第16話 俺が必ず助ける
結界が崩れる兆候を見せ始めたとき、エマはひとり言のような、か細い声で呟いた。
「……このような時に言うことではありませんが、先生とともに戦えることを光栄に思います。わたくしにできるのはこのくらいのことなのです。わたくしはアリスさんや……シャルルさんの代わりにはなれませんから」
ルカがはくっと唇を動かしたのと同時に結界が崩壊した。
二人は背を向けてそれぞれ剣を構えた。一度剣を振りかざせば会話をするだけの余裕はもうない。エマの呟きに答えを返すタイミングを永遠に失ってしまい、ルカは申し訳なく思ったがそれ以上にほっとしていた。
ルカは手首を返しながら蔦を的確に切り刻み、死角ギリギリから伸びてくる蔦にさえ、気配だけで反応し切り伏せた。
余裕のできた一瞬でちらりとエマの様子を伺うと、彼女もまた鮮やかな戦いぶりを見せていた。
エマはレイピアを杖代わりにしているらしく、レイピアから放たれる炎が縦横無尽に駆け巡って蔦を灰にしていた。魔力を少しも惜しまない潔さに感心しながらも、ルカは視線を逸らし、大きく足を踏みだした。
すでに中核が近いことは勘でわかっていた。あと十歩も進めばアリスの腕を掴めるはずだ。
汗が背中を伝っていく。ルカは呼吸を荒げながらも進むだけだ。ふとこめかみのあたりに違和感のような痛みが走ると、どこからともなくライアンの声が響いてきた。
「────先生! 解析終わりました!」
彼は予告したとおり、思念魔術を使っていた。
距離が離れていても、まるで隣にいるように声がはっきりと聞こえてくる。その明瞭さに思わず返事をしようとするが普通に声を出したところで聞こえはしない。ルカは魔術具なしでは魔術式を組むのに時間がかかるため、あっさりと諦める。ライアンもそれをわかっているから、返事を待つことなく一方的に話を進めた。
「終わったというか、結論づけたという方が正しいんですけど……。先生たちの仮説どおり、俺は銃弾に刻み込まれた魔術式を調べようとしました。なのに全然見つからなくて。魔力痕はかなり強いのに、魔術式のとっかかりすらまったく感じなくて、本当に散々調べたんです。それでも途中で何かおかしいと思って、それで……こんなこと、あっていいはずがないんですけど」
ライアンは言葉を区切った。自分の出した答えはもしかすると間違っているかもしれない、そんな不安がライアンを黙らせる。
ルカは促してやることも励ましてやることもできず、ただ目の前のことだけに集中していた。身体をひねりながら際限なく伸びてくる蔦を断ち、少し足を引いては一気に前進する。もう少しだ。もう少しで抜ける。
ライアンは意を決したようにすうっと息を吐くと、見つけた答えをはっきりと口にした。
「きっと最初から銃弾に魔術式なんて刻まれていないんです。銃弾にこもっていたのは魔力だけ。つまり────魔術具なのは銃弾ではなくてアリスちゃんの方。銃弾はきっかけになっただけで、魔術を発動させているのはアリスちちゃん自身です!」
ルカは返す手首で蔦を下から上まで一気に切り上げる。視界は一気に開けた。そしてようやく姿を見せたアリスを目の当たりにして唇を噛んだ。
ライアンの出した答えが正解か不正解か、それはこれからルカの身をもって証明することだ。
もし正解だったならこの事件は思っていたより簡単に終わるだろう。アリスに魔術を取り消させればいいだけなのだ。もし不正解だったなら────成果もなく、近づいた分だけ危険に晒されるだけだ。
恐怖はあったが、ルカは足踏みすることなく突き進んだ。
「……アリス」
ルカは少し枯れた声で彼女に呼びかけた。もう口に馴染んだその名前を、もう一度声に出す。
「…………」
アリスは腕をきつく押さえたままうなだれていた。顔は見えない。彼女の小さな手のひらが押さえる袖は赤く染まり、伝った血はスカートまで点々と汚していた。
血を流しすぎたのか意識が朦朧としていて、うわ言のように何かを呟いていた。
「どうした、アリス」
「…………い」
「アリス」
「痛く、ない……」
「聞こえるか、アリス」
彼女の顔は真っ青だった。血の気を失った唇で自分に言い聞かせるように言い聞かせる。
「痛くない……、痛くない……。痛くない」
その様はあまりにも悲痛だった。息すらできなくなるほど苦しくて、ルカは剣先を下ろすとアリスに駆け寄った。
「っ、こっちを見ろ!」
膝をついて顔の高さを合わせる。左手をアリスの頬に当てて無理やりに上を向かせると、ようやく視線が交わって、彼女の暗く淀んだ緑の瞳がルカを捉えた。
ここまでアリスのそばに寄ってしまえば、もう剣を振るうことができなくて、蔦はあっという間にルカの身体に絡みついた。
エマはここまで着いてこられなかったのか、蔦の壁の向こうに取り残されている。完全に無防備になったルカを守ってくれる者は誰もいない。
蔦に容赦なく内蔵を締め付けられて、えずきそうになったが、堪えてアリスの髪を優しく撫でた。彼女が「せんせい」と口を動かしたように見えたので頷きで返した。
「ああ。痛かったな」
「せんせ……」
「痛いときは痛いと言え。そうしたら俺たちが必ず治してやるから。……おまえは俺が必ず助ける、だから俺の話を聞いてくれ」
アリスは目じりに涙をためながら二度頷いた。
「いいか、おまえは魔術師じゃない。だがこの蔦を動かしているのはおまえなんだ」
「……?」
「自分でもわけがわからないよな。制御しろと言われてもできないだろ」
「は、い」
「わかってる。だから今から言う俺の言葉を繰り返せ。それだけですべて終わる」
「はい……」
「焦らなくていい、息を深く吐け。……そうだ、それでいい。よく聞いて、ゆっくでいいから確実に言葉を紡ぐんだ。言葉は口に出すだけで力になるから。────いくぞ」
アリスはこくんと深く頷いた。ルカは力なく笑ってから、穏やかな口調で詠唱を始めた。
「契約は果たされた。求めるものはすでになし……」
アリスもたどたどしく言葉にする。ルカは不器用に笑みを浮かべると続けた。
「これを、もって────」
ルカはうっと言葉を詰まらせた。首筋に巻きついた蔦が、息の根を止めようときつく締め付けてくるのだ。あと一節で終わるというのに、最後の言葉だけが出てこない。ルカの手から剣が滑り落ちてカランと音を立てた。
「────っ⁉」
思わず先生と声を上げそうになったアリスに向かって、必死でかぶりを振った。今それを口にしてしまえば、今までの詠唱はすべて無駄になってしまう。アリスはぎゅっと唇に力を入れて寸前のことろで堪えた。瞬きすると涙の粒が零れ落ちた。
ルカの顔は次第に天井を向き始める。両手で蔦を引きはがそうとするが、力が入らない。呼吸を諦めて喉の奥を震わせても、唇が虚しく開いたり閉じたりするだけだ。もがくように足を動かすが、何にもならなかった。
「か、は――――」
いよいよ焦点が合わなくなってきて、視界が白くぼやけ始めた。感覚のほとんどない右手を伸ばして剣を取ろうとするが届かない。
アリスが顔を引きつらせながらも左手で剣を取り、ルカの手に握らせてくるが満足に動かせない。そうこうしているうちに口の中に血の味が広がって、骨が軋むような音がした。助けは来ない。ルカは最後の望みにかけて声を絞り出した。
「き……、は……」
アリスは一音も零さないようにと荒い呼吸を止めて耳を澄ませているが、ルカは結局最後まで口にすることができなかった。
ふと痛みすらどこか鈍くなり始めたことに気づき、遅れて自分の意識が飛びかけているのだとわかった。
アリスははっと目を丸くすると、勢いよく顔をあげた。
戸惑ったような顔つきで、伺いを立てるようにルカを見つめてきた。エメラルドグリーンの瞳は驚くほど澄みきっていて、何かを確信しているようだった。だが彼女はどうすればいいのかと迷っている。ルカは最後の力を振り絞って頷いた。
彼女もまたこくりと頷き、細い声で囁くように言った。
「――――これをもって魔術式を破棄する」
アリスは聞き覚えのある言葉を辿るように、ぎこちなく口にする。
ルカが伝えようとしていた最後の一節は、アリスが自ら口にした。彼女の詠唱は正しく作用し、魔術は解かれ蔦は光の粒子となって消え失せた。
ルカの全身を締め付けていた蔦もなくなり、身体が解放される。ぐらりぐらりと揺れると力なく前に倒れ、血を吐き出したかと思えば激しく咳きこみ始めた。
「先生!」
近くにいたエマが駆け寄り、少し遅れてライアンがやって来た。彼はルカの傍で膝をつき、右手をルカの肩に置いた。ルカの身体を調べ始めるが、ルカはやっと出た声で拒絶した。
「ア、リス、を」
「何言ってるんですか、先生! 骨何本折れてると思ってるんです!? 死にたいんですか!?」
ライアンに言われて、初めて全身の激痛の正体を知った。どうやら締め付けられたことによって、いたるところの骨が折れているらしかった。
いつの間にかアリスより重傷を負っていることを皮肉ろうとするものの、声がかすれて、まともに話すことはできない。仕方なく視線だけをあげてアリスを見ようとすると、彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら泣いていた。
「……痛い思いをさせたな」
やっと呼吸を整え始めたルカが呟くと、彼女は静かに首を振った。
「でも、先生が助けてくれました。わたしもう痛くないです。全然痛くないです……」
ルカは少しだけ笑って瞼を閉じた。
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