第30話 月の輝く夜が到来する


 シャルルは優しく言って、しゃがむアリスに手のひらを差し出した。兄が妹にするかのようなしぐさだ。アリスは呼吸を止めただけで手を動かさない。


 シャルルは不思議そうに「ん?」と声を発し、手のひらをちょいちょいと動かした。


 アリスは床に置いた指をぴくりと跳ねさせた。視線を逸らせないのか、首は固まっている。彼女は言葉にもならない声を漏らした。そして恐る恐る左手を伸ばし始めた。


「……ア、リ……っ!」


 ルカは必死に息を吸いながらアリスの名前を呼んだ。このまま見ているだけではいけない、彼女を引きとめなければならない。今失えばもう戻ってこないのだ。ルカはすがるように彼女のドレスに手を伸ばしたが、あと少しのところで力が抜けて床に落ちる。


 アリスの細い指は糸で操られているかのように緩慢に宙を泳いで、シャルルの手のひらに触れた。指先は震えたままだ。シャルルは静かに目を細めた。


「いい子だね、アリス」


 薄い手のひらを優しく握ろうとシャルルの指が曲げられた。しかし彼の動きは遅かった。アリスの方が先に彼の手を荒々しく掴みとって握りしめたのだ。


「え……? アリス?」

「ごめんなさいっ!」


 彼女の髪がふわりと浮いた。ふと目をやれば、床に広がるドレスの下に魔法陣が浮かび上がっていた。シャルルはとっさに腕を振りぬいて解こうとするが、きつく絡められた指はそう簡単に外れない。アリスは身体ごと引っ張られながらも、床に手をついて堪えた。


 魔力が全身を流れるのは一瞬のことだ。彼女には言葉すら必要がなかった。


 無言のままに魔術が発動する。手を繋ぐ二人のそばにいたルカの耳には、バチバチと火花の散るような音が聞こえていた。


「――――あ、ぐ!」


 手をを掴まれているシャルルの全身が、ばねのように跳ねた。がくんがくんと何度も大きく揺れる。彼は前かがみになりながら目を見開いている。


 きつく目をつむっているアリスの金髪は、不自然に広がり宙に逆立っていた。アリスの身体は帯電していて、彼女に手を握られているシャルルは感電させられている。アリスの身体に刻まれていた魔術式の一つ――――本来は人体など焦がし尽くすほどの威力を持った電撃魔術だ。上手く加減ができているのか、シャルルは気絶寸前で堪えていた。


 アリスに魔力操作を教えたのはほかでもない、ルカだった。


 彼女が武器として作り上げられたのなら、自分で完璧にコントロールできるようにしてやればいい、そう思って彼女に魔力を操る練習をさせた。教えること自体はそう難しくはなかった。所詮付け焼刃でしかなかったが、今では触れている相手になら、多少繊細なコントロールができるようになっている。


「く、そ!」


 シャルルは何度も腕を動かして、ついにアリスの手を振り払った。彼女から距離を取ろうと後ろに下がるが、痺れが取れず足取りはおぼつかなかった。


 シャルルは腕をぶらんとさせたまま、アリスを睨みつけていた。視線には明らかに警戒の色がちらついていた。アリスは肩をぎゅっと上げて全身を力ませた。恐怖を感じているはずなのに、それでも彼女には逃げ出すという選択肢がないのか、ルカのそばから決して離れようとしない。


「世界を……」


 アリスは帯電したまま、たどたどしく唇を動かした。


「世界をあまねく照らす日は沈み、月の輝く夜が到来する。今や争いはここにあらず――――」


 ルカとシャルルが目を見開くのは、ほとんど同時だった。彼女が今口にしているのはただの詩ではなく詠唱だ。二人とも教えた覚えのない、それどころか使ったことすらない魔術だった。


 シャルルは靴先をわずかに持ち上げるが、すぐに下ろして、今度は震える手で黒いネクタイをほどいた。しゅるりと音をたてるそれは彼の作り出した魔術具で、力なく握ると魔術式を起動させようとした。だが途切れがちの意識では魔力を正しく流せない。


 一方でルカは呼吸が整い始めていて、ぼやける視界でアリスの華奢な背中を捉えていた。彼女ははもぞもぞと腕を動かすと、ドレスの袖をまくり上げた。


「……アリ、ス?」


 ルカは蚊のなくような声で呼ぶ。アリスの手のひらの中で何かが鈍く光っていて、目を凝らしてみれば装飾の施された柄のようなものがあった。彼女が手にしているのはルカの短剣だ。


 アリスは深く息を吸い込むと、短剣の刃を手首に軽く押し当てた。真っ白な手首の内側に添えらえた切っ先は震えていて、うっかり薄い皮膚を裂いてしまいそうだった。


 彼女が今までどう過ごしてきたかは知っている。だから何故彼女がそうしているのかは、考えるまでもなかった。


 ルカは駄目だ、と言った。声がかすれ、上ずって彼女には届かなかった。


 もう一度駄目だと言う。彼女の細い髪の隙間からちらりと見えた首は、血の気が引いていて真っ青だった。


「すべてが等しく安寧を享受する。幻影よ、今だ夢を知らぬかの者にひと時の安らぎを与えよ」


 四節の詠唱が終わって、短剣が柔らかな肌に食い込んだ。下に引くと刃の切っ先が皮膚に傷をつくった。二秒もすえば血の玉ができていて、大きく膨らんだかと思えばぷつんと破裂する。血は一筋の流れになって手首を伝って流れ落ちていった。


「睡眠魔術……⁉」


 全四節、そう難しくはないが、特別威力の強いわけでもない魔術だ。眠れない夜にそっと唱えるようなもので、ルカが詠唱しても気休めのまじない程度にしかならない。


 しかし今詠唱をしたのはアリスで――――彼女は化け物じみた魔力と対価を加減なしに注ぎ込んでいる。シャルルは短く息を吐いた。やっとネクタイに刻んだ魔術式を起動させる。


 上質な布がしゅるしゅると伸びて、アリスの身体を絡めとろうとする。アリスは身体を大きく震わせると身体をひねった。逃げることは早々に諦めて、両腕で庇おうとする。手首から垂れた血がドレスを汚した。

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