第8話 そいつだって、どうせ偽善だよ
本をいくつか見繕って、アリスの目の前に並べてやると、彼女は本の表紙をしばらくじっと見た。それからルカに視線を戻す。自分はどうすればいいのかと、無言で尋ねている顔だ。
「これが気になるんじゃないのか?」
「え?」
「ち、違うのか?」
自分の観察が間違っていたかもしれない、という気恥ずかしさで声が高くなる。アリスは慌てて二度頷いた。
「違ったのか……」
「いえ、そうじゃなくてっ。気になっていました」
「そ、そうか。そこにあるのはおまえが触っても構わないから好きにしろ」
ルカは安心したような声で促した。アリスはそろそろと手を伸ばし、壊れ物を扱うかのような手つきで表紙を撫でた。また顔を上げてルカを見るので軽く頷き返す。アリスは表紙を開いた。
薄い紙をめくる音が続き、古い本特有のインクと紙のにおいが立ちのぼる。アリスは文字を眺めていた。
――――フランスの識字率は割に高い。パリであれば労働者でも字を読めるものは多い。
しかしアリスは例外ともいえる存在だ。出自は謎に包まれているが、魔術師に消耗品として囚われていたというだけでろくでもない日々であったことに間違いなく、当然字など読めないだろう。
ルカは膝に置いていた本をテーブルの上に戻し、適当に真ん中のあたりを開いた。ページをぺらぺらとめくり、読みかけになっていたところを探しまた読み始める。途中で紙とペンを書斎に忘れてきたことに気が付いたが、どうせこんなところでは研究も捗らないので早々に諦めた。
キッチンは静かだった。二人でいても無言の時間の方が多い――――いつもはそれが気まずく思えるが、今は本があるからむしろ心地よい。特に声をかけることもなく読書に勤しんだ。
本に視線を置いたまま、片手を伸ばして紅茶のカップを持ち上げる。湯気がなくなりぬるくなり始めたころ、思いだしたように顔を上げてアリスの方を見た。
ルカならともかく、アリスからすれば読めもしない記号が並んでいるだけだ。見て面白いものではないだろうと思ったが、アリスは未だ飽きもせずに見ていた。目は真剣だ。物好きだなとルカは少し口角を上げる。
アリスはしばらくするとページをめくって次を見る。指の腹が文字をそっとなぞる。まるで本を読んでいるかのようだ。それどころか、視線を動かして文字を順番に追っているようにすら見えた。ずいぶんと時間をかけてからまたページをめくる。延々とその繰り返しだ。
まさか――――と声に出ていた。
「おまえ、字が読めるのか?」
アリスは話しかけられたことに驚いたのか、肩をびくっと揺らしてから前を向いた。何を訊かれたのかわからなかったらしく、また「ごめんなさい」と口にする。ルカはゆるく首を振ってから同じ質問を繰り返した。
「……読めます」
アリスは少し小さな声で答えた。
「この本は難しいので、意味はわからないんですけど。字は読めます」
ルカは驚きを隠せずに目を見開いた。
「なぜ」
「なぜ……?」
「おまえが、どこでどうやって字を覚えたのかを訊いているんだ」
少しかみ砕いた質問を返すと、アリスは少し考えるように視線をさ迷わせた。ふさわしい言葉を探しているようだった。やがて選び終えたのか細い声で告白する。
「教えてくれた人がいるんです。わたしに、いろんなことを。字もその人が教えてくれました」
過去を思いだしたのか、彼女はほんの少しだけ目元を動かした。つらく苦しいことを思い出させてしまった、とルカはきまり悪そうに視線を逸らせたが、彼女の表情はどこか懐かしむような感情を見せていた。
「……本当は気まぐれだったと思うんです。でもとても優しい人でした。なにも知らないわたしにいろんなものを見せてくれて、いろんなことを教えてくれました。わたしをあの場所から逃がしてくれたのもその人なんです」
やっぱり気まぐれだったと思うんですけど、とアリスは困ったように笑う。
「それでもわたしの恩人なんです」
「そいつの名前は」
「知りません。先生みたいになんて呼べばいいのかは教えてくれませんでした」
それきりアリスは黙りこんだ。なにかを考えているのか鮮やかな色の瞳は伏せられる。ルカも同じように黙ったまま、彼女の反応を待っていた。じれったくはあったが十秒のことだった。
「……せんせ」
頼る人を知らない、か細い声だ。
アリスは意を決したように袖のボタンを二つ丁寧に外すと、袖をまくり上げた。晒された白い肌をルカにもよく見えるよう差し出してくる。
掴めば簡単に折れそうな細い手首だった。やはり十三歳の子どもなのだ。
華奢な腕には何本もの横筋が入っていて、それらがすべて古傷であることに気づくまでは一瞬だった。
皮膚が引き攣れたような不自然な跡には見覚えがあるし、ルカの身体にも似たような跡がある。
魔術によって乱雑に治療されたときにできる治療痕だ。
傷をすべて数えるようなことはしなかったが、見えるものだけでも十を超えていた。まだ袖に隠れている分も、もしかするともう片方の腕にもあるのかもしれない。ルカの心臓はバクバクと嫌な音を立てていた。
「その傷は、魔術師に……」
語尾まではっきりと言うことが憚られるほどの痛々しさで、ルカの声は次第に小さくなる。アリスは俯いたままこくりと頷いた。
「わたしの血がいるんだって言われました。わたしのじゃないと駄目なんだって」
「……ああ」
「みんな後になったら治してくれるんです。でも毎日のように新しいのが増えていくばかりで」
感情の押し殺された声に、ルカの唇がはくっと震える。アリスは自分の手首を優しく撫でた。
「本当はもっとたくさんあったはずなんです。でもあの人が治してくれました。あんなに丁寧にしてくれた人は初めてでした。ちゃんとすれば跡が残らないことも教えてくれました」
「……そいつだって、どうせ偽善だよ」
ルカが耐えきれなくて思わず口に出すとアリスは弱々しく笑った。
「わかっていました。だってあの人も、わたしに痛いことをするんですから」
その言葉を聞いたとき、ルカは自分がみっともない顔をしているであろうことを自覚した。
ひどい話だと思ったのだ。まだ子どものはずなのに、彼女はどうしようもないほど深く正しく理解していた。自分を取り巻いていた状況も現実も。ただの偶然が重なって救われただけだということも。
どうせなら、その優しい魔術師とやらに無邪気に感謝しているくらいでいればよかったのに、とルカは心底思う。
アリスは気まずい空気のなかで取り繕うように笑みを浮かべた。だがすべての感情を隠しきれるはずもなく、あまりにも痛々しい笑みだった。
「そんな顔をするな……」
「え?」
「アリス、笑いたくないときに笑うな。そういうのはもうやめろ」
言い聞かせるようにゆっくりと言えば、アリスはいつものようにこくりと頷いてみせる。きっと彼女だってルカの言いたいことはわかっているのだろう。けれどそれが治ることはないのもまたわかっていた。
いつだって言葉にするのは簡単だ。けれど彼女が積み重ねてきた日々に勝ることはないのだ。
ルカは髪をかき乱した。ああ、くそ、と小声で呟いてから紅茶の残りを一気に飲み干してしまう。すっかり冷えていて、カップの底には溶けきらなかった砂糖が溜まっていた。口の中にもザラザラとした砂糖が残っていた。
アリスも真似をするようにカップを口元に運ぶ。もう息を吹きかけて冷ます必要もないくらいにぬるい紅茶を、彼女はちびちびと飲んだ。二人しかいない部屋で片方が黙ると恐ろしく静かだ。
ルカが話しかければアリスはすぐにでもカップを置くのだろうが、何を言えばいいのかもよくわからなかった。沈黙が続く。細い針で背中を刺されるかのような心地で、お世辞にもいい気分とはいいがたかった。
「アリス――――」
せめて夕飯の話でもしようかと口を開いたとき、奥の小窓の方からコツコツと音がした。ルカとアリスは同時に身体をひねって窓の方を見た。
「鳥……?」
アリスがおもむろに立ち上がって窓の方へと近づいた。彼女が鍵を開けて扉を開け放つと、白い小鳥が窓枠に止まっているのがよく見える。アリスが恐る恐る手を伸ばすと小鳥は羽を広げて飛び立った。
「ひゃっ」
鳥はアリスの手をすり抜けて部屋まで入ってくる。
アリスは驚いて声をあげたがすぐに振り返った。ルカめがけて真っ直ぐに飛んでいく小鳥を見てあたふたとするが間に合わない。ルカも慌てて避けようとしたがそれも遅い。ぶつかる、と思った瞬間小鳥はルカの肩に止まった。
顔面に衝突されなかったことにほっと胸をなでおろすが、肩にはほとんど重みを感じず、首にすり寄るように止まっているのに温度もなかった。
「ああ……なるほど、そういうことか」
そう言って手のひらを出してやると、小鳥は少しだけ羽ばたいて手のひらの中に収まった。そのまま動かずにいてやると、小鳥の身体は次第に光の粒へと変わり始めた。
真っ白な羽がみるみるうちに形を失って消えていく。アリスはさすがに驚いたのか大声で「先生!」と呼んだ。
大丈夫だ。と答えたときにはもう小鳥はいなくなっていて、代わりにルカの手は一通の手紙を掴んでいた。裏返して宛名を確認するとエリアス・クレマンとだけ書かれていた。
「面倒な奴から面倒そうなものが届いたな」
「あの、小鳥はどうなってしまったんですか……?」
「あれは鳥じゃない。エリアス―――俺の元同僚の魔術によって姿を変えられたもので、本当の形はこの手紙だ」
アリスにも見えるように掲げてやると、彼女は不思議そうな顔でまじまじと見る。だがはっと気が付いたように顔を上げた。
「ペーパーナイフを取ってきます!」
止めようとしたが、それより早く彼女はルカの元から離れてキッチンを出た。小走りで廊下を進む音がするから、戻ってくるまでそう時間はかからないだろう。
ルカはおもむろに腕を伸ばし、窓の外の眩しさに手紙をかざしてみた。一文字でも見えればと思ったのだが、中身はまったく透けなかった。なのにここまでうんざりしてしまうのは今までの経験によるものだ。
アリスがペーパーナイフを片手に戻って来たので、丁寧に封を切った。中から出てきたのは一枚の便せんだった。
とりあえず上から目を通すがどうでもいい近況ばかりで辟易する。結局のところ本題は最後の二文だけだったのだ。
「学院の魔術具に不具合が出ている――――?」
――――君の作ったものなのだから責任を持って修理しに来なさい。
手紙はそんな言葉で締めくくられていた。
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