第29話 あなたのことが大嫌いだったから
足音がして床に影が落ちる。手を伸ばせば届くような距離に、シャルルが立っていた。彼を見上げようとするのに身体が動かなくて、ルカは上着を握りしめながら、床に這いつくばることしかできなかった。シャルルはそんなルカを見下げていた。
「僕が怖いですか?」
過呼吸になっている。血が沸騰しそうだ。
「ほら先生、僕を見てください。僕を。……あなたに裏切られ、あなたを裏切った僕を」
ルカは返事をしようとするが、唇が震えて何一つ言葉にならない。今シャルルはどんな顔をしているのだろう、と思うのに、身体は息を吸うことしか考えていなかった。汗が顎を伝って床にぽとぽとと落ちた。
「シャ、ル……」
ようやく出た声でも、名前すら満足に呼べなない。シャルルは乾いた笑いを零した。
「先生、もういいです。そんなに呼吸を荒げて、苦しいでしょう。これで終わりにします」
床に伸びた影がゆらりと揺れた。耳鳴りに混じって聞こえた音は、革靴の先が床を叩く音だ。キンと冷たい空気が頬を撫でたかと思えば、宙に氷の矢が浮かんでいた。
どこからかジュリエットの悲鳴が聞こえて、頭の中をぐるぐると回った。逃げなければ、確実に射抜かれることはわかりきっている。だが手も足も痺れていて、とても動かせそうにない。
ルカは身じろぎをしただけだけで、やっと顔を上げたころには、シャルルは三歩後ろに下がっていた。
「先生」
シャルルは目を伏せる。
「……もう二度と、先生に会いたくないと思っていました。僕はあなたのことが大嫌いだったから。でも、どうしてかわからないけれど、やっぱり会えてよかったです。さようなら」
シャルルがゆっくりと右腕を伸ばした。大きく振るうと、氷の矢がすべてルカに向けられた。
ルカは目を見開いただけで体を起こせなかった。まだ息が苦しかった。指がピリピリと痛い。耳鳴りが止まない。彼が最後に何か呟いたような気がしたが、ほとんど聞こえなくてルカはうなだれた。
これでは一年前の焼き直しだ。
彼の澄んだ瞳の色を目に焼き付けながら死ぬことだけはできそうになくて、数回瞬きをしてから目を閉じる。失神しそうになるほど苦しい呼吸のなかで、ルカは最後の力を振り絞って唇を動かした。
――――アリス。
呟いたきり、ルカは身体を動かさなかった。どうして最後に彼女の名前がでてきたのかは、ルカにもわからない。ただ、せめて彼女が無事であればいいと思った。
シャルルが手首を動かして矢を放とうとする。あと一つの動作があればそれで事足りるはずだった。
しかし彼がそうしなかったのは、かつての師を手にかけることに対する躊躇ではない。真横からの雷撃が、シャルルの目の前をかすめていったからだった。
「――――っ!?」
遅れて結界が砕け散るのが目に入った。粉々になったところから順々に崩壊し、やがて粒子となって空気に溶けていく。シャルルは思わず視線を外して、振り返っていた。
「エリアス先生……」
エリアスの足元には何枚もの紙が散らばっていて、そのすべてに異なった魔法陣が描かれている。そのうちの一枚を靴先で押さえている彼は、いたって冷静な顔でシャルルを見ていた。
「愛する弟子に二回も殺されかけるなんて、アレヴィも不運だね」
「……あなたの考えていることは、相変わらずわかりません。あなたは面倒ごとには首を突っ込まないと思っていたんですけれど」
シャルルは彼の方を向いたまま腕をだらんと垂らしていた。ルカのことなど敵とも数えていないのか、油断しきっていた。反撃するなら今しかない。分かっているのに手が動かない。ルカはか細いうめき声を漏らすだけだ。
エリアスは髪をかき上げると、挑発的に視線を投げかけた。
「私は面倒ごとは好まないけれど、面白いことなら大好きでね。そのためなら多少手を貸すよ」
「加勢するつもりですか」
「そうだね。このままアレヴィが殺されるのを、黙って見ているわけにはいかないし――――」
エリアスは言いかけたまま身体を強張らせた。勢いよく後ろを振り返ってから、素早くあたりに視線を走らせる。
広間の人混みを真っ直ぐに突っ切っていく人影を見つけて、彼はぽかんと口を開いて立ち尽くした。はっと我に返ると彼は声を荒げた。
「行ってはいけない、戻るんだ!」
広間の中央、シャンデリアの真下。光に透けるような金髪が色鮮やかにたなびいていた。シルクのリボンが揺れて、ヒールが床を叩く音が響き渡る。
気づけばルカとシャルルの間に小さな身体が割り込んでいた。
磨かれた床にドレスの裾が広がっていて、真っ白なフリルが折り重なっている。ルカはおもむろに顔を上げる。アリスがめいいっぱいに腕を広げて立ちふさがっていた。
「先生に……」
声は震えている。
「先生に触らないでッ!」
アリスは身体を揺らしながら、声を張り上げて叫んだ。彼女の小さな背中は、ルカを守るかのように彼の姿を覆い隠していた。呼吸は不規則で荒々しい。身震いが止まらないのか、腕はガクガクと揺れている。しかし彼女は一歩も引くつもりがなく、しゃがみこんだまま動かない。
突然割り込んできた彼女を見て、シャルルは言葉を失っていた。身体まで固まってしまっていて、腕を中途半端なところで上げたまま動かない。
やっと反応らしい反応をしたかと思えば、目を見開いてすり足で後ろに下がる。コツン、と軽快な音が耳についた。彼は口を開いた。
「アリス――――アリストロシュ!」
叫ぶように名を呼ばれた彼女は、びくりと肩を揺らした。シャルルは手で口元を覆った。
「こんなところに、君がいるなんて。逃げた君が、結局学院に連れていかれたのは知っていたけれど、まさか先生と一緒にいるなんて。こんな偶然……どうして。どうして先生と君が……」
彼はぶつぶつと呟きながら視線を左右にさ迷わせていた。二度見するようにアリスに視線をやって、髪をかき乱した。跳ねる髪を整えようともせずに、彼は深く呼吸する。たった一度で、今までの動揺が嘘だったかのように、彼はころりと笑みを浮かべた。
「…………会うのは一年ぶりだね、アリス」
微笑みを向けられているはずのアリスは、何も言わなかった。敵意のこもった目で睨みつけたまま動かない。シャルルは困ったように眉を下げた。
「せっかく再会できたんだ、そんな顔をしないでよ。僕とした約束は覚えてるでしょう?」
「…………約束」
「そう、約束」
シャルルは穏やかな口調で繰り返した。アリスは小さく呟いたきり、唇を固く結んで、返事をしようとしない。睫毛を震わせながらも瞳をぎらつかせていた。シャルルは鼻筋に皺を寄せるが、伏し目がちの瞬きとともに、表情を作りかえた。
「君は特別だ。でも特別だからこそきっと不幸になる」
彼はやんわりと首を振った。閉じた唇をまた開く。
「僕が君と過ごしたのはほんのちょっとの間だけれど……一生あんな小さな部屋の中から出られないなんて、あんまりだって思った。それであの日、騒動に乗じて君を逃がしてあげた。でも僕にだってやらなければならないことがあって、そのためには君が必要だ。だから次に会ったときは必ず連れ戻す。そういう約束。ねえアリス――――つかの間の自由は楽しめた?」
シャンデリアが風に揺れて光がちらついた。アリスは大きく広げていた腕をゆっくりと下ろして、手首を弱々しく掴んだ。彼女が過去に浸るときの癖だ。
だが目は逸らさず、真っ直ぐシャルルを捉えていた。
「……あなたはわたしの恩人です。わたしのことを逃がしてくれて、ありがとうございました。気まぐれだったとしても感謝しています、あなたに。本当です。本当に。でも、それでも――――先生のことを傷つけるなら絶対に許さない!」
「そう。でも僕は絶対に君を連れて帰らなきゃならない。そのついでに、そこにいる先生を今度こそ殺す。それで、君に何ができるの?」
シャルルはこてんと首を傾げた。
「さあ、自由は今日でおしまいだ。僕と一緒に帰ろう、アリストロシュ」
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