第3章
第19話 アリスは武器だ
最近パリを訪れることが増えた、とルカは思う。一年近くエソワに引きこもる生活をしていたというのに、日々はめまぐるしく変化していく。ステッキを片手にパリの街を歩きながら、ルカは街並みを眺めた。
ルカのすぐ後ろにぴたりとついて歩いているのはアリスだ。
ルカに引き取られるまでの数ヵ月間はパリで過ごしていた彼女だが、もともと人の多いところは苦手らしく、はぐれないようにルカのジャケットの裾をつまんでいる。彼女から手を伸ばしてきたときは驚いたが、何も言わずにそうさせていた。
今日の目的地はジェラールの邸宅だ。いつも通り渋々魔術具を使ってパリまでやって来たのはいいが、ルカの不器用さは筋金入りで、今日も着地位置がずれてしまった。結局歩くことにした二人は時々話しながら、通りの端を進んでいた。
「……カフェってのはな」
ルカはたまたま近くを通ったテラス席を横目に、ぽつりぽつりと話し始めた。
「フランス革命の前からあったものだ。フランスで一番最初にできたカフェは大体百五十年くらい前で、場所もパリだ。店ができて以来、カフェはフランスで瞬く間に人気になった。珈琲ってもんが物珍しくてウケが良かったんだよ。プチノワール≪小さな黒い飲み物≫ってな」
ルカが唐突にうんちくめいた話を始めることは、そう少ないことではなかった。そのたびにアリスは真面目な顔をして耳を澄ませる。今も話が聞きやすいようにルカの隣に並ぶと、彼を見上げた。
「最初は演劇やら文学に詳しい知識人の集まる場になっていたんだが、しばらくすると政治的な場になった。珈琲を飲みながら議論を交わしたり、革命家が集まったりしたんだ。有名なのはフランス革命のきっかけにもなった演説で、カフェ・ド・フォアってところで行われたらしい。カフェを出て革命を!って具合で叫んでな。その後革命に火がついてバスティーユ監獄が襲撃されたって流れだ」
「革命の後はナポレオン皇帝の時代なんですよね?」
「ああ。だがそのナポレオンもカフェに仕掛けられた爆弾でテロにあったりしているから、何かと縁があるわけだ」
「今でもカフェで政治の話をするんですか?」
「いいや。今じゃまた文学の話が多いだろうな。それと待ち合わせにもよく使う。さすがにあのじいさんを引っ張り出すのも何だから俺が出向くが、普通の魔術師相手ならカフェで会ったりもするぞ」
いつの間にか距離を歩いていたようで、すぐ近くにジェラールの邸宅が見えてくる。ルカは区切りのいいところで話を終わらせると、邸宅の門を片手で押し開けた。
ルカは草花で彩られた庭を真っ直ぐに抜けて、邸宅の扉の前に立った。ガチャリとカギの回る音が聞こえてきたので、ルカは遠慮なくノブを回す。
そのままずかずかと邸宅の中へ足を踏み入れるが、アリスは扉の前で困ったように立っているだけだった。ルカが手招きをするとようやく彼女も入って来た。
大抵ジェラールは一階奥の応接間で待っている。応接間に繋がっているのは食堂だけなので、まず食堂に入った。ルカの邸宅とは違い、ジェラールの邸宅は昔の造りで廊下そのものが存在していないのだ。ルカは食堂の奥の扉を軽やかにノックすると、返事を待つことなく扉を開けた。
「よお」
投げやりに挨拶すると、ジェラールはさっそく顔をしかめた。
「君は少し礼儀というものを覚えた方がいい」
ジェラールはたしなめるように言うが、ルカは適当に頷くだけだった。ジェラールは呆れたように首を振るが、それ以上何か言うことはせずに本を閉じて膝の上に置いた。肩にかけているだけだったガウンに袖を通すと改めてルカの方を見遣った。
彼の後ろでもじもじとしているアリスを見つけると、皺の多い顔に柔らかな笑みを浮かべる。
「久しぶりだね、アリス。こちらに来て顔を見せてくれるかな」
アリスは小さく頷くと、ルカを追い抜いてジェラールの前まで進み出た。久しぶりに会って緊張しているのか俯きがちだが、どことなく嬉しそうな雰囲気をまとっていた。
「おじい様、お身体は大丈夫ですか?」
「ああ。まだ少し膝が痛いけれどね、これは歳だから仕方のないことなんだ。それよりアリスも元気そうで良かったよ。ルカとの生活はどうだい? 何か困っていることはあるかな?」
「いいえ。先生はとても良くしてくれています」
「そうかい、そうかい。ルカは一人だとまともに食事もとらないような男だから心配していたんだが、なるほど、君の言葉を聞いて安心したよ。アリスが世話を焼いてやっているのかな」
「いえ、そんなっ」
アリスは慌てて首を振るが、ルカが後ろから肯定してやった。
「ご明察。アリスのおかげで一日三食まともな飯を食えてるよ」
「やけに顔色がいいと思ったら、そういうからくりか」
ジェラールは愉快そうに笑うと、二人に座るように勧めた。ルカとアリスは彼の正面にあるソファに腰かけた。
しばらく世間話をしたり、近況を報告したりと他愛のない話を続けていると、アリスも慣れてきたのか、くすっと笑みを零すことが増えてきた。相変わらず自分から話を始めることは少ないが、聞かれたことには流暢に答えた。
十分ほどして場が温まってきたあたりで、ジェラールは思い出したように言った。
「そうだ。アリスに本をわけてあげようと思っていたんだが、どうかね」
「本……ですか?」
「ルカのところにあるのとは違って普通の本だ。私の使い古しで破けているのもあるけれど、もしアリスが気に入ったものがあれば持って行ってほしい」
「そんな、わたし」
アリスは慌てて首を振った。印刷技術は日進月歩とは言え、書籍自体はまだまだ高価なものだ。アリスもそれを知っているのか困惑しているが、ジェラールはにこにこと笑みを浮かべたまま押し切った。
ルカの後押しもあって、結局アリスは一人で書斎へ向かうことになった。十日ほどこの邸宅で過ごしていたからか間取りはわかっているようで、何度も振り返りながら部屋を出ていった。
ルカとジェラールの二人きりになると、ルカは口角を上げた。
「じいさん、あんまり意地悪をしてやるなよ。まだ控えめなところは治っていないんだからな」
「そういう君こそ少々面白がっていたように思うがね」
「そりゃあ、まあ、面白いし。……それにしてもあいつ、前よりかなり明るくなったと思わないか? さっきも結構笑っていただろ」
ルカがほっとしたような口調で言うと、ジェラールは柔和な笑みで目を細めた。
「それは君も同じだとも」
「……?」
「不思議そうな顔をするね。君も笑う回数が増えたよ、だいぶ」
目を丸くしたルカにジェラールは笑いかけた。
「彼女を君に預けたのは正解だった。君はシャルルのことでだいぶ参ってしまっていたからね、彼女が立ち直るきっかけになればと思ったんだよ。むろん君の力が彼女を守るために必要不可欠だったことにも間違いはないが……」
ジェラールはテーブルの上のワイングラスに手を伸ばした。喉を潤すように一口分飲み込むと息を吐く。彼が落ち着くのを待ってから、ルカは静かに切り出した。
「……なあ、あんたは知っていたのか? アリスの身体のことを」
ルカの声はいたって淡々としていたが、どこか棘があった。
ルカはジェラールを真っ直ぐに見つめて答えを待つ。聞かずにはいられなかったのだ。返答次第ではそれなりの態度を取るつもりだ、とでも言いたげに眉間に皺を寄せると、ジェラールは細くため息を吐いた。
「……いや。彼女を保護してすぐ、他の魔術師にもいろいろ調べさせてはみたんだがね、まさか人間を魔術具そのものにしようなどということには気づけるはずがないだろう。第一魔術具の専門家なんて君を除けばそうそういないからね。その質問にはノンと返す他ない」
「……ああ、そうか。よかったよ。もしこれでウィなんて返ってきた日には俺はすぐさまここを出ていたな」
「私は君を心配こそすれ、騙したり裏切ったりするつもりはないよ」
彼は言い聞かせるようにゆっくりと口にした。ルカは軽く頷いてからグラスを手に取る。
睨みはしたものの、ジェラールの言葉が真実であることはわかっているつもりだ。彼が学院長としてふさわしい人格を持ち合わせていることは、長年の付き合いで証明されているのだ。
ルカは気持ちを落ち着かせるためにワインを口に含む。ずいぶんいい瓶を開けたらしく、まろやかで上質な風味が鼻を抜けていった。
「それであの襲撃事件、片はついたのか?」
「いや、まだ調査中でね。ただ結界が不安定になるのは魔法陣の不具合ではなく、外部から干渉を受けていたことが原因だったらしい。……例の過激派組織だよ。今回はたまたま居合わせたアリスに攻撃が命中してしまったようだ。君の方は何か新しいことはわかったかな?」
「俺が調べてみた結果はほぼ手紙に書いたとおりだ」
ルカは足もトン視線を移す。
「あいつの身体には三十を超える魔術式が書きこまれている。内からでも外からでも、魔力を流しさえすれば、ほぼ一瞬で魔術を発動できるはずだ。俺のと違って制御装置が未熟だから、簡単に暴走するだろうが――――その点を除けばよくできた仕組みだったよ。あいつの化け物みたいな魔力を外部からコントロールしようなんざ、悪魔みたいな考えだけどな」
学院での騒動があってから、ルカは一日がかりでアリスの身体を調べた。見つけだせた魔術式のほとんどは攻撃魔術で、学院で暴走したものもそのうちの一つだ。
刻まれた式の一つ一つは単純なものでも、アリスの血を対価とすれば脅威となる。ルカはとっくに結論を出していた。
「――――アリスは武器だ。意思持つ魔術具として、調整されている」
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