第32話 先生は一人じゃないのに


 力任せに魔力を流し込めば、結果もそれに伴ったものにしかならない。手足の浮遊感に目を開けば、ルカの身体は宙に浮いていた。


「あ────」


内臓が浮いた。髪がふわりとなびく。次の瞬間、ルカは床に叩きつけられていた。


物音が二度続いた。ルカは背中から真っ逆さまに落ちて、背中に衝撃が走った。肺から息が抜けて声も出なかったたが、すぐに咳が喉を突いて出る。ルカは激しく咳きこみながら横たわり、身を丸めて身悶えした。


 頬を床に付けていても、目の前には見覚えのある景色が広がっていた。床に散らばった数冊の本と開けっ放しになったクローゼット、ベッドの下に薄く積もった埃。ここはルカの寝室だ。


 背骨の痺れるような痛みが薄れてきてから、よろよろと身体を起こした。身体を反対側に向ければ、少し離れたところでアリスがうつ伏せに倒れているのが目に入った。


「あ……アリス!」


足をもつれさせながら立ち上がって、彼女の側へと駆け寄る。アリスはぎゅっとつむっていた目を薄く開くと、「痛い」と呟いた。ルカの背筋に悪寒が走った。


「う、打ちどころが悪かったのか? どこが痛い? 頭か? それとも肩の方か?」

「痛いです、せんせ……」

「ああ。わかってる。乱暴にして悪かった。まさか宙に放り出されるとは思わなかったんだ」


 ルカは腕を彼女の脇に差し込んで支え、身体を起こさせた。彼女の身体はドレスの重みでずしりとしていたが、身体の線はまだ細いままで掴めば折れそうだ。


 アリスは床に座りこむと、正面に膝をついているルカの目を真っ直ぐに見た。エメラルドグリーンの視線はルカにだけ向けられていた。ルカは彼女の手当をしようと腕を伸ばしたが、アリスはゆるく首を振って制した。彼女はぽつりと呟いた。


「……痛いって言ったら、痛いことをされているのを認めなくちゃいけなくて、わたしはそれがすごく怖かったんです」

「……?」

「でも前に先生が、痛いときは痛いと言えばいいって、先生が助けてくれるって言いました」


 アリスは膝の上に置いた両手を握りしめる。


 ルカは混乱しながらも思い出していた。学院で襲撃を受けたとき、腕に大怪我をおった彼女が紫色になった唇で「痛くない」と暗示のように繰り返していたのだ。それがあまりにも痛々しくて、確かにそう言った。アリスは眉を下げる。


「だからわたし、ちゃんと言いました。痛いです。頭も背中も、手首も痛い……」

彼女は握りしめていた手から力を抜いた。

「先生は……? 先生は痛くないですか?」

「痛くは、ない」

「本当ですか?」

「ああ。今はもうどこも痛くない」

「じゃあ、怖くないですか?」


 静かな問いかけに、ルカの肩はわずかに揺れた。ここで首を振れば間違いなく嘘だった。


 喉をせり上がってくるかのような恐怖だったのだ。シャルルの姿を見たらどうしようもないくらいに怖くなって、息もできなくなってしまった。あのまま死んでしまうのではないかというほど苦しかった。大切にしていたはずの彼を傷つけるのも、傷つけられるのにも耐えられなかった。今でさえ足が震えそうだ。


 もう一度対峙したところ、でルカは彼には勝てないのだろう。だが勝てなければ何もかも奪われてしまう。


 彼女はルカの心を見透かすかのように瞳の奥を覗いた。彼女の手が少し浮いて、また収まる。アリスは目を伏せた。


「本当のことを言ってください。先生が怖いと思うときは、わたしが先生のことを助けます」


 窓から差し込む月明りがアリスの髪を輝かせた。


「だって、わたしは先生のために何かできるわたしでいたいんです」


 彼女の言葉は優しくて穏やかなものだった。だと言うのにルカは眉をピクリと動かして、唇を固くした。その言葉にだけは頷くわけにはいかなかったのだ。


「……おまえがそんな風に思う必要はない」

「どうしてですか」

「俺はおまえに恩を着せたいわけじゃないんだ」

「でもわたしにとっては恩人です。あなたがわたしを助けてくれました」


 アリスは一歩も引きさがらなかった。彼女の目は透き通っている。見つめられているとたまらない気持ちになって、ルカは顔を伏せて床の傷を見つめた。彼女から向けられる真っ直ぐすぎる想いに耐えきれなくて、今にも潰れてしまいそうだった。


「……こんなことを、言いたくはないが」


 心臓が縮まって胸の奥に痛みが走る。ルカは絞りだすような声で言った。


「俺はたぶん、おまえをあいつと――――シャルルと重ねているんだ。おまえを助けるのだって、あいつにしてやれなかったことをしてやりたいって、そう思っているだけなんだよ。最低だろ? 最低だって思うよ、俺だって。だから、頼むから俺をそんな目で見ないでくれ……」


 カーテンが夜風に揺れた。本の表紙がめくれあがってパラパラと開かれた。アリスは黙って聞いている。彼女がどんな顔をしているのか見るのが恐ろしくて、ルカは顔を上げられないままだ。


 夜の沈黙が寝室を支配していて、皮膚を刺すような静けさは呼吸の音すら聞こえるようだった。先に口を開いたのはアリスだった。


「……悲しくないと言ったらきっと嘘です。でも、それでも、わたしはいいんです」


 視界の端でアリスの手が動いた。ルカが思わず視線を上げると、彼女は目元を和らげていた。彼女の手は宙に浮いたままためらようように固まっていたが、ルカと目が合うと、ぎこちなく伸ばしてきた。


「優しくしてもらえて嬉しかった」


 彼女の指は遠慮がちにルカの手の甲に触れる。


「わたしは先生に助けられました。先生がどう思っていたとしても、わたしの気持ちは嘘じゃありません。絶対に」

「だが俺はおまえを――――」

「理由なんてなんだっていいんです! わたしは優しくしてくれる先生のことが好きです。大好きです。だから守りたい。ただそれだけで、わたしにはそれができるだけの力があります。きっと先生と一緒に戦います。だからわたしも先生と一緒にいさせてください」


 アリスは早口に言った。しかし――――。 


「駄目なんだ……」


 ルカはうわ言のように呟いた。


「おまえにそんなことをさせられない。誰かがいなくなるかもしれないなんて、二度とごめんだ……。俺はもう間違えないから。覚悟もする。俺が絶対に何とかしてみせるしおまえを傷つけさせはしない。だからおまえはここにいてくれ。守らせてくれ、頼むから――――」

「……どうして?」


 ルカの言葉を遮るためのたった一言は震えていた。アリスは顔を歪めた。


「どうしてそうなるんですか? 先生は一人じゃないのに、なんで頼ってくれないんですか!?」


 重ねられたアリスの手に力が籠められる。ぎゅっと指を握られた。自分の物ではない体温で指が熱くて、ルカは目を見開いた。水仕事で荒れた指の腹はざらりとしていた。アリスの瞳に光がきらきらと揺れて、目尻に涙の粒が浮かんでいる。


「わたしだけじゃない、先生の周りには優しい人がたくさんいます。エマさんも、ライアンさんも、エリアスさんも、おじい様も、みんな先生のことが大好きだから心配なんです! 助けたいって思うんです! 先生が守りたいって思うのと同じくらい、わたしだって、わたしたちだって、先生を守りたい!」

「……そんなことは」

「そんなことがあるんです! 先生が一人だったことなんて、きっとありません!」


 アリスはふるふると首を振った。涙があふれだして、一筋が頬を伝っていった。


「あと一回――――あと一回だけでいいんです、信じてください」


 アリスの口を嗚咽がつく。彼女はそれ以上話せなってしまって俯いた。細い肩を震わせながら必死に堪えようとしているが、顎を伝った涙がぽとぽと床に散った。いくつもの点が浮かんでいた。ルカは放心したように顔を上げると天井を見上げた。唇が震えていた。


 ――――もう誰かを信じて裏切られるのは嫌だった。


 ルカは目元を力ませる。信じていた分と同じだけ傷つくことはもうわかっていた。だから怖かったのだ。優しい眼差しを向けられるたびに息が苦しくなった。もう一度と誰かを信じるくらいなら、差し伸べられている手に気づかないふりをする方がずっと簡単だ。


 自分がずるずると深みにはまっていっていることに気付いていながら、そうすることしかできなかったのだ。


 だからもし、無理やりにでも掬い上げてくれる存在がいたとすれば――――。ルカは唇を噛んでいた。


「……信じていいのか?」


 ルカは両手で目元を覆った。


「信じてみたら、何かが変わるのか……?」


 消え入りそうなほど小さな声だったのに、夜の寝室にはよく響く。指先が前髪に絡んで柔く引っ張った。アリスは涙をぬぐうことなく静かに目を閉じた。


「わたしもわかりません。でも、変えたいって思います。先生と一緒に」

「そうか……」


 ルカは詰まっていた息を吐きだした。ゆらりと首を動かす。アリスは泣いているのに不器用に笑みを浮かべていた。彼女の笑みは痛々しいどころか、とても穏やかなもので――――ルカは自分から手を伸ばしてアリスの手を取った。


 もっと早くに信じていればよかったのかな、と小さく呟いた。


「そうしたら、何かが違っていたのかなあ――――」

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