第2章
第7話 理由もなく謝らなくていい
ルカはペン先を拭ってから、机の上に放り投げた。カランと軽快な音を響かせたペンはころころと転がって、本の背表紙に当たったところで動きを止めた。
ルカはぼうっとその様子を眺めていたが、はっと我に返ってペンを拾い上げる。きちんとペン立てに戻したところで息を吐いた。時計を見ると昼の二時だ。早めの昼食を取って書斎に戻ってきてからは、一度も席を立っていない。
そろそろ彼女が来る頃だ。椅子の手すりに右手を置いたところで、控えめなノックが響いた。
「ああ」
その場で返事をすると、扉の向こうから少し張った声が聞こえてくる。
「先生、お茶を入れるんですけど飲みますか」
予想通りの内容――――というよりここ数日これの繰り返しである――――だがルカはやや間を置いてから答えた。
「……頼む」
「お砂糖は一つですか?」
「いや、二つ」
「ミルクは、ええと、多めにしますか?」
「ああ」
「わかりました。今ポットを温めているところなので、十分ほどしたら持っていきますね」
ややあって階段を下りていく音が聞こえてきた。キッチンに向かったのだろう。ルカは伸びすぎた前髪をうっとおしそうにかき上げると、足を組んで窓の外を見た。
アリスがやってきてから二十日目。暮らしは驚いてしまうほど順調だ。
彼女は自分のことは何でも自分でやってしまうばかりか、とにかく一日中家事を探しているような子どもだった。
部屋の隅から隅まで掃除し、邸宅中の服を選択したと思えば庭の草木を整えた。そのうえ隙さえあればルカの世話を焼いていた。紅茶を入れに来るのでさえ引きこもりがちなルカの体調を確認しているのだ。そうなるとルカも無視はできず、健康的な生活をせざるをえない。
そういうわけで、二人暮らしはむしろルカの暮らしを向上させていると言っても過言ではなかった。
とは言え、いい年になって子どもに心配されているこの状況は喜ばしくない。ルカは複雑な気持ちになって、眉をしかめ小さくため息を吐いた。自分がろくでもない大人であることは自覚しているが、それを子どもに晒し続けて平気かと言われるとそうでもないのだ。
ルカはふらっと立ち上がって書斎のドアを開け放つと、一度机に戻って荷物を抱え、ゆったりとした足取りで部屋を出た。一階に下りてくる足音を聞きつけたのか、アリスがキッチンから顔を出した。
「先生、紅茶なら私が二階に――――あ、お荷物お持ちします!」
「いや、むしろ落ちてくると危ないから離れろ」
「どちらへ行かれますか」
「食堂だ。そのままドアを開けておいてくれ」
アリスは慌てて部屋の内側に入り両手でドアを押さえた。ルカは荷物の山で視界を遮られながらもゆっくりとアリスの横を通り過ぎ、食堂のテーブルまで歩いた。それからゆっくりと腰を落として慎重に荷物を置いた。
「……本、ですか?」
「ああ。魔術書だ」
机の端で落ちそうになっている一冊を拾い上げて背表紙を指でなぞる。埃でざらざらとしているそれには「近代魔術における詠唱の簡略化とその意義」と記されていた。アリスはまじまじと見つめてからぱっと視線を上げた。
「魔術書……というのは魔術についての本ですよね。書斎のものですか?」
「ここにあるのはすべてそうだな。適当に本棚から引っ張り出してきた」
「でしたら気を付けて綺麗にしますね」
アリスがどこからか布を出してくるので慌てて制した。
「?」
アリスは不思議そうな顔で手を止める。
どうやら本を持ってきたのを「掃除しろ」という意味だと思いこんだたらしい。彼女がそういう勘違いをする回数は未だに減っていなかった。
「いい。ここで仕事をするために持ってきただけだ」
「あ……。珍しいですね」
「場所を変えれば、集中できるかもしれないからな」
ルカは何でもない風に言ったが、本当はアリスを一日中一人にしているのがどうにも不安になってきたので、紅茶を口実に様子を見に来たのだ。ルカの思惑に気づいていないアリスは相槌を打つだけだった。
「でしたらせめて表紙だけでも綺麗に……」
「どうせ明日には床の上だからやるだけ無駄だな。それよりポットの中身は大丈夫なのか? 砂時計の砂が落ちきっているぞ」
「あっ」
アリスはぱたぱたと足音を立てながらポットに駆け寄った。蓋を開けて中を確かめるとほっとしたような表情で振り向いた。
「大丈夫でした」
短く言ってから身体を回転させ、棚から砂糖瓶とミルクを取りだす。テーブルに並べてからポットを右手に戻ってきて、二つのカップに紅茶を注ぎ入れた。
彼女が真剣な顔でカップを見つめているのを横目に、ルカは一冊の本を手に取った。テーブルの一番端に椅子を持ってきて腰かけると表紙を開いた。遊び紙もめくれば、冒頭から文字が敷き詰められたページが現れる。詠唱についての研究が記された手記だった。
ルカが目を通し始めると、ぽちゃんと角砂糖が落とされる音がした。ティースプーンでかき混ぜるような音が続き、しばらくするとアリスがカップを手に近づいてきた。気配は感じながらも振り返らずに本に視線を落とし続ける。アリスは横からカップを滑らせた。
「あの、紅茶が入りました。どうぞ」
「悪いな」
ルカは本を膝に置いたままカップを手に取り口元へ近づけた。一口含んだだけでいつもより甘い香りが口の中を満たし、まだ熱を持っている液体が喉の奥へと滑り落ちていった。舌には砂糖の甘みだけが残った。
アリスは自分のカップを持ってルカの目の前の椅子に座った。ルカは一瞬だけ視線を上げて彼女を見る。彼女はカップをテーブルに置いたまま、少し離れたところにある本の山をじっと眺めている。紅茶からは湯気が立っているのにカップを手に取る気配はない。
あれだけ言ってもまだ本の埃が気になるのか――――と半分呆れたような気持ちになったが、彼女の目を見てそうではないことに気がついた。思わず口を開こうとしたときアリスは見られていることに気が付いたのかルカの方を見た。
「あ……ごめんなさい」
すぐ謝るのも彼女の癖だ。
「何が」
ルカが訊き返すと、アリスは言葉に詰まったようにたじたじとする。
「えっと……」
「理由もなく謝らなくていい」
これを言ったのも何度目だろう。一昨日で数えるのをやめてしまったからわからない。
ルカはやはりため息を吐こうとしたが寸前で飲みこんだ。これが自分の悪い癖であることもわかっていた。ルカはごまかすように手を伸ばして本の山を崩し数冊を手繰り寄せた。
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