第23話 先生がとても優しいので


 すべての準備が終わり、五人がジュリエットの邸宅に着いたころには空に星が瞬き始めていた。


 約束の時間には間に合っているとはいえ、余裕は少しもない。ルカを出迎えたジュリエットはたおやかな笑みを浮かべていたが、第一声には痛烈な皮肉が込められていた。


「ムッシュー? シャツを着るのに時間がかかったのかしら。それともシルクのハットを探すのに手間取ったのかしら?」

「……っ、面目ない」


 両手をギリギリと握りしめながら堪えた。彼女はルカに大して興味がないのか、さっさと他の面々に視線を移すと、今度こそ口角を上げた。


「私の魔術サロンへようこそ。心から歓迎します。皆さんどうぞこのままお進みください」


 スカートをつまみ優雅に一礼してみせる。ぴんと伸びた背筋や、ゆったりとした所作が美しい。


 エリアスは挨拶もそこそこに、片手をひらりと上げるとルカの隣を通り過ぎていった。約束通り、邪魔をするつもりはないという意思表示だ。靴でコツコツと床を鳴らしながら堂々と歩き去っていく。


 彼の背を追うように、エマやライアンも応接間へと足を進めた。しかしアリスだけは一歩踏みだしただけで、すぐに足を引っこめるとルカに寄り添った。


「アリス?」


 ルカは促すように名前を呼ぶ。いつものように黙って従うのかと思えば、アリスはふるふると首を振った。


「わたしは先生と一緒に……います」


 ずいぶんと小さな声ではあったが、彼女がはっきりと主張するのは珍しい。


思わず目を向けてみれば、彼女は頬のあたりを強張らせていた。どうやら彼女なりに頑張った結果らしく、ルカは顔の向きを戻すと軽く苦笑した。


「……そういう顔もできるのね、あなた」

「そういう顔ってどんな顔だ」

「いいえ、何でもありません。それからお嬢さん、しばらくでしたら一緒にいていただいて構わないわ。報酬をお支払いするときには席を外していただくと思いますけれど」


 ルカが振り返ると、今度こそ彼女はこくんと頷いていた。


 二人はジュリエットに連れられ応接間へと向かった。少し前を歩くジュリエットは背中の大きく開いたデザインのドレスを身に付けていて、形のいい肩甲骨がちらりと見えていた。ネックラインが大胆に開いたドレスが流行だと教えてくれたのはエマだが、どうやら真実らしい。


 先導するジュリエットが木彫りのレリーフで彩られた扉の前に立つと、そばにいた下働きの女性が扉を押し開けた。うっすらと開いた隙間から光が漏れ出し、廊下に一筋の線がのびる。ピアノの軽やかな演奏が響いた。


「――――わ、あ」


 感嘆の声を零したのはアリスだった。


 パリでも有数の魔術サロンという噂に違いはなかった。


 天井から釣り下がるシャンデリアは宝石のように輝かしいく、広間を光で満たしていた。四方にある大きな窓はひだの重なった赤いカーテンで覆われていた。中央にはピアノが置かれていて、招待客らしき一人の男が優雅に音を響かせている。ピアノを囲むようにして紳士淑女が談笑していた。男性はルカと同じモーニング姿で、女性はそれぞれ色とりどりの豪華なドレスをまとっていた。


 きらびやかな世界にアリスは呆然としたように立ち尽くしていたが、はっと我にかえるとルカにぴったりとくっついた。


 人の多いところが苦手な彼女は、最近ルカのそばにいようとすることが多くなっていた。ルカもそう悪い気はしないので、好きにさせておくことがほとんどだ。


「……今ここにいるのが三十人くらいか」


 ルカがぽつりと呟くと、ジュリエットは壁際にある大きな柱時計に目をやった。


「じきに集まるでしょう。今夜のサロンの招待を受けてくださったのは九十七人。あなた方を含めると九十九人です。邸宅には招待状のある方のみ通れるよう、細工をしています」

「とはいっても偽造の手段はいくらでもあるだろ。第一、それなりの魔術師なら、邸宅に忍び込んでここにまぎれることくらい造作もないはずだ。こんな夜会、命を狙われている奴のすることとはとても思えないな」

「ええ、それは重々承知しています。あなたから見れば、私は気の狂った女でしょうね。でもあなたにだってわかるでしょう? ジュリエット・カタラーニがこのようなことで退くわけにはいかないことを。……ただそうはいっても私だって命が惜しいから、あなたを雇ったのよ」


 ジュリエットはあかぎれ一つない手を口元にあてた。


「期待しているわ」


 ジュリエットは挨拶回りをしてくると言って、二人のもとから離れた。ルカは気の抜けた声で返事をすると、さりげなく彼女の後をついて行った。ぶらぶらと歩くルカの後ろをアリスがついてくる。ルカは歩く速さを落とすと彼女を隣に並ばせた。


「……カタラーニさんは」

 

 アリスは声を潜めて尋ねる。


「狙われているのに、どうしてサロンを開くんですか?」


 彼女は少し離れたところで立ち止まったジュリエットを見た。彼女は数人の女性たちと会話をしていた。社交辞令でも口にしているのか、品のいい笑みを浮かべている。どの角度から見ても立ち振る舞いは堂々としていて、サロンで一人異質ともいえるほどの魅力を醸し出していた。


 そんな彼女の姿を見たアリスは、あわてて背筋をしゃんと伸ばした。今までよりは自信ありげに見えたが、いくぶん肩の力が入りすぎていておかしかったので、ルカは思わず噴き出してしまう。小馬鹿にされたと思ったのか、アリスは一瞬頬を膨らませたので、ルカは軽く謝った。


「悪い、悪い。でもそんなに固くなるなよ。俺たちはここで目立ってもしかたがないんだぞ」

「……でも皆さん、とても奇麗なので」

「そりゃあ、ここにいるのは、俺たちの世界でもそれなりに力を持っている奴らだからな」


 アリスはうっすらと頬を染めながらジュリエットを見つめた。彼女の横顔を射抜く視線には羨望と委縮がまじりあっていて、ルカはふと黙りこんでズボンのポケットに手を突っこんだ。


 ――――おまえも十分綺麗だよ。正直に言ってやるにはあまりにも気恥ずかしい。ルカはコホンと咳払いすると話を戻した。


「あの女が、サロンを意地でも開こうとする理由なんぞたった一つだ。あの女はカタラーニ家の人間で、この界隈だとそれこそ名前を知らない奴はいないってくらいには有名だ。つまりプライドが死ぬほど高い」

「プライド」

「そうだ。それは命を危険にさらしてでも、守らなきゃならないものだ。少なくともあの女にとってはな」


 アリスはゆっくりと頷いたが、どうにも納得できないのか言葉を続けた。


「先生もそう思ったことがあるんですか?」

「俺か? ないな」


 ルカは迷うことなく答えると、ふっと鼻で笑った。


「俺はもちろん魔術師の家系の生まれだが、血筋にはそう恵まれていない。ついでに誰にでもあるような魔力操作のセンスすら持ち合わせていなかった。それでも魔術師になるために、俺は魔術師としてのプライドを最初に捨てたんだ」

「なら先生はどうして魔術師になったんですか」

「家系だからというのは大きいが――――結局、決め手になったのはあのじいさんだな」


 いつものように礼儀のかけらもなく、あのじいさんと呼んだが、ジェラールを意味していることはわかっているらしく、アリスは眉をぴくっと動かした。


ルカは広間の隅にあるテーブルに寄っていき、ワイングラスを片手に取った。くいと傾けて白ワインを一口含むと息を吐く。


「俺の親はずいぶん早くに墓の下へ行った。それで俺の後見人になってくれたのが、当時まだ一教師だったじいさんだ。……俺に才能なんてないことは一番よく知ってたのにな。それでも、俺の親代わりみたいに小うるさく言っては俺を育ててくれた。だから、まあ、なんつうか恩返しみたいなもんだったんだよ。柄じゃなくても、俺にできることであのじいさんの役に立ちたかったんだ。魔術師としての王道を歩けなくても構わないって、思うくらいにはな」


 ルカは眉を下げると残りのワインを喉に流し込む。吐く息がほのかに熱い。自分の生い立ちを人に話したのはこれが初めてで、舌は軽く回るのに思考が追いついてこなかった。


 ああ話すぎたと思っても取り返しがつかないどころか、勢いでその先まで口にしてしまう。アリスが自分の過去を話すときもこんな気持ちだったのだろう、かと思うと妙に気まずくなって、ルカはテーブルにもたれかかった。


「それにしてもまあ、フランス中の魔術師がよくもこんなに集まったもんだな――――」


 ルカはぼんやりと呟くと広間を見回した。もう時間が近づいてきているのか、広間を歩く人の数はかなり増えていた。ピアノの演奏は今も続いているがそれぞれの話し声で聞こえづらい。ルカも誰かと話していた方が目立たないのだろうが、学問主義を良しとする彼らとは話が合いそうになかったので、広間の隅で大人しくしているしかなかった。


 穏やかな笑い声が渦になって耳を刺す。


 ――――そういえば、この状況はアリスにとっては恐怖でしかないのではないのか?


 ルカは人の波を眺めながらふと思った。今までアリスを傷つけ、人としての尊厳を奪い続けてきたのは同じ魔術師だ。いくらか人間らしくなった今でも、時々古傷を撫でては静かに瞳を淀ませるくらいには、過去の痛みと絶望はこびりついて離れない。


 心臓がドクンと音をたてた。唇を固く閉ざしたままアリスを見つめると、考えていることがすべて伝わってしまったのか、彼女はたどたどしく笑ってみせた。


「大丈夫です」

「……そうか」

「先生がとても優しいので。だからわかってます。大丈夫です」


 ルカはふいと視線を逸らした。頬のあたりが心なしか熱を持っていた。


「……そういやおまえ、ここに来る前、ドレスのコルセットを直しに部屋に戻っただろ。ずいぶんと時間がかかってたみたいだが、エマと何かあったのか?」

「あ、はい。わたしがエマにお願いして、もしもの時のために――――」


 そこから先は聞こえなかった。アリスの言葉は柱時計の鳴る音でかき消されてしまって、彼女は驚いたように口を閉じたのだ。二人そろって振り返ると柱時計の針は十九時を指していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る