第25話 絶対に手放さないで

 ライアンが広間から出ていくのを見送って、ルカはくるりと身体を回転させた。


「こちらの事情で話を遮って悪かったな」

「いいえ、構いません。そういうことを気にするほど心は狭くないわ。ただちょうどいい機会ですから、お嬢さんにも席を外していただけるかしら。報酬の支払いを済ませるわ」


 ジュリエットはアリスに視線をやると少しだけ笑った。


「あなたが邪魔だ、という意味ではないから安心なさって。ここからの話は、ほかの誰にも聞かせたくないだけなのよ」


 アリスは小さく頷くとルカの方を見た。ライアンのいなくなった今、どこに行くべきか尋ねているらしく、無言のままでわずかに首を傾げた。垂らしている横髪がさらりと揺れる。


「ああ、そうだな。エリアスのところに行ってくれるか」

「はい。先生に呼ばれるまで一緒にいます」


 アリスは広間を見回して、エリアスの姿を見つけると足早に立ち去ろうとした。しかしそれでは品がないと思ったのか、身体をつんのめらせながら止まった。右手でぱっぱと髪を整えると、今度は足音も立てず、背筋をしゃんと伸ばしながら歩いて行った。


 彼女が人波を避けるように大回りして進み、やっとエリアスのところにたどり着いたところまでを見届けたルカは、飲みかけのグラスを手に取る。口をつけるふりをしながらアリスの方をもうしばらく見つめる。


 アリスはわたふたと手を動かしながら、事情を説明していた。そう難しい話ではないはずだが、エリアスと話すのは緊張するらしく、いつもより身振りが大きい。


 やっと話が通ったのか、エリアスは視線を上げると辺りをきょろきょろと見回した。ルカが軽く手をあげてやると、彼はぱっと表情を明るくし、同じようにワイングラスを掲げた。アリスはその横でぺこぺことお辞儀をしている。存外面白くて思わず笑ってしまいそうになった。


 ワイングラスを再びテーブルに置いて、ジュリエットの方へ向き直ると、彼女は暖かな微笑みをたたえていた。ルカは反射的に顔をしかめた。


「……なんだ」

「あなた、ずいぶん彼女にご執心なのね」

「は!?」

「あら、自覚がないなんて変な話ね? 少し見ていただけでもすぐ分かったのに。他の方に指摘されたことはないかしら?」

「それは……」


 ルカは口をもごもごとさせた。ある、まで言い切らなかったのは彼女の思い通りになりたくなかったからだ。しかし沈黙してしまった時点で、認めているのとそう変わらず、ジュリエットは肩をふるふると震わせた。


「ええ、ええ。私も悪いなどとは一言も言っていないのよ。ただあなたみたいな人が、あの可愛らしいお嬢さんが気になって気になって仕方がないなんて――――とても面白いわね!」

「もういい、勝手に笑ってろ」


 ルカは投げやりに言うと、新しいワイングラスを乱暴につかみ取った。ジュリエットはくすくす笑いながらもたしなめ、自身もグラスに手を伸ばした。


「不機嫌にならないでちょうだいな。もういい時間になってきましたし、報酬の話をしましょう」


 ジュリエットはグラスをくるくると揺すって香りをたてた。すっきりとした甘さの残る香りを楽しんでから、グラスのふちに唇をちょんとつけて、ワインを口に含む。ふちにはうっすらと赤い口紅が残っていて、やけになまめかしかった。ワインの味には満足がいったのか、ジュリエットは誰にともなく頷いた。


「そうね、まずは敵対勢力というところから話を広げようかしら。あなたも察しているのでしょうけれど、目星はついているわ。あの子には悪い魔術師なんて言ってみたけれど、実際は悪いなんてものじゃないわよ。ここ最近だとめったに見かけないくらいの闘争派で、過激派組織ね」

「名はあるのか?」

「自ら名乗っているわけではないけど、プランタンと呼ばれているわ」

「プランタン? なんだそれは」


 ルカはグラスを手放すとテーブルに手をついた。単語の意味ならむろん分かっているが、過激派組織につける名前としては、あまりにも可憐だ。彼女はワインを味わいながら疑問に答えた。


「私は直接相対したことがないからわからないけれど……彼らはみな胸にブローチをつけているそうよ。形は違うけれど、それがすべて花だから、プランタン。実際のところは、冬の花だってまじっているみたいだけれどね」

「花のブローチ――――?」


 ルカはぽつりと呟いた。何かひっかかるようなものがあったが、正体がわからず頭の中で靄がかかっていた。口に出してみようとしても上手く言葉にならない。ルカは人差し指でとんとんとテーブルを叩いた。


「どうかいたしました?」

「いや……なんでもない。それで、そのプランタンが今最も警戒するべき勢力なのか?」

「ええ、間違いなく。学院を攻撃したり、私の命を狙ったりしているのもプランタンでしょう」


 ルカは目を丸くした。


「じいさん――――じゃなくて学院長はんなこと一言も言っていなかったぞ」

「学院長があなたと個人的に関係があるからと言って、任務についているわけでもないあなたに情報を漏らしはしないわ。それに学院が手にしている情報はごく一部、私はそれ以上のことを知っているの」

 ジュリエットは唇を三日月に曲げた。強気な表情に、ルカもまた目をすっと細めた。


「ここでだんまりを決め込んでくれるなよ」

「これらの情報はあくまで報酬ですもの。あなたが満足するまで支払わせていただくわ」

「よし。プランタンの目下の目的は?」

「枚挙にいとまがないところだけれど、今は大きく分けて二つかしら」


 ジュリエット細い指を二本立ててみせる。


「一つ目は学院の動きを止めること。これはわかるわよね。彼らからすれば一番の障害は学院だもの。どの組織だって一番最初に考え付くことだわ。けれど気にかかるのはその手段ね。プランタンは学院の結界を破壊することで、一気に片をつけようとしているみたい」


 ルカは小さく頷いた。ジェラールも同じことを言っていたから、大して新鮮な情報でもない。数回瞬きをしてから、一瞬だけ彼女に視線を送る。ジュリエットは静かに息を吐くと、グラスの中の白ワインをじっと見つめた。


「二つ目――――彼らはアリストロシュを探してる」


 広間のざわめきにかき消されそうなほど小さな囁きは、しかしルカの耳にはっきりと届いていた。ピアノの軽やかな高音が広間に響き渡る。ルカはわずかに口を開いた。


「アリストロシュ?」


 ルカは両眉を上げながら、ぎこちなく繰り返した。ジュリエットがゆるく首を傾ける。


「ええ。ご存知?」

「いや……」


 アリストロシュ――――その単語には何の覚えもないが、響きが、どこかあの控えめで自罰的な少女を思いださせる。


 妙に腹の奥のあたりがうずいて、ルカはテーブルに体重をかけた。ジュリエットは一瞥しただけで、すぐに視線を逸らせた。


「アリストロシュはハーブの名前よ。ブドウ畑にだって生えているから、そう珍しいものではないわ。あなたはエソワに住んでらっしゃるんだから、一度くらいは見かけたことがあるんじゃないかしら? ええと、花言葉は……何だったしらね」

「花言葉ってなんだ」

「花にはそれぞれ意味がつけられているの。赤い薔薇なら愛、なんていう風にね。花言葉をまとめた本が、今フランス中で流行しているのよ」


 ジュリエットは広間の扉の方に視線をやると、唇をかすかに動かした。ひとり言のようなそれは詠唱だ。耳を澄ませてみれば転移魔術だとすぐにわかった。


 彼女が細腕を伸ばすと手のひらの上に一冊の本が現れた。黒革に金色の装飾の入った表紙は高級品の証だ。ずしりとした重みにジュリエットはよろけたが、足を前に一歩出して態勢を立て直す。ドレスの裾から純白の靴がちらりと見えた。ジュリエットは表紙を開くと紙をぱらぱらとめくり、あるページで手を止めた。


「アリストロシュ」


 彼女は涼やかな声で読み上げる。


「花言葉は“圧倒的な力”」


 ざわめきはいっそう大きくなって、ルカの耳をつんざいた。


 彼女の言葉を聞いて、ルカの身体が一瞬強張った。はっと息を吐いてみると筋肉は緩むが、どこか芯が冷え切っているような感じがする。ルカは無意識に指を動かしていた。嫌な予感がしたのだ。確信があるわけでもないのに、どうしようもなく真相に近づいてしまった気がした。


「アリストロシュ……」


 声に出してみると、やはり響きがアリスの名に似ている。


 床をじっと見つめるルカに、ジュリエットは何かを察したのか、眉をひそめた。


「ねえ、ムッシュー。どうか気を付けて。心当たりがあるのなら、絶対に手離さないで。彼らにアリストロシュを渡してはいけないわ」


 ルカは緩慢に頷いた。ジュリエットはつらつらと語り続けた。プランタンがいつ何の騒動を起こしたのか、潜伏場所の候補はどこか、規模はどのくらいと予想されているか――――ルカは心あらずだった。


 ジュリエットは横髪を耳にかけると、ルカに身体を寄せた。まるで恋人にするようなそれだ。甘酸っぱい果実のような香りが、ルカの鼻をかすめていく。


「……っ!?」


 ルカははっと気づいて、思わず距離を取った。ジュリエットは悪戯をする子どものようにくすっと笑った。


「ぼーっとしてらしたから」

「やめろ。俺をよからぬことに巻き込まないでくれ、マダム」

「私の話を聞いていないのが悪いのよ。あなたの隣に立っているのはジュリエット・カタラーニ。このサロンの女主人であなたの雇い主よ。その事実をゆめゆめ忘れないでちょうだい」


 彼女は不敵に笑う。


 ジュリエット・カタラーニは当然ながら既婚者だ。それもカタラーニ家の名にふわさしい夫がいる。もしこれが不貞などと言われて責められれば、ルカの立場などあったものではない。ルカはただでさえ追いやられているのに、それ以上のことなど想像もしたくなかった。


 ルカは両手を軽く上げると、馬鹿丁寧に謝罪の意を口にした。

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