春花のヒバリ

紫蛇 ノア

01 飛べない白羽

「この木の枝を手折ってくれませんか?」


 乱れた髪を肩まで伸ばし、生気を写した黒い瞳だけをこちらに向けた少女が、なんの混ざりけもなく言葉を向けた。言葉の矛先を向けられた晴寄はれより耕也こうやは、その異様さに少し身を引きながら手中の紙束に少しシワを付けた。


「それはどうして、ですか?」


 目の前の少女、晴寄の生徒であり不登校でもある黒住くろずみ白羽しらはのプリントを持って訪問しただけの彼は、困惑を顔に浮かべて質問に質問で返す。

 白羽はざらりと髪を揺らして顔を上げ、少し怯えの混じった眼で晴寄をじっと見つめてから口を開いた。


「この桃の木、もう見たくないんです。

 ……だけど、切り落とすにはもったいない気がするから。

 あなたが来るたびに、上から折ってもらいたいんです。幸い、そんなに背は高くないですし」


 白羽はそう小さく呟くような声を絞り出して、晴寄の後ろ、庭で紅桃色の花をつけた桃の木を小さく指さした。

 その周りを囲うのは椿の生垣。引きこもりの少女が一人で住まう家の庭にしては、とてもきれいに整えられているそこに一本だけ立った桃の木だった。

 だが、白羽が呟いた言葉には晴寄の投げかけた質問の答えが載っていない。どうしてか、彼はそう尋ねたのだ。しかし白羽はそのことに気づいていないのかわざと無視しているのか、晴寄の隣、玄関の壁を擦るように抜けていき、桃の木のそばに立ってもう一度上を指さした。


「ほんとうに折っても良いのですか? こんなにも立派なのに」

「持ち主が良いと言っているのです。さぁ、私では背が届きませんので一本折ってください。

 あ、そのあとにこれを折った枝先に巻いてください」


 少し震えた白羽の小さな手から灰色のテープを受け取り、パキリと音を立てて晴寄は桃の木を手折った。言葉通り、一節目分。手の中で花の数だけ枝がゆらと揺れた。

 はいどうぞ、と白羽にその枝と端を切ったテープを渡すと、彼女はテープを服のポケットに放り、複雑な色を秘めた目で桃の枝を見つめた。


「ありがとうございます、晴寄先生」


 先週赴任し、白羽が不登校児だと知って訪問した晴寄は、彼女の口から初めて「先生」という言葉を聞いて少し安堵する。どうやら彼は一応「先生」として認められているようだ。

 これから彼女はどうするのだろう、晴寄はそう思いながら少女の行動を見ていると、彼女はその枝を大事そうに玄関の花瓶に生けた。


「そこに飾りたかったのですか……」

「……いえ、これは祖母が植えた桃なので、早く無くしてしまいたいのです。ですが、生を受けた花に罪はないですから」


 白羽の祖母。黒住桃花は、二年前に亡くなったと晴寄は周りの教職員から聞いた。その時から彼女は人目を避けて夜にだけ活動し、祖母の遺産を使いながら庭の畑を使って飢えを凌いでいるとか。そのため、本来なら中学二年生という立場の彼女は、中等教育をほとんど受けていない。しかし彼女がそのような状態に陥った理由は、赴任したての晴寄には分からない。晴寄が白羽の情報を得た教職員は首を横に振った。なので晴寄は現状を見て、おそらく祖母が居なくなったショックなのかもしれないと感じていた。

 そして今日、白羽の姿を実際に見て、晴寄はまともな生活を送れていないことを確信した。しかし晴寄は若いと言えど二五歳。勝手に家に上がり込み、白羽の周りの世話まですれば、最悪の場合捕まってしまう。


「そうか、そうですよね。

 では白羽さん、その約束は守りましょう。その代わり、ここに来ることと、このプリントを受け取ること、そして少しでいいので学校に来ることを約束していただけませんか?

 僕はその枝を殺すということまでしているのです。それくらい守っていただかなければ困りますよ」


 白羽の顔が固まる。視線が桃の木と晴寄の顔を往復する。晴寄は白羽にむけた目を横に逸らすことはしなかった。

 ふっと小さな息が吐かれる。白羽は少し怯えた目で晴寄を見上げ、善処しますと呟いた。


**********


 白羽が晴寄に初めて会ったときから、およそ三週間。

 桃の木は既に三分の一が手折られ、少し広めの玄関にずらりと飾られているそんな日、彼女は晴寄のたゆまぬ説得で、朝の一時間だけ学校に顔を出すことになった。

 きっちりと折り畳まれて保管されていた黒のセーラー服、黒のローファーを履き、顎のあたりまで伸びていた黒髪を少し目の上を覆うくらいまで切り揃え、ぴしりと身なりを整えたその姿はその前より少しだけ大人びて見えた。

 わざわざ朝の挨拶担当の音楽教師に当番を代わってもらった晴寄は、初めて学校で顔を合わす白羽に優しい眼差しを向けて昇降口で出迎える。

 小さな雫を目の端に浮かべ、生まれたての小鹿のような雰囲気を醸し出しながら校舎の周りを右往左往していた彼女は、知っている顔を見て安堵の表情を浮かべた。

 そんな彼女の姿に優しく笑みを浮かべながら、晴寄が白羽の肩に優しく手を置いて教室まで導くと、白羽はおずおずと二年三組の教室に足を踏み入れた。


「おはようございます、晴寄先生! 白羽さん……もお久しぶりね」


 朝の教室で真っ先に話しかけて来た女生徒の花宮麗衣れいは、吊り目を少し垂れ気味にして友好の笑みを浮かべて白羽を見つめた。びくりと白羽の肩が震える。

 穏やかに始まった一日かのように見えた。しかし雰囲気が明らかに違う。晴寄が分からない程度に覗き見た花宮の瞳には嫌悪の色が混ざっていたのだ。

 晴寄は白羽が何故学校に来なくなったのかを今になって悟った。

 大まかにしか分からないが、これは虐めである。

 晴寄は顔に出さぬ程度に慌てた。思わず持っていたノートを千切りそうになるが、その手を無理やり止めた。「無理なら保健室に行け」そんな言葉を書いてこっそり渡すつもりであった。しかし、書いている暇もこっそり渡す隙もない。

 迫る始業のチャイム。

 晴寄は何も手を打つことができずに、教室を去らざるを得なかった。

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