第28話 先生だけを信じていたのに
敵の作り出した氷柱が砕け散り、かけらの一つ一つが形を変えて、数十本の矢となった。天井から吊り下げられたシャンデリアの光を受けて、氷の断面が宝石のようにまばゆく輝いた。
彼はさっと手を振る。氷の矢が一斉にルカの方へと放たれた。
一本の威力は小さくとも数が多いだけに攻撃力は増していく。矢は次々に結界に突き刺さって砕け散っていったが、結界にも小さなひびがいくつも入っていた。
端の方からガラガラと崩れ始めているのが見えて、ルカは舌打ちをした。素早く瞬きをすると、短剣に埋め込まれたガーネットに視線をやる。暗くくすんだ赤い宝石には大きな亀裂が入っていた。
「くそ、貯蓄していた魔力がもう――――」
舌が上手く回らなくて、最後まで言い切ることはなかった。
ルカは視線をさ迷わせてからごくりと唾を飲み、一歩、二歩、前へ進み出た。ジュリエットから距離を取って、後ろ手に短剣を振るった。彼女との間にいくつめかの結界が張られて、ルカ自身は結界の外に放り出された。
壁の向こうに立つ彼女が、何か言ったような気もするが、何も聞こえないふりをして敵と対峙する。
彼は悪意のこもっていない爽やかな笑みを浮かべていた。
「先生、ずいぶんお疲れみたいですね。大丈夫ですか? 魔力が足りないなら、他の物を対価にすればもう少し――――」
ルカは「おい」と冷ややかな声で遮った。
「ライアンの顔のままで喋るな」
彼は大げさに肩をすくめて困ったように笑った。
「やだな、そんなに怖い顔をしないでくださいよ。僕としては事のついでにあなたを殺して帰りたいところですが、組織の目的はそこにいるジュリエット・カタラーニの排除です。それさえ叶えば僕たちは手を引きます」
「提案ありがたいが、残念なことに、今日の俺は一魔術師ではなく彼女の護衛だ。交渉決裂だな」
「交渉決裂? 最初から交渉するつもりなんてないくせに」
彼は吐き捨てた。上着に皺を寄せながら、ゆるく腕を組んだ。
「……先生はいつだってそうだ。言葉だけで感情や行動が伴っていない。それって嘘を吐いているのと一緒で、とても残酷なことだと思うんですけれどね」
ルカはぴくりと目元を動かすと、顔を上げて彼を見つめた。いつのまにか彼の顔から笑みが消えていた。彼はすっと目を細めた。ため息とともに呟かれた言葉は静かなものだったが、ルカを痛烈に責めたてるような声色だ。
「それに、今さらあなたが変わったところで、僕はあなたを許せない」
彼はまた右足を上げて床を叩いた。
「許せないんです、どうしても」
先ほどと同じ魔法陣が浮かび上がって、同じ魔術が発動した。彼の背丈ほどもある氷柱が、あたりの空気を急激に冷やした。
二度目も彼は詠唱をしていなかった。魔術の法則から考えれば、何か細工がなければ、このようなことはあり得ない。
真っ先に思いついたのは自分と同じ方法だった。彼の靴裏で床を叩く動作や、たった一言口にする「起動」は、ルカが魔術具を使うときとそっくりで。――――それ以上は考えたくない。
舌がひりつくような感覚だ。胸の奥で心臓がぎゅうっと収縮した。
「おまえ、おまえは……」
先を言葉にすることができなくて、ルカは両腕から力を抜いた。かろうじて短剣は握っているが、気を抜けば落としてしまいそうだ。
息を止めないよう、ゆっくりと肺を膨らませるが、呼吸は次第に早くなっていく。全身の血管がドクドクと脈打つ。目の前に立つ敵の正体にはすでに勘付いているのだ。早く答えを口にしなければならない。なのに舌が固まって動かない。ルカは荒く息を吐き続けていた。
「苦しそうですね」
彼はひとり言のように呟いた。
「どうして、先生がそんな顔をするんですか?」
そう言う彼の表情もまた苦しげで、ルカは目を逸らすことができなかった。額にはじっとりと汗をかいていて、両足がかすかに震えていた。
いつまでたっても真実を口に出せないルカに代わって言葉にしたのは、彼女だった。
「――――その男はライアンではありません!」
広間の向こう、一つしなない大きな扉は、音を立てて開け放たれた。膝に手をつき、今にも崩れそうになっているのはエマだ。
繊細なレースは破け、ところどころが赤黒く染まっていた。髪飾りはどこかへ落としてしまったのか、ゆるくウエーブのかかった栗色の髪が広がっていた。エマは前かがみになっていた身体を起こすと深く息を吸う。そして甲高い声で叫んだ。
「シャルル――――シャルル・セローです!」
彼女は今にも泣きだしそうな顔で唇を噛んだ。
ライアンは彼女を見ようと身じろぎしたが、わずかに首を動かしただけで視線をルカに戻した。にこりと人のいい笑みを浮かべてから、ルカの目を真っ直ぐに見つめた。
「契約は果たされた。求めるものはすでになし……」
彼は詠唱を打ち消すための詠唱を口にした。
身体から光が浮かび上がって髪型が、服装が、体格が、急速に変化していく。数回瞬きしたころには、ライアンと別人の男がそこにいた。ルカを射抜く瞳の色がアンバーから、鮮やかな青へと色づいていく。
かつての弟子が、あの日と同じように真正面に立っていた。
一年前よりもどこか大人びた顔つきで――――彼は額に残った古傷を歪ませながら、目尻を下げている。その笑みは嫌というほど見てきた彼らしい表情で、ルカは鼻の奥に痛みを感じた。目の表面が熱い。
「先生、お久しぶりです。まさか生きているとは思いませんでした」
シャルルは薄く笑った。ルカの心拍数は跳ね上がった。
「あのとき、僕はあなたを殺したつもりでした」
「……っ、あ」
「あの出血量ですから、助かるなんて思ってもいなくて。ちゃんと息が止まっているか確かめなかったのは僕のミスです。……ねえ先生、あの日のことをまだ覚えていますか?」
シャルルは薄汚れた灰色のローブをまとっていた。魔術師らしい姿になった彼の胸元には、花のブローチが輝いている。そうだ、あの日もそれをつけていた、とルカは息を呑んだ。
石のように固まっているルカを助けようと、絶えず攻撃を続けている誰かがいるが、シャルルが張った結界がすべて跳ね返している。彼は一瞥もくれずルカだけを見ていた。
「あの日は、雪の降る真夜中でしたね」
彼は天井を仰ぎ見ながら呟いた。喉仏が動く。
「僕は組織の命令で動いていて、先生は僕を探して追いかけて来ました。僕も先生も、魔術具で武装していました。僕はまだ魔力に余裕があって、先生はほとんど切れかけていて――――でも僕は先生に勝ったことなんて一度もありませんでした。先生は僕なんかよりずっとずっと強い。だからあの日、僕は先生に殺されるんだと思っていました。覚悟はできていたんです」
ルカは上着の胸元を握りしめた。喉がヒューヒューとか細い音を立てていた。
過呼吸だ。眩暈がして足がよろけて数歩後ろに下がる。シャルルは一瞥しただけで言葉を続けた。
「先生。どうしてあのとき手を抜いたんですか?」
ルカは嗚咽を漏らす。
――――手を抜いた? いや違う。最初から俺はおまえを傷つけることなんてできなかったんだ。おまえにはできたことが、俺にはできなかったんだ。
あの勝負の結果はわかりきっていた。師であるルカが負けるはずがなかった。
ただしそれは、ルカが本気で彼を殺すつもりだったなら、という条件付きだ。あの日負けたのはルカだった。
彼が口を開くたびにルカの呼吸が早くなっていく。どれだけ吸っても胸が苦しくて息ができない。ルカの目には生理的な涙が浮かんでいた。
もうやめてくれ――――そう言いたいのに声もまともにでなない。シャルルは目元を歪めた。
「もしかして、僕が何もできない子どもだと思っていたんですか? どうせ先生相手には何もできないと? ……そんなわけがないでしょう。僕はあなたが憎くて憎くてたまらなかった。僕はずっと先生を、先生だけを信じていたのに、先生は僕を裏切り続けていたんですから」
裏切者、と彼は冷たくルカをなじった。身体の奥がズキンと痛む。
その瞬間、ルカの脳内に、しんしんと雪の降るパリの街並みがフラッシュバックしていた。
――――空に月がぽっかりと浮かんでいた。夜だ。ほの明るい空から雪が降り続けていた。道のわきに建てられた真新しい街灯がチカチカと点滅した。広い通りはずっと奥まで伸びていて、溶けきらなかった雪でうっすらと白くなっている。吐く息もまた白く凍っていた。寒い。むき出しになった手がかじかんで、関節が痛む。皮膚がうっすらと赤くなっていた。
道を塞ぐようにシャルルが立っていた。彼は鼻先を赤くしながらも、やはり同じように笑っていた。なのにうつろな眼差しでルカを見つめていたのだ。
――――僕はそんなことを望んでいないと、先生は知っているのに、どうして。
シャルルの言葉が耳の奥で響いて、キーンと高い音が鳴った。気が付けばルカの手から短剣が滑り落ちていた。床の上でくるくると回って止まる。
足の力もふっと抜けて、立っていられなかった。膝からカクンと折れて床に崩れ落ち、その場にうずくまった。
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