第4章

第34話 おまえは物なんかじゃないんだ


 フランス南部のラコスト。


 過激派組織・プランタンが潜伏場所として選んだのはエソワとも似た田舎だった。


 ラコストは小さな村だ。いたるところにオリーブの木が生えていて、石造りの家が点在しているだけだった。あたりに広がっているのは草原だ。風が吹くと草花が柔らかく揺れた。村のはずれには青々とした高い丘があって、丘の上までは石畳の道が細長く続いていた。息を切らしながら登れば家々はずいぶん小さく見えた。隣村まで見渡せるような高さだ。アリスはふと足を止めて村の方を見つめていた。砂埃を巻き上げるような風に金髪がなびいた。


 二人は黙々と丘を登り、やっと最後の一歩を踏み出す。目の前に広がっているのは古城だ。


「ここだな」


 ルカは木の陰に身を隠しながら古城を見上げた。かつてラコストを支配したサド伯爵――――倒錯に満ちた人生を送り、サディズムの語源ともなった貴族――――の暮らした城だった。


 城は主を失って早数十年、今となっては屋根もはがれかけているような廃墟に成り果てていた。高くそびえる塀もほとんど崩れていて、朽ちた装飾が夕暮れの光に照らされている。アリスは眉をひそめた。


「本当にこんなところにいるんでしょうか……? こんなに壊れたお城じゃ住めないですよね」

「住むには具合が悪そうだが、都合はいいと思うぞ。村人はこんなところに寄り付かないしな」


 ルカは懐から一枚の紙を取り出した。折り目がついてしまっているが魔法陣が描かれている。青みのかかったインクはエリアスが気に入って使っているものだった。


 彼から借りてきた魔法陣の紙を片手にルカは詠唱した。思念魔術を発動させる対価として、宝石を一つ溶かした。


「……おい、ライアン。聞こえるか?」


 片耳に手を当てながら小声で話しかけると、額の奥に軽い頭痛が走った。


「……あーあー、はい。大丈夫です。ちゃんと繋がっているみたいですね」


彼の声が耳の奥で反響する。思念魔術が上手く働いているようだ。彼は丘のふもとにいるはずだが、すぐそばで話されているかのようによく聞こえた。


「あいつの魔法陣を使うと対価が高くつくが、早く済んでいいな。他の奴との通信はどうだ?」

「それも大丈夫です。むしろ先生が最後ですよ。ふもとからはるばる徒歩でご苦労様でした」


 ライアンは軽く笑った。思念魔術では顔は見えないが、彼がにこにことしているのが頭に思い浮かんで、ルカもつられて笑みを零した。


 かつて任務を請け負っていたルカと違って、今も一生徒であるエマやライアンは直接関わることができない。だから彼らは学院の生徒としてではなくルカの私兵として作戦に加わることとなった。ライアンはふもとで通信役として動いていて、エマは少し離れたところで待機しているはずだ。


 彼女の姿が見えないだろうかとあたりを見回したが、木々に囲まれているから遠くまで見渡すことができなかった。ルカは頬を掻いた。


「あ、そういえば俺、さっきエリアス先生から伝言を預かったんですけど」


 ライアンはふと思いだしたように言った。ルカは近くの木にもたれかかると腕を組んだ。


「あいつから伝言? 作戦の変更か?」

「いえ。本当にただの伝言です」

「あいつからは緊張感をかけらも感じないな……。こんな時になんだ?」

「エリアス先生はこんな時だからこそって言ってましたけど。それじゃあ、短いのでそのまま読み上げますね。ええと――――」


 彼は少し考えるように黙ってから、たどたどしく口を開いた。


「“いつだったか、一人で寂しく死ぬ気かいって訊いたけれど、あんなものは愚問だったね”」


 わずかに耳鳴りが響いた。ライアンが棒読みで口にしたはずなのに、その言葉はエリアスの声で再生されていた。体温がじわりと高まってルカは目を見開いた。


 彼からその質問をされたのは一ヵ月前、ちょうどアリスと出会う前だった。


 すべてから逃げてばかりいた頃、エリアスは微笑を浮かべながら尋ねてきたのだ。あの時は嫌味な男だと思ったが今ならわかることもあった。彼の目はとても優しいものだった。ルカは俯いてくつくつ喉の奥を鳴らした。


「ああ、そうだなあ……。愚問だったんだろうな」


 ちらりとアリスに視線を遣った。幼さを残した横顔は夕陽に照り輝いていた。この可愛らしい少女がルカを繋ぎ止めて、沼の底から引きずり上げたのだ。ルカは眩しさに目を細めた。


「気づけなかっただけで、俺は最初から一人じゃなかったよ――――エリアスにはそう伝えておいてくれるか」

「……はい、わかりました」


 それきりライアンからの通信は途絶えた。ルカはしばらく木にもたれかかったまま古城をぼんやり眺めていた。ふと空を見上げるが星はまだ見えなかった。日が沈むまでにはまだ時間がある。丘から見える景色は一面夕焼けの色に染まっていて、オリーブの葉が艶々と輝いている。


「先生。とっても綺麗ですね」


 少し離れたところに立っているアリスが振り返った。柔らかくほほえんでいるが、表情はどこか固かった。口角が強張っているのだ。ルカは腕を組みなおした。


「緊張しているか?」


 アリスは慌てて首を振った。しかし頷きを返さずにじっと見つめると、彼女は目元をぴくりと動かした。しばらく無言のままお互いを見つめていたが先に目を逸らしたのはアリスだ。


「……先生が隣にいれば怖くないはずなのに、足が震えちゃいそうなんです」

「それは仕方がないことだ。ただ悪いが俺もそれなりに緊張しているから、励ましようがない」


 ルカが苦笑いすると、彼女はえっと声を零した。


「先生でも緊張するんですか?」

「俺を何だと思っているんだ……?」

「いえ、その、こういうのには慣れているのかなって思って」

「確かに数はこなした。だがしくじれば命に関わるようなことだから、俺はいつまでたっても慣れないな。それに今回はあいつが――――シャルルがいる。正直勝てるか自信がないんだ」


 ルカは組んでいた腕を解いて口元に手をやった。弱々しい声でシャルルの名前をもう一度呟いてみる。耳にかすかな雑音が響いて、おもむろに顔を上げた。


「……い、先生、聞こえますか?」

「ライアンか? 今は安定していてよく聞こえる。どうした?」


 耳を澄ませながらも片手をポケットに突っこみんだ。余計な音を立てないように、丁寧な手つきで中にあるものを引っ張り出してきた。短い鎖の絡まるそれは金の懐中時計で、針は十八時前を指していた。


 もう時間だから連絡してきたのだとすぐに気が付いたが、ルカは黙ったままライアンの言葉を待った。ライアンは短く息を吸った。


「作戦開始です。打ち合わせ通り一分後に裏門から順番に攻撃を始めます。先生とアリスちゃんは最後です。合図は俺が送るのでそれまで待機をお願いします」

「了解。……今全体を見回せるのはおまえだけだ、頼んだぞ」

「はい!」


 彼は一秒も迷わずに言い切ると、別れの挨拶もなく通信を切り上げた。ルカも耳から片手を離した。こっそりと耳を立てていたアリスは呼ばれるよりも早く駆け寄ってきた。ルカは軽く合図してから歩きはじめた。


 一分は想像しているよりも短くて、二人がぽつぽつと話をしている間に過ぎてしまった。


 遠くで破裂音が上がった。


 二人がびくっと身体を揺らしたのと同時に空気が激しく振動した。木の葉にたまっていた雨水が勢いよく振り落とされて、二人の髪がしっとりと濡れる。ルカは手で払いながら早歩きになった。木々の間を抜けると古城がすぐそばにそびえ建っていた。


「近づくとより迫力があるな」


 かかとが石畳を軽快に鳴らす。古城の正門までやってきたルカは、首をそらしながら見上げた。


「アリス、ここまで来てくれ」


 手招きすると、また爆発音が響き渡った。アリスが小走りで近づいてくる間にも三度目の攻撃が行われて、古城から細かな石が落ちてきた。


 古城をぐるりと囲むように五組が配置されていて、それぞれが順番に攻撃を仕掛けている。生徒である二人を含めると総勢十五人―――今までにない大規模な作戦だった。それだけプランタンという組織は脅威なのだ。必ずこの一度で仕留めてほしいとジェラールは重々しく言っていた。彼の信頼を受けて、ルカたちは正門を塞ぐように堂々と立っていた。


「先生、アリスちゃん。順番です。魔術を発動してください!」


 ライアンからの通信に片手を上げた。ルカの隣に立っていたアリスはこくりと頷いて一歩前に出た。一度だけ振り返って不安げにルカを見るが、「大丈夫だ、思いきりやれ」と返してやれば、アリスは眉を下げて笑った。


 アリスは正門のすぐ前で足を止めると、腕を広げて深呼吸をした。息はかすかに震えていたが、鮮やかな目には強い意志がこめられていた。すうっと息を吐きだして、アリスは唇を開いた。


「魔術式、起動――――」


 彼女は詠唱する必要などなかった。それでもルカを真似るようにその言葉を口にした。足元に巨大な魔法陣が展開されて、光が線上を巡る。アリスの身体は神々しい光に包まれる。


 火炎魔術――――彼女の身体に刻まれた魔術式のなかで最も苛烈で情熱的なものだ。


 魔法陣から炎が上がる。アリスの背丈ほどだったそれは一瞬にして熱を増して、皮膚を照り付けるように燃え上がった。炎は圧倒的な熱をともないながら柱となって、空まで突き抜けた。


「あ、つ……」


 炎の柱は轟音とともに形を変えながら揺れている。薄暗くなり始めた空を焦がすように赤い光が輝いている。あまりにも激烈でルカは息を呑んだ。背中には汗がじっとりと浮かんでいた。


「契約は果たされた。求めるものはすでになし。これをもって魔術式を破棄する」


 小さな身体に炎の影が落ちて、白いワンピースが熱風にはためく。アリスはゆっくりと両手を広げて詠唱を打ち消すと、身体を回転させて振り返った。


「先生、わたし、ちゃんとできていましたか?」


 魔法陣が光を失って消えていった。両手はワンピースをやんわりと掴んでいた。


「今ので十分だ。あの炎が目に入らない奴はいないだろう。間違いなくシャルルも見たはずだ。あとは大人しくこちらに来るかどうかだが────」

「それは心配ないと思います」

「そういえば、おまえは最初からあいつが来ると確信していたよな。何か根拠でもあったのか?」


 ゆるやかに首を傾げながら尋ねると、アリスは肩を力ませた。


「根拠というほどのものじゃないですけど……わたしはずっとあの人の物でしたから。気まぐれな人だったけど、でも、わたしがここにいるってわかっていて無視はできないはずです」

「……そうか」


 ルカは古城を見上げた。もう戦闘が始まっているのか遠くで塀が崩れるような音がした。伝わってくる振動が肌をピリピリとさせる。ルカはすぐそばにいるアリスに視線を戻した。彼女は手首をぎゅっと掴んだまま固まっていた。


「シャルルがおまえに執着していることはよく分かった」


 細く息を吐く。


「でもいいか、アリス。おまえは物なんかじゃないんだ。最初から」

「……せんせ?」

「おまえは、おまえだよ」


 ルカははっきりと言い切った。そんな当たり前のことにすらアリスは息を呑んでいた。考えればすぐにわかることだ。それでも自分では気づけないこともあると教えてくれたのは彼女だった。どうしてもっと早くに言ってやれなかったのだろう、とルカは唇を噛む。

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