第9話 ひたすら存在感を殺せ
寝室のベッドのそばに二人は立っていた。ルカはステッキで床を突きながら魔術師らしからぬ詠唱を口にする。腰のあたりにはアリスの腕が回されていて、かすかな体温を感じる。アリスの細い指は、遠慮がちにルカの白いローブを掴んでいた。
ルカの魔術具を使えば転移魔術ですら短い時間のうちに発動できる。魔力操作もほとんど必要がないため、才能に欠けたルカでもなんとか使いこなせる。ルカが研究の末に編み出した彼の魔術の要だ。
もういつでも発動できるというところで待機状態にして、アリスを見下ろした。
「今から学院まで転移する。この前と同じで多分酔うだろう。こればかりは慣れるしかないが、なるべく息を止めないようにしろ」
「はい」
「……あとこれが一番大切なことなんだが、吐く前に離れてくれるか」
「……頑張ります」
アリスは緊張しているのか、指先に力を込めた。唇をきゅっと結んだまま待っている。そんな風に固くなっていたら酔いやすいぞ、と注意してからステッキを軽く上げた。
「待機状態、解除――――発動」
床をトンっと叩いた瞬間から、寝室の風景が歪み始めた。
ベッドも本棚もチェストもぐにゃりと潰れて混ざり合う。今日は入念に準備したおかげか揺れは少ない。ルカがもう一度アリスを見下ろすと、彼女は両目まで思いきりつむっていた。想像以上に面白い顔をしていたので、くっと笑い声をこらえながらステッキを持つ手に力を入れた。
ひときわ強い衝撃が身体を貫いて、二人の身体はふわりと浮いた。一秒後には石畳に着地している。ルカの革靴がコツと心地よい音を立てる。
アリスはふらりと前につんのめった。咄嗟に左腕を出して支えてやると、彼女は口元を押さえながら重心を戻した。
「どうだ?」
「大丈夫……です。この前より平気です」
そう言うアリスの顔色は悪くはなかった。アリスは礼を言いながら身体を離し、数回深呼吸をしてからルカを見上げる。慣れたというわけではなさそうだが、吐き気は収まっているようだ。ルカもほとんど気持ち悪さを感じていなかった。
「先生、ここが魔術学院というところなんですか……?」
アリスはきょろきょろと見回しながら尋ねた。あたりは広場になっていて、四方八方に道が伸びているのが見えるだけだ。
「いや、ここはパリにあるエトワール広場だ。ナポレオン・ボナパルトはわかるか?」
「少し前まで皇帝だったという方、ですよね」
「そのナポレオンが作らせたのが向こうにある凱旋門だ。あの凱旋門自体は数年前にできたばかりでな。当のナポレオンは完成を見る前に流刑されて死んでしまったわけだから皮肉だろ」
ルカはそう言って笑った。アリスは首を動かして凱旋門を見遣った。
シャンデリゼ通りの向こうに小さく見える凱旋門の周りには、多くの人が見物に来ていた。アリスは少し気になっているようで軽く背伸びをしている。見に行きたいとは決して言わないが、じっと眺めていた。
「……悪いが時間だな、そろそろ行くぞ」
「移動するんですか?」
「学院はここにある」
「……?」
「正確にはここにあって、ここにはない。入るには特別な鍵が必要だ。鍵というのも比喩で……とりあえず俺のすぐ後ろにいろ」
ルカはステッキを左手に持ち替え、右手を前に出した。アリスにも聞こえないほどの小声でぶつぶつと何かを呟くと、二人の耳の奥で扉が開くような音がした。アリスは右耳を押さえながらあたりを見回したが、それらしきものは見えない。アリスは何も言わなかったが、困惑しているようだった。
ルカはアリスの手首を掴んで軽く引っ張る。手を引いて歩きはじめると、彼女は焦りながらも大人しくついてくる。
たった三歩歩けばそこは異世界だった。
「――――っ⁉」
アリスは自分の目を疑ったのか、空いている方の手で目を擦った。目の下が少し赤くなったが周囲の景色は変わらなかったので、ますます混乱したように呆けた顔で足を止める。仕方なしにルカも立ち止まって大丈夫だと言った。
先ほどまでいたはずのエトワール広場はもう見えない。代わりに大きな門と、その先に塔のようなレンガ造りの建物がある。様々な格好をした様々な人が、二人の傍を通り過ぎていった。
「あれが学院だ。おまえの“おじい様”が統べる、魔術組織の頂点といってもいい組織だよ」
ルカは塔を指さしながら言った。
「あの広場で決まった詠唱をすると扉が開く仕組みになっている。一応魔力量での識別もしているはずだが――――まったく魔力を持たない人間なんてほとんどいないから、ついでだ」
「そうなんですか?」
「魔術なんてのは知識と技術だ。学べば誰にでも使えるものだが、多くの人間はこちら側と関わりを持たずに生きていくから絵物語になってしまう」
そこまで言って、ルカはアリスの手首を離した。もう触れている必要もないのにいつまでも握っていたのはおかしな話だ、とルカは若干きまりの悪そうな顔で歩き出した。アリスはルカの後ろをぴったりとついてきた。
大門をくぐって真っ直ぐに突き進み、塔の下まで向かう。ルカは前だけを見て歩いていたが、アリスは時々上を見上げては感嘆したように息を止めた。いつの間にかルカとの距離が空いていると小走りで追いついて、背中にぶつかる寸前で速度を緩めるということを繰り返した。ルカは気配だけは感じながらも、特に何も言わなかった。
門から塔までの距離はエトワール広場から凱旋門までの距離とほとんど同じだ。しばらく歩いてやっと塔の真下までやって来た。塔の出入り口は扉になっていて、絶えず人が出入りするからか開け放たれていた。
扉の前で一瞬足を止めて後ろを振り返る。アリスはすぐ後ろにいて、どうしたのかと言いたげな顔でルカを見つめ返した。こんなところで迷子になるほど、アリスは子どもではなかったか、と思いなおして中に足を踏み入れた。
塔の廊下にはほとんど窓がない。昼間でも光が入ってこないので、壁に取り付けられたランプには火が灯されている。二人がそばを通るとろうそくの火がゆらゆらと揺れた。
「あの、先生」
緩やかにカーブしている廊下を進む。ずっと黙っていたアリスがようやく口を開いた。彼女から話しかけてきたはずなのに、それきり続きを言わないから、ルカは前を向いたまま「なんだ」と先を促した。
「わたし、本当についてきてよかったんでしょうか」
アリスは声を潜め囁くような声で言った。
「それはどういう意味で?」
「場違いじゃないかと思って」
「魔術師じゃないからか?」
「……それも、そうなんですけど」
「けど?」
「わたし、先生のお邪魔になりませんか」
アリスの声はますます小さくなった。
なんだ、そんなことを気にしていたのか、別にどうでもいのに――――そう言い切ってやることができないくらいには真実だった。
彼女の言う通り、魔術師でも弟子でもない彼女がここにいるのは場違いだし、仕事をするうえで彼女がいるというのも都合が悪かった。彼女は魔術師から見て特別な子どもなのだ。
しかしアリスを邸宅に置いてくるという選択肢も最初からなかった。どれほど不都合だったとしても、彼女から目を離すというリスクに比べればよっぽど軽いものなのだ。
「うろちょろしなければそれでいい。というかどうせしないだろ、おまえ」
「たぶん……?」
アリスは曖昧な返事をした。塔をほとんど半周したところで階段が見えてきた。階段の近くには扉があって、ルカはそちらの方へと速足に近づいていった。扉を四回ノックする。はい、と女性の声で返事があって扉が少しだけ開いた。
アリスはルカの背から少し顔を出して、扉の奥を見ようとしたが、逆光でよく見えなかったのかまたルカの後ろに引っこんだ。
「どのような御用でしょうか」
「学院との仲介役、エリアス・クレマンから呼び出しを受けている」
「少々お待ちください」
女性は扉を閉めて部屋に引っこむ。また少しすると扉が開いて、廊下に光の筋を作った。
「五階、クレマン先生の研究室でお待ちしているとのことです」
ルカが短く礼を言うと、扉がゆっくりと閉まった。アリスに一声かけてからまた歩き出した。
五階の研究室と言われて最初に頭をよぎったのは、知り合いに出くわさないかということだった。この学院から逃げるようにして去ったルカとしては、エリアスと話すことですら精神的に疲れ果ててしまうというのに、かつての生徒と対面でもしてしまったらどうすればいいのか想像もつかない。それだけは何としてでも避けなければならなかった。
次に思い浮かんだのが、エリアスの話はやはり胡散臭いということだ。
学院の魔術具の修理と言われてここまで来たが、本当にそうなら向かうべきは塔の地下のはずだ。何故エリアスの研究室に呼び出されているのかさっぱりわからない。何か嫌な予感がしている。だが確証もないのに引き返すことはできない。ルカは重い足取りで階段を上がった。
「エリアスさんという方も魔術師なんですか?」
アリスは声のボリュームをやや落として尋ねてきた。気になったというよりは場を繋ぐための質問という感じだったので、時間つぶしになるよう詳しく答えてやる。
「俺の元同僚だ。ここの教師で、研究テーマは魔法陣の省略。研究以外に俺と似たような“仕事”もしていたから、それなりに関わりがあってな。なにかと俺にちょっかいをかけて楽しんでいるような面倒くさい男だよ。目をつけられたら一生面白おかしく遊ばれるからおまえも気をつけろ」
「どういう風に気を付ければいいんでしょうか」
「ひたすら存在感を殺せ」
「なるほど……?」
アリスはよくわからなかったのか、困ったように答えた。もう少し具体的に言ってやりたいのはルカも同じだが、エリアスの感性はルカにも理解ができないのでそうとしか返せなかった。
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