第6話 嫌いじゃない


「アリス」


 大きな声で呼びかけてみるが、返事はない。


 一階に下りて、もう一度彼女の名前を呼んでみるが、どの部屋も不自然なほどしんと静まり返っていた。とても一人の少女がいるようには思えない。


 ルカはしばらく考えるように棒立ちしていたが、はっと思いたって、足早に階段を駆けあがった。アリスの寝室のドアを勢いよく開け放って、ずかずかと無遠慮に部屋に立ち入った。


 昨日までただの空き部屋だったそこは、昨日までと変わらずほとんど生活感がない。だが唯一、窓際の机にはアリスの持ってきた小さな革鞄が置かれている――――はずだった。


 今は革鞄がない。椅子の下にもチェストにもベッドにもない。アリスがたった一つ自分の荷物としていたそれがないということは、つまり。


「――――出ていったのか?」


 ルカは何か納得したような口調でしみじみと呟いた。疑問など何一つ湧いてはこなかった。


 もともとルカ自身それを覚悟していたし、彼女に逃げ道を与えたのも自分の意思なのだ。そうすることが誠実だと思っていた。


 だからこそアリスが不満を感じ、自分で選んでここを出ていったのだとしたら、追いかけて連れ戻してここに縛り付ける必要などない。


 問題はジェラールにどう説明するかだが――――人選を誤ったのは向こうなのだから気に病むことなど一つもなかった。ルカはふーっと長く息をついて、頭をかいた。


「むしろ清々しただろ……」


 はっと笑う。何を必死になってあの少女を探していたのだろう。


 昨日会ったばかりの得体のしれない、それこそ化け物みたいな子どもを。どうせ無理やり押し付けられた面倒ごとなのだから、自分が懸命になるなど、馬鹿らしいにもほどがある。


 ルカはそこまで考えてベッドに腰かけた。 端の方に寄せられたシーツに指を這わせながら窓の外を見遣った。


 こちらからでは夕焼けが見えなくて、空は濃紺に塗りつぶされていた。あの美しい夕焼けをアリスは見ただろうか。それとも、ここから離れることに必死で、空など目もくれずに駆けているのだろうか。だとすれば味気ないにもほどがある。


 彼女はどこへ行くつもりで、そこまで無事にたどり着けるのかと想いを馳せる。最近は物騒で、子ども一人でなど間違いなく無事では済まない。


 せめて目的地までは護衛でもしてやるべきかもしれなかったが、ルカがそこまでしてやる義理があるかどうかもわからない。思考は堂々巡りで、力なく後ろ向きにベッドに倒れこんだ。


 たった一日過ごしただけで、ここまで心が乱されるのは、きっと昔のことを思いだしてしまうからなのだろうと思った。


 かつて自分の弟子であった少年――――シャルルと過ごした幸福な数年間が、どうしようもなく脳裏から離れないのだ。


「シャルル――――」


 名を呼んでみたところで、彼はもう応えてはくれない。


 ルカにとっては唯一無二の最愛の弟子だった。なのに雪の日、彼は手の届かないところへ行ってしまって、ルカがどんなに願ってもあの日々は二度と戻ってこない。けれど。


「……あいつならまだ間に合うのか?」


 ルカは目元を隠したまま、弱々しい声で言った。本当に間に合うのだろうか。シャルルにしてやれなかったことまで、全部。


 想像すればたまらなかった。居ても立ってもいられず、ルカは勢いよく上半身を起こした。靴の裏で床を鳴らすと、すぐさま立ち上がる。つんのめるようにして足を一歩前に出し、もう一方も出し、それから寝室を出て書斎へと戻る。


 ドアも閉めずにまっすぐ書斎机に向かった。近くに置いてある魔術具を見回して、アリスを探し出すために使えそうなものがないことを悟る。ルカは机の上に散らばっている本や宝石を乱雑に寄せてスペースを作ると、一枚の紙を置いた。


「くそ……」


 舌打ちでもしたい気分になりながらペンを取り、慣れない手つきで魔法陣を描いていく。黒々としたインクが白い紙にじゅわっとしみこみ、独特な匂いが鼻先をかすめた。丁寧に線を描き、文字を書きこんでいった。数分かけて完成させてルカは背中を起こす。まずまずの完成度だった。


 魔術は、詠唱と魔法陣と対価の三つで成り立つ技術である。


 このうち二つあれば魔術を発動させることができるし、三つすべて揃えば効果も上がる。アリス――――正確にはアリスが持っているであろう、ルカの宝石にこめられたルカの魔力――――を探知する魔術ならそう難しいものではない。


 ひとまず、魔法陣に詠唱を加えてみることにして、軽く息を吸って呼吸を整える。


「……っ」


 言葉を出そうとした瞬間、心臓がぎゅっと縮んだ。


 もう魔術などこりごりだと思っていたのだ。だからどうしようもないときや、身を守ること以外で魔術は使わないようにしようと自分で決めていた。


 なのに、なのに、あんな子ども一人のためにここまでするなんて思ってもいなかった。魔術具さえ通さない、本物の魔術を使うのは一体いつぶりだろう。もう覚えていない。ルカはかつての感覚を取り戻すように唇を薄く開く。


「我が魔力を持つ者を探し出せ」


 キンと耳鳴りがした。血の巡りが早くなって、皮膚の感覚が鋭敏になったように感じる。だが探知できたのは一キロメートルも離れていない場所くらいで、それらしい魔力源はなかった。


 ルカは引き出しから小さなナイフを取り出すと、左手の親指の腹に軽く当てた。


 一瞬躊躇するが迷っている暇はない。シュッと軽く引いて指先に傷をつける。久しぶりだからか、思っていたより鋭い痛みが走って顔をしかめてしまう。


 傷は薄皮の下までできたらしく、液体が指の端まで伝っていく感覚がした。鉄くさい臭いが立ちのぼった気さえした。


「探し出せ」


 血が数滴しみ込んだ魔法陣の上に手をかざし、もう一度同じ言葉を繰り返す。耳鳴りはいっそうつらくなって、こめかみのあたりはぎゅっと締め付けられるように痛んだ。しかし身体の表面がピリピリするほど魔力に敏感になっていて、今なら村中のことが手に取るようにわかった。


 いくら才能が足りていないと言えど、対価を支払った以上、それなりの見返りはあるのだ。


 ようやく目的のものを見つけたルカは、止まっていた息を吐きだした。方角は西、距離は二キロメートル弱。律儀にもルカが教えた通りの道を進んでいるらしい。


 ルカは魔術具一つも持たないまま、部屋を飛び出していた。


「くそ、くそ……なんで、こんな……っ」


 邸宅に鍵をかけるのも忘れたことに気づいたが、振り返ることなく道を真っ直ぐに駆け抜けた。昼に見た、ウルス川の小さな橋にさしかかるころには息が切れ始めていて、浅い呼吸を続けた。


 古い木の橋を渡って、ほとんど沈みかけている夕日の方へ近づくように走る。あたりはヴェールを一枚かけたみたいに薄暗く、細い道はどこまでも続いていた。


 風が少し冷たくなってきて、夜の気配が漂い始めた。ルカは息を吸い込む。


 冷静さなどどこかへ飛んでしまっていて、今はほとんど何も考えられなかった。ただ彼女をこのまま行かせては、後悔することだけは分かっていた。だから走るしかなかったのだ。


 ぽつりぽつりと建っていた家も少なくなって、代わりに木だけが並んでいるような道を突き抜けた。やがて日も沈みきった。オレンジ色だった空がほの明るいまま、深い青に染まっていく。ルカはゆっくりと足を止めて道の真ん中で棒立ちになった。


 目の前にアリスがいた。


「……あ……」


 呼びかけようとするが、息の通りすぎた喉はからからで上手く声が出なかった。ごくりと唾を飲んで、もう一度繰り返した。


「アリス」


 彼女がぱっと振り返る。肩から革鞄をかけたアリスは、真っ直ぐに彼を見ていた。不思議そうな顔で瞬きをして、それから昼と変わらない穏やかな声で「はい」と返事をした。


「アリス」

「はい」

「その――――ああ、くそ」

「先生?」


 ルカは唇を固くする。何といえばいいのかわからなかったから、思ったことを口にするしかなかったのだ。


「……行くな」

「え?」

「行くな、アリス。まだ行かないでくれ」


 その言葉はまるで懇願だった。


 ルカは額に汗をにじませながら、気づけばかつての記憶と同じように、ゆらりと手を伸ばしていた。右手が宙をかくようにアリスの方へと向けられていた。


 アリスが自分の弟子とはまったくの別人であることなど百も承知で、それでもそうせずにはいられなかったのだ。もう声には出さないで、彼女の名前を唇を動かすだけで呟いた。


「……先生」


 アリスはたどたどしい声で、少しくすぐったそうに彼をそう呼んだ。そして両手を前に突き出した。小さくて白い手は、たくさんの花を掴んでいた。


「先生、お花です!」


 彼を安心させるようにぎこちなく笑ったアリスは、すぐに困ったように眉を下げるが、それでも目尻を優しく下げていた。ルカは思わず「花?」と訊き返す。アリスは小さく頷いた。


「お花があればいいなと思って。テーブルの花瓶が、ええと、からっぽで寂しいから……」

「花瓶……?」

「テーブルの真ん中にある、白くて細い花瓶です」

「ああ、それはわかっている。わかっているんだが――――それだけか?」

「?」

「おまえは、本当にそれだけのために外に出たのか?」


 正直混乱していた。まさかそんな答えが返ってくるなど、予想だにもしていなくて、どうすればいいのかわからなくなったのだ。ルカは緊張を隠すように息を止め、静かに問いかけた。アリスは鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐに向けていた。


「はい」


 彼女は少しも迷わずに答えた。彼女の短い返事を聞いたとき、心臓がどくんと音を立てたのが自分でもわかった。ルカは何か言おうとしたが言葉が何も出てこなくて黙りこむ。アリスは急に不安そうな顔で手を引っ込めた。


「先生、お花は好きですか……?」


 もう何と言うのが正解かわからなくて、ルカは少しだけ笑った。


「嫌いじゃない……」


 笑っているというよりは、嗤っているという微笑だった。皮肉でも言うときのような声をするから、アリスは不安げな顔でルカを見つめると、視線を足元へ落とした。


「ごめんなさ――――」


 弱々しい声を遮るように、ルカは唇を動かしていた。


「アリス」

「……はい」

「悪かった」


 ルカは短くはっきりと口にした。アリスは驚いたように顔をあげ、大きな瞳を丸くさせた。そして何か言おうとしているアリスをやはり制して、もう一度「悪かったのは俺だ」と言った。


「せんせ……?」


 心配そうな顔をするアリスに、ゆるく首を振る。そんな顔をされれば、ますますいたたまれない気持ちになる。


 ――――結局のところ、俺はおまえを試していただけなんだろうなあ。


 ルカは目を細める。どうせおまえも俺を置いていくんだと、そう証明してほしかっただけなんだ。あとになって傷つくのは、もう二度と繰り返したくないから。


 ルカはやはり笑ってしまいたくなるのを押さえこみ、ふと視線をそらせた。夕日は沈みきり、濃紺に染め上げられた空には星が輝き始めていて、道の向こうは真っ暗闇になっていた。


「……もう日も暮れた。帰ろう」

「はい」


 先に歩きはじめたルカの背中を追うように、軽い足音が着いてくる。さりげなく振り返れば、ほとんど影にしか見えないアリスが速足に歩いていて、両手は花の茎を大切そうに掴んでいた。ルカは思わず歩く速さを落とした。


 本当にやり直せるのかもしれない。アリスとならもう一度。


 けれど彼女との幸福な未来を願えば願うほど、あの日の夜がフラッシュバックするのだ。


 ルカの時間は止まったままで、まだ進むことも戻ることもできそうになかった。 

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