第18話 信じてくれなくていい


「怖かったんだよ……。今無邪気に笑ってるあいつが、いつか復讐のためだけに戦うのかと思ったら、急に怖くなった。それがあいつの幸せだなんてどうしても思えなくて――――。だが嘘はそう長く続かなくて、一年前に気づかれた。あいつは手紙だけ残して、突然姿をくらませた」


 彼が出て行って、ようやく、どれだけ馬鹿げたことをしたのか気が付いたのだ。


「しばらくしてシャルルの行き先がわかった。ある過激派組織だ。同時に俺はその組織を潰すという任務を負っていた。任務の途中、案の定俺はシャルルとばったり出くわしたよ。話もろくにできないまま決別した。……その後教師もやめてエソワに引きこもった。それでもおまえが来てからは、そういうわけにもいかなくて……昔みたいだった。昔みたいで少し楽しかった」


 言葉を切る。ルカは深々と頭を下げた。


「……それなのに、アリス。おまえを守ってやれなくて悪かった」


 ルカはうなだれるがアリスは答えない。ルカは構わずにひとり言を呟き続ける。


「それ以上に――――俺はおまえを見捨てることも考えてしまった。エマやライアンもいたあの場で、どうするのが最善なのか分からなかったんだ。おまえには本当に悪かったと思っている。今さらこんなことを謝ったところで仕方がないのはわかっているが、それでも……」


 罪悪感でルカの声は次第に小さくなり、語尾は消え入るようだった。ルカは目を伏せたまま革靴を見ていた。シーツの端がぎゅっと引っ張られたような気がして、顔を上げたがアリスは顔をうずめたままだ。ルカは両手に力を込めた。


 彼女に言わなければならないことはまだある。ルカはゆっくりと瞬きをしてから口を開いた。


「なあ、アリス。いつまでも迷っているわけにはいかないから、ようやく覚悟を決めたんだ」


 ルカは言葉を続けようしたが、一瞬鼓動が止まったように胸の奥がドキリとした。つられて口をつぐむ。だがすっと息を吸いこんで呼吸を整えると、アリスの方を真っ直ぐに見つめた。もう目は逸らさなかった。これは口約束ではなく彼女への誓いなのだ。


「――――俺はきっとおまえを守るよ。これからは絶対に、おまえを諦めたりしない」


 ひと際強い強い風が吹いて、薄汚れたカーテンがたなびいた。差し込んだ光が長く床に伸びる。ルカは目が眩んで両目を閉じていた。カーテンがばさばさと激しく音を立てた。目の痛みはすぐに治まってルカは、伺うように恐る恐る目を開いた。


 息を呑む。いつの間にかアリスがベッドの上でぺたんと座りこんでいた。


 シーツをぎゅうっと抱きしめ身体にまとっている。絹のように細く柔らかい金髪は乱れ、あどけない顔には驚きと戸惑いの混じった感情が浮かんでいた。やっと顔を見せた彼女は、しかし信じられないようなものでも見るような目で、ルカを見つめていたのだ。


「……なんだ、起きていたのか」


 ルカはわかりきっていたことを今さら知ったかのように、冗談めかした口調で言った。彼女は肯定も否定もしないまま喉を震わせた。


「せんせ……。わたしは、そんな」


 アリスは掠れる声で言う。


「わたしは一緒にいるだけで先生に迷惑をかけます。……わたしは先生を傷つけました。ごめんなさい。自分でもどうすればわからなかったんです」

「あれはおまえのせいじゃない。俺がこうなっているのは俺が未熟だからだ」

「違います! わたし、わかっているんです。わたしは誰かを傷つけるためのものです。最初からそういうことのためだけに――――」

「おまえはそれを望んでいるのか?」


 彼女の言葉の意味はわからなかった。しかし遮りながら問いかける。アリスははっと目を丸くすると激しく首を振った。


「嫌です!」


 アリスは喉の奥から声を出して叫ぶと、ほとんど泣き出しそうな顔でルカを見た。エメラルドグリーンの瞳は透き通っているが、涙でうるんでいた。


「もう嫌です……。わたしが痛いのも、誰かが痛いのも嫌なんです。わたしはもう誰かを傷つけたくないんです。こんなことになるくらいなら、わたしは先生と一緒にいたくありません!」


 アリスの肩からシーツが滑り落ちた。アリスは一息に言い切ると、駄々をこねる子どものようにふるふると首を振った。目じりから涙が零れ落ちて白い頬を伝っていく。部屋はしんと静まり返った。


 アリスは短く呼吸をすると、泣きながら笑みを浮かべた。


「……先生。わたしに優しくしてくれてありがとうございました。こんなに誰かと一緒に過ごしたのは初めて、どうすればいかわからなくて――――でもとても嬉しかったです」

「なのに俺と一緒にいるのは嫌か?」

「わたしは、わたしのせいで先生に怪我をしてほしくないんです。それに先生はわたしを守ってくれるけれど、わたしは先生を傷つけるだけで、何も……」

「役に立ってほしいわけじゃない。ただ俺がおまえを守りたいと思っただけなんだ」

「……どうして」

「?」

「どうして先生は、そんなにわたしに良くしてくれるんですか……?」


 アリスは唇を固く結んだ。尋ねたのは彼女なのに答えを聞きたくないとでも言いたげに瞳を震わせている。彼女は間違いなく追い詰められている。彼女の表情はいよいよ絶望の色を見せ始めていた。ルカはたまらない気持ちになった。


 ――――彼女の人生は奪われるばかりで、何かを与えられることなどなかったのだ。


 だからルカが何を言っても、彼女は信じるどころか意味さえわからないのだろう。彼女にとって時たま与えられる優しさは気まぐれでしかなくて、信じたり頼ったりする類のものではないのだから。


 ルカは軽くかかとを浮かせては床に付けた。言葉で否定してみせるのは簡単だが、アリスは困ったように笑って頷くだけで、何も響きはしないのだろう。彼女が送って来たのはそういう日々なのだ。ルカはアリスに向かって手を伸ばした。


「俺を信じろ、とは言わない。信じてくれなくていい」


 指先がちょんとアリスの手の甲に触れる。彼女はぴくっと身体を動かすが、身体を引くようなことはしない。拒絶されているわけではないとわかって、ルカは彼女の手のひらを上から握りこんだ。


 シーツを握りしめていた指を開かせるように、ゆっくりと指を這わせた。ようやく力の抜けた手を握ると、ルカは柔く力をこめた。


「それでも俺はおまえを放っておけないんだ。それに二人でいるのに慣れてしまって、今さらあの家で一人になるのも……少し寂しい。だからもう少しだけ一緒にいてくれないか?」


 ルカは今の気持ちを隠すことなく優しい声で呟いた。そろそろ素直にならなければ、本当に大切なものまで失ってしまう。


 アリスは戸惑うように首をかすかに傾け、言葉の真意を探ろうとルカの目を真っ直ぐに見つめた。瞬きするたびに鮮やかな色の瞳に様々な感情を浮かべては消していく。アリスはしばらく黙りこんでいた。だがルカの手を振り払うことはなかった。


 カーテンがそよ風に吹かれて柔らかく膨らむ。


 アリスは迷いながらもこくんと頷いてみせた。そしてルカの手を軽く握り返したのだ。

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