第33話 もう逃げるつもりはない


 三日が経って、アリスが手首につけた切り傷は綺麗に塞がった。ルカがおっかなびっくり魔術で治してやったそれは、今ではどこにあったかわからなくなるほどだ。昔につけられたらしい傷はまだ残っているが、ルカはひとまずほっとした。


 痛みもすっかり消えているようで、アリスはトレイにカップをいくつも乗せたのを両手に持ちながら応接間へ入って来た。


「紅茶です。お砂糖はこのポットに入っているので、お好きなだけどうぞ」


 丁寧な手つきでカップを並べ終わったアリスは会釈をすると、ルカの隣の椅子を引いた。カップは五つだ。住人である二人の分を抜けば、残りの三つは客人のために用意したものだった。しんと静まる応接間で、一番最初にカップを持ち上げたのはエマだった。


「アリスさん、紅茶を入れるのがお上手ですのね」

「ほ、本当ですか? ありがとうございます」


 アリスは耳を赤くした。テーブルの下で足をもじもじと動かしている。彼女が照れているというのは一目瞭然で、ルカは少しだけ笑った。一方で、アリスが誉め言葉を素直に受け取ったことに気が付いたのか、エマは眉を動かしていた。


 テーブルの右端に座っているライアンも紅茶の味が気になった様子で、ポットに手を伸ばした。中から角砂糖をつまみ上げる。二つを紅茶に沈めるとカップの取っ手に指をかけた。


「うわ。ほんと美味しいよ、アリスちゃん。俺じゃこんなに美味しく入れられない」

「ライアンは下手ですからね」

「エマだって下手じゃん。この前入れたの、渋すぎてエリアス先生噴き出してたし」


 思わぬ反撃にエマはむっとした表情でライアンを睨む。ライアンはくすくす笑うと短く謝罪した。ルカたちと対面するように並んだ三人の客人、その真ん中に腰かけているエリアスはテーブルに肘をついた。


「紅茶談義に花を咲かせるのも悪くはないし、エマちゃんの入れたのがとんでもなく渋かったのは事実だけれど――――そろそろ本題に入らないかい?」

「ああ、そうだな。……それはそれとして、おまえが真面目に話し合いを始めようとするなんて珍しいな。いつも好き勝手に話をしたあげく、長引かせるのはお前の役割なのに」

「んん? アレヴィ、私を罵倒しているのかい?」


 ルカはにこりと作り笑いを浮かべただけで、何も言わなかった。


「君の笑顔ほど不気味なものはないなあ。いやまあ、私としてはこの前のことがあったばかりで、学院の任務的に忙しいんだよ。書類をためこんじゃっててね、学院長からせっつかれてるわけ。早く帰って作業しないと本格的にまずい」

「まともにやっていたらすぐに終わるはずだろ」

「そう言うアレヴィだって、学院にいたころはよく締め切りを破ってただろう。私のことを責めるだけなのは納得いかないな」

「もう在籍していないから何の話かわからないな」


 ルカはわざとらしく両手を上げると、全員の顔を見回した。知らないうちに猫背になっていたのを直すとゆっくりと瞬きをする。ルカは視線を正すと頭を下げた。


「……本題に入る前にまずは謝罪をさせてくれ。この間はおまえたちを巻き込んだあげく丸投げして悪かった」


 ルカは顔を伏せたままの姿勢で固まる。部屋はしんと静かだった。


 早く顔を上げて話を進めなければならないが、この先をどう切り出せばいのか迷って、結局視線も上げられなかった。唇を固く結んだままでいるとシャツの裾が軽く引っ張られた。思わず顔を上げて、服をつまんでいるアリスを見る。彼女は目元を和らげていた。


「先生、ほら」


 心配しなくてもいいと言いたげな表情だ。


 ルカは正面に目を遣った。三人はそれぞれ異なった反応を示していたが、誰もが仕方なそうに笑っていた。ルカは詰まっていた息をゆっくり吐きだした。エリアスが続きを促すように首を傾けたので、ルカは一拍置いて言葉を続けた。


「シャルルは俺の元を離れてからプランタンと呼ばれる組織に属したらしい。あいつは魔術具を作る技術を利用して、アリスの身体を武器そのものに変えてしまった。アリスの逃亡を助けたのもあいつ自身らしいが――――その目的はよくわからない。何にしても、あいつがアリスにしたことは許されることじゃない」


 ルカはテーブルの上で指を組んだ。


「……シャルルを育てたのは俺だ。俺にはあいつを止める責任がある。あいつも俺を今でも恨んでいて、殺さなきゃ気が済まないらしい。だから俺とあいつにまつわることは個人的な問題であって――――おまえたちがこれ以上付き合う義理はない」

「ふうん。なら、どうしてアレヴィは私たちを呼んだのかな? こんな田舎町の丘の上にまで」

「……頼みがあるからだ」


 ルカは肩を強張らせた。目を合わせることができなかったが、それではいけないと言い聞かせて懸命に正面を見た。組んだはずの手をそわそわと動かしては、押さえ込むように握る。いつのまにか早くなっていた呼吸を整えた。


 シャツの裾はアリスに掴まれたままだった。彼女の存在をすぐそばに感じながら、ルカはもう一度頭を下げた。


「シャルルと決着をつけたい。俺に協力してくれないか」


 声は上ずっていた。


「俺とアリスの二人だけでは組織相手に戦えない。だからおまえたちの力を貸してほしい。……もちろん危険に巻き込むかもしれないことはわかっている。だが、それでも、頼む」


 脈がトクトクと早くなっていくのを感じる。ルカは返事を求めて視線を上げた。ここまで誰かを深く頼ったのは久しぶりだった。昔は簡単にできたはずのことが今ではこんなに難しくて、背筋を力ませた。


 最初に反応したのはエマとライアンだった。二人は同時に首を動かすと、他がどのような顔をしているのか、確かめるように視線をさ迷わせた。たまたま目が合ったのはお互いで、ふっと笑みを浮かべていた。エリアスは背もたれに深く体重をかけて笑い声をあげた。


「君の元弟子がプランタンにいるからこそ、知識が提供されてしまって無茶な人体実験が行われた。つまり彼をここで止めることは学院側からしても有益だ。……とでも言えば、少しは気が楽になるのかな」


 彼は目を細めた。


「あのねえ、私は君の親友なんだよ。こういうときこそ頼ってもらえるようになりたいね」

「あら、それはわたくしたちも同じですわ。先生のお力になれるなら生徒冥利に尽きます」

「エマ、生徒冥利って何さ」


 ライアンはくすくす笑った。髪の間から白い包帯がちらついて見えた。

 

 ライアンとエマもまた直接シャルルと対峙していた。たまたま外の空気を吸いに行ったエマが、シャルルと偶然出会ったことで戦闘になり、彼女を探しに外へ出たライアンも加勢することになったのだ。二対一で有利だったことは間違いなかった。しかしシャルルは本気だ。


 彼に敗北してエマは完全に意識を失った。ライアンは意識がうっすらと残っていて、最後の力を振り絞ってエマを治療し、広間へと向かわせた。


 結果的にライアンは重症のまま放置されることになり、エマも無理をしたことで傷が深くなった。三日でだいぶ回復したようだが、まだ全力で動くことはできないだろう。ライアンはカップを静かに置くと首を傾げた。


「協力なら喜んでさせてもらうんですけど……。先生はどうやってシャルルだけを狙うつもりんですか? だって普通に考えたら無理ですよね? 狙われてるってわかってて、のこのこでてくるとは思えません」


 黙って話を聞いていたアリスが視線を上げた。ためらいがちに口を開く。


「……わたしが、呼びます」


 彼女は床に届かない足をぶらりと動かした。


「わたしが魔術を使うところを見たら、あの人はすぐにわかると思います。きっとわたしのところに来るはずです」

「それでも全員で一斉に押しかけられたら……」


 ライアンの言うことはもっともだ。ルカは軽く頷いて認める。


「だから陽動で敵を分散させるんだ」


 たったそれだけの言葉で何を言いたいのか察したのか、エリアスは背もたれにもたれかかったまま腕を組んだ。


「ああ、なるほど。わかった。……学院としても本格的に動きだす時期に来ていてね。そうなるとむしろ君たちが私たちに協力する、という形になりそうだね」


 話が進むにつれて現実味が帯びてきて、ルカの指先がうずきだす。両手を固く握りしめた。不意に窓の方に目をやると白い鳥がこちらへ向かって羽ばたいているのが見えた。ルカにつられて同じ場所を見ていたアリスは椅子から飛び降りて、窓へ駆け寄った。


「こっちに……」


 アリスは恐る恐る指先を差し出した。小鳥は宿り木を求めて彼女の指に止まり、一通の手紙へ変わった。差出人はジュリエット・カタラーニ――――ついにプランタンの潜伏場所を確信したことが書かれていた。目を通し終わったルカは便せんをテーブルに置き、立ち上がった。


「これで条件はすべて揃った」


望みさえすればいつでも決着をつけることができる。


「……もう逃げるつもりはないぞ、シャルル」


 ルカは目を閉じた。心臓はどくどくと脈打っていた。

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