと……した。


「こちらです」


 白羽はなぜか少し怯えを潤ませた黒の瞳を逸らして、晴寄を和室に案内する。

 若干驚きを隠せなかった晴寄だったが、我に返って部屋に入り、正座しておりんを鳴らして線香をあげた。

 あの独特な香りを放つ煙がふわりと天井に昇っていき、そこで消える。


「祖母のことを、誰に聞いたのですか」

「川相先生ですよ」

「あぁ、あの音楽の……」


 学校を休んでいる白羽が覚えているということは、印象に残りやすい女性なのだろう。あの人ならいいか、と言いたげな白羽のため息が晴寄の耳に小さく届く。


「私の事情を知っているのなら、これ以上ここに居るのは危険ですよ。私は”悪女”の孫娘ですので」


 悪女、というより羅刹女のような酷薄とした表情。すこし自嘲気味に口の端が吊り上がっているのも、和室が薄暗いのも相まって、どこか凄みを感じさせる。まだ燃え切らずひゅるりと天に昇る線香の煙も、今まさに晴寄を縛り付けんと蛇のように狙っている気配を感じさせた。


「白羽さんが私の生徒である以上、僕がここに来るのはなんらおかしいことではありませんよ。安心してください」

「これはこの地域の問題です。晴寄先生が一人で何とかできる問題ではありません。ましてや、あなたは新任教師。何の力もない」

「何もできなくても、僕だけはあなたの味方ですよ」


 ここにいては息が詰まると感じ、立ち上がって居間に戻り、座布団の上に正座した。白羽はどこか剣呑とした面持ちで晴寄の後姿を見ていたが、晴寄がビニール袋を漁り始めるとおとなしく晴寄の目の前に座った。しかし、その距離は若干遠く、彼女が警戒していることが如実に分かってしまう。


「痛いことはしないので、傷口を」


 ビニール袋から消毒液と綿棒、絆創膏を取り出しながら努めて優しい声でそう声をかける。白羽は迷ったように足を動かしていたが、晴寄が向き直ると、ようやく膝を見せた。

 その白い肌には小さな突起物で刺された傷がいくつもあり、そのうちの瘡蓋かさぶたができてしまっているものが昨日できた傷なのだと分かった。


「僕としたことが……、そういえば瘡蓋ってできるんですよね」


 不明瞭な言葉をつぶやき、ばつの悪い顔で晴寄は消毒液を戻し、ビニール袋から塗り薬を取り出して封を切った。手のひらに白い液体を取って瘡蓋の上から丁寧に塗っていく。


「乾燥すると、かゆみが現れて瘡蓋を剥がしたくなりがちです。せっかくの綺麗な足をしているのですから、できるだけ痕は残さないようにしないと……」


 初めこそ少し手間取ってぼやいていたが、着々と傷の手当てをする彼はとても慣れていて、きちんと考えて購入されたのであろう種類にこだわりを見せた絆創膏をその瘡蓋の上に張り付けた。

 まるで母親のように優しい手つきで。慈愛に満ちた聖母のように。


「……おばあちゃん」


 唐突だった。亡き祖母を呼んで、白羽は目を拭った。

 ぱたりと滴が床に落ちて染みを作った。


「白羽さん」


 そっと、自然に手が伸びた。小刻みに震える白い頬を、つうと伝うその滴を、優しく触れて指で拭う。

 幼さを残した黒い目が晴寄の瞳をのぞき込む。

 信じられない、という風に。ありえない、という風に。

 晴寄はその目に魅入られ、自分の行動に目を向けた。指の先に少女の小さな頬。

 はっと息をのんで手を離した。


「申し訳ありません、つい……。手が、伸びてしまって」


 この行為は彼女が一番望んでいない行為だ。

 当然だ。彼女は、幾人もの男を愛し恨まれた祖母を持ち、それゆえに今の状況に至っているのだから。

 そんな彼女にとって、この好意は恐怖以外の何物でもない。

 その証拠か否か、白羽の瞳にはまた新たな雫が生まれ、ぼたぼたと床を濡らしていく。慣れたはずの、むせるような桃の香りが晴寄の頭を鈍くする。


「何がしたいんですか……! 何のために優しくするんですか……!」


 か細い悲鳴混じりの嗚咽。

 少女が小さなその身に背負った人々の怨嗟、それを受けてひどく傷つき心を病んだ悔恨、怒り、悲しみ、そして大きな寂しさが、満ちて溢れて感覚の洪水を作った。

 視覚、聴覚、嗅覚が麻痺していく。


 ――――だから、気づかなかった。


 目の前で振り上げられた鈍器の存在に。避けられなかった、そのぼんやりとした思考では。

 がつりと鈍い音が響いてそして、歪んだ意識の端で血が流れた。

 ぼんやりと霞みはじめた視界のなか、真っ青な顔に涙をためて骨董品らしき壺を振り下ろした状態でこちらを見下ろしている二つの目があった。


「僕が悪かったのですから、泣かないで……ください」


 どくりと脳を巡る血管がひと際音高く脈打った。

 私は大丈夫ですから、と言葉を繋ぐこともできず、晴寄は意識を闇に叩き落された。


**********


 晴寄が目を覚ましたのは倒れた場所と同じく居間のようだった。

 痛む頭を何とか宥めて辺りを見回し、晴寄は自分が横たわっている布団の上、その腹のあたりで安らかな寝息を立てている白羽を見つけ、一つ息を吸った空気のなかに桃の香りをかぎ取った。

 ここはまだ白羽の家らしい。ということは、倒れた晴寄をなんとかして白羽が布団の上まで運んだのだろう。

 眠っている白羽を起こすのも忍びなくて、晴寄はもう一度頭を枕につけた。自分が犯した愚かな行動にそっと目を伏せる。

 いつまでも悩んでいては仕方がない。彼女が起きたらそれこそ必死で謝ろう。

 そう決めて晴寄は息を吸った。


――煙の臭い。


 がばっと身体を跳ね上げる。同時に高鳴る心音。

 痛む頭を必死で抑えつけて身を起こし、ハンカチで顔を覆って家のなかを彷徨った。台所のあたりで臭いがきつくなる。


「白羽さん、起きてください。火事です!」


 普段穏やかな晴寄が切迫した声を上げる。叩き起こされた白羽が危機を察して顔を引きつらせた。


「なぜ、どうして?」


 ただそんな疑問符を残して。

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