第10話 俺は最低な人間だよ
話しながら階段を上ると息が上がってくる。ルカは出不精といっても、昔はそれなりに身体を動かしていたので体力もあるが、アリスは慣れない運動で呼吸を乱していた。
やっと五階にたどり着いたころには、はあはあと浅く息をしていた。
エリアスの研究室は階段のすぐ向かいだったので、アリスを置いて先に扉をノックする。少し強めに叩いてやれば扉はすぐに開いた。
「やあ、アレヴィ! 久しぶり! 元気にしていたかい?」
扉を開けたのはエリアスだった。彼は廊下に響くような大きな声で言い、爽やかに笑う。
「久しぶりっておまえ、十日くらい前にも会ったばかりだろ」
「そうだったかな? まあどっちでもいいや、会えて嬉しいよ。立ち話と言うのもなんだからとにかく部屋に入ってくれ。……んん? 階段のそばにいる子どもは君の連れなのかい?」
「……ああ」
エリアスがさっそく目をつけたので、ルカは呆れてしまいそうになった。とにかく興味を抱かせないように、淡々とアリスのことを紹介するが、彼はきらきらと輝いた目で彼女を見ていた。
「あのルカ・アレヴィが学院長から任された子どもを連れている、と。一年前の君ならともかく今の君が。ああ――――それは最高に面白いね。面白い!」
ルカは頭を抱えたくなった。さっそく失敗だ。
「見るな、騒ぐな、部屋に戻れ。邪魔はさせないから仕事場にも連れていく。いいな」
「うーん、別に構わないけどここに置いていけばいいんじゃないのか?」
「一人にしておくわけにはいかないんだ」
「見てくれる人ならいるよ。そこに」
「はあ――――?」
ルカはわけがわからないと顔をしかめるが、エリアスは意味ありげに笑うだけだった。嫌な予感はますます強まっていく。エリアスに招かれて、ルカはアリスを置いたまま研究室の奥へと進んだ。
そしてようやく、彼のたくらみに気が付いたのだ。ルカはもはや愕然とした顔で肩を強張らせた。
「先生!」
ルカを見てそう呼んだのは、背後のアリスではなかった。
小綺麗に片づけられた研究室の奥、ルカの目の前にいたのはかつてルカの生徒だった二人だ。
少女が立ち上がって、少年は座ったままルカを見た。
誰よりも会いたくないと思っていた二人だった。ルカははっと息を詰める。爪が刺さるまで両手をきつく握りしめた。
「先生……!」
少女は今にも泣きだしそうな顔で繰り返した。苦しげに「エマ」と彼女の名前を呟くと、彼女は大きく頷いた。
「先生、やっとお会いできました……!」
エマは両手を胸の前で組んだ。栗色の髪を上品に編みこみまとめている彼女は名家の出身だ。名に恥じないようにと、どんなときだって毅然とした表情をしていたはずなのに、今は感情を表に出しすぎている。あんな風にうるんだ目をルカは見たことがなかった。
「エマ、先生が固まってる」
革張りのソファーに腰かけていた少年――――もう一人の生徒であるライアンは苦笑いを浮かべていた。彼も傷の目立つ革靴を床に付けて立ち上がる。ルカがぼうっとしたまま彼の名前も口にすれば、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「先生、すみません。騙すようなことをしてしまって。でも先生に避けられているのはわかっていたから、もうこうするしかなかったんです」
ライアンが頭を下げると、動きに合わせて首のあたりで整えられた襟足がさらりと揺れる。ルカははっとした。それは何度も見たはずの懐かしい光景だった。心臓が痛いほどに収縮して、ルカはさっと目を逸らす。
唇を噛むと、乾燥していた皮膚が簡単に切れて鉄の味が広がる。頭がおかしくなりそうだ。ルカは理性を留めようと短く舌打ちをした。
二人はルカが選んで特別目をかけていた生徒だった。彼らの才能が、心が、意志がとても好きで、望まれるままに研究室にもいれた。朝から夜まで深くまで関わった。数年とはいえ、教師と生徒としてはずいぶん長い時間を共にしてきたのだ。
だからこそ突然学院を辞めて、彼らには一言もなしに逃げたことを、今でもずっと後悔し続けている。時間がたてばたつほど罪悪感が膨らんで苦しくなった。それでも今さら会いに行くほど面の皮は厚くなかったし、彼らを見るとシャルルのことも思いだしてしまうから嫌だった。
ルカは目を伏せる。
「くそ、一年だぞ……」
「そうですね」
「俺は一年もおまえたちを放っておいたろくでなしなんだ。俺は間違いなく教師失格だ。なのにどうして俺なんかに、ここまで執心する?」
「あはは、ひどいこと言いますね」
ライアンが朗らかに笑う。エマは美しいドレスの裾を皺になるまでぎゅうっと握りしめた。いつだって優雅であろうとする彼女らしくない仕草だ。彼女のヘーゼルの瞳が、痛いほど真っ直ぐにルカを射抜いた。
「ずっと、ずっとお会いしたいと思っておりました。わたくしたちは何日でも何年でも待つ覚悟がありました。だってあなたの生徒なんですもの。とてもわがままで図々しいんです」
エマの言葉にライアンも力強く頷く。彼らは嬉しそうな顔で、けれど不敵にほほえむ。逃げ場などなかった。
「……さあ、もう観念なさって。わたくしたちの勝ちですわ」
ルカは止まっていた息を恐る恐る吐きだしてみる。そして全身の力を抜いた。むしろ抜けたという方が正しかった。はは、と乾いた笑い声すら口をついて出る。
「俺は最低な人間だよ」
この二人には絶対に会いたくないと思っていた。
あの日何よりも大切にしていたものを失って絶望した。二人のことだって大切だったはずなのに、何も目に入らなくなった。急に怖くなって、まだ残っていたはずのものを何もかも放り捨ててルカは逃げたのだ。我に返ったときには、もう戻り方もわからくなっていた。
今さら彼らの“先生”を名乗る資格はなければ、合わせる顔もなかった。こんなにも求められていると知った今でさえ、吐き気がするほど惨めな気持ちだ。自分がいかに愚かだったか、まざまざと見せつけられるのだから。
――――それでも。
「それでも、俺だっておまえたちを見捨てるつもりはなかったんだ……」
ルカは喉の奥から絞りだすような声で呟いた。子どものころのように鼻の奥がツンと痛んで、唇が震えてしまう。許しを請うような真似をするつもりはなかったのに、気づけば口が動いていた。一度言葉にしてしまえばもうなかったことにはできなかった。
逃げたのは自分だけなのに――――ルカは自分をあまりに身勝手だと思った。情けない顔でエマとライアンを見れば、しかし彼らは嬉しそうに顔を見合わせていたのだ。ルカの呼吸は再び止まった。
「ねえ、先生。俺たちは見捨てられたなんて、少しも思っていないんですよ」
「え……?」
「俺たちが勝手に先生を待っていたんです。それでも我慢できなくて無理やり振り向かせたんです。本気で嫌がられたらどうしようとか考えたりもしたんですけど、結局先生相手に遠慮なんてできませんでした。エリアス先生にたきつけられちゃいましたしね!」
ライアンは吹っ切れたように子どもっぽく笑った。まるでいたずらに成功したときのような、十八歳の割には幼く見える笑顔が懐かしかった。エマも俯き加減になりながらも、こらえきれずに笑い声を零していた。
目の前に広がる光景を目にしながら、ルカは言い表しがたい気持ちになって唇を固く結んだ。まるでこの一年が嘘だったかのように穏やかで優しい時間だったのだ。
「――――って」
ルカは思いだしたように指先をはねさせると、勢いよく振り返った。
「エリアス、おまえ俺をはめたな?」
すでに閉められた扉に寄りかかっているエリアスは、悪びれもせず片手をひらひらとさせた。
「まあね。感動の再会のうちに忘れてくれればいいのになあと思っていたんだけれど」
「忘れるか!」
「そんなあ」
「いつもいつも人の事情に勝手に首を突っ込んでは引っ掻き回しやがって……! いいか、頼むから俺で遊ぶのはやめてくれ!」
彼に関わると大抵ろくなことがない。最後はほとんど悲鳴に近かった。
もしかすると今回ばかりは本当に善意だったのかもしれないが、騙し討ちでルカを動揺させ遊んでいたのかもしれないと思うと、背筋のあたりがぞっとする。結果的にエマとライアンは満足したようだが、ルカにとっても最善であったかと言われれば素直に頷けなかった。
「……どうせ魔術具の不具合というのも、俺を呼びだすための嘘なんだろ」
不服そうな顔で言えばエリアスは小首を傾げた。
「え? それは本当だけど?」
「本当なのかよ!」
まったく紛らわしい男だ。ルカは背中を丸めながら激しく髪をかき乱した。
ルカの気も知らず、けらけらと笑うエリアスの少し後ろで、アリスだけがぽかんとしたまま棒立ちになっていた。
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