第5話 どうしようもないな、これは


 二時間ほど仕事をして、とりあえず休憩でも挟もうとティーカップを持ち上げたが、中身はない。隣に置いておいたティーポットから注ごうとするが、それもいつの間にか空になっていた。ルカは足を組んでぼうっと壁の方を見つめた。


「面倒な」


 とは言え、自分が動かないことには永遠に紅茶を飲めない。しばらく悩ましげに考えていたルカだが、観念したように渋々立ち上がり、ティーポット片手に書斎を出た。


 廊下を真っ直ぐに突き進んで、階段を速足に降りる。そのまま右手にあるキッチンへと向かっていた彼だが、ふと足を止めた。すぐ左にある応接間から物音が聞こえたのだ。


「応接間から物音……?」


 ルカは怪訝な顔つきで呟いた。物音の主はアリスで間違いないのだが、では何故アリスがそんなところにいるかと言われれば、まったく見当がつかなかった。応接間は来客を迎えるための部屋であって、住人が何かをするためにあるわけではないのだから。


 ルカは足音を殺して静かに近づき、ドアの隙間から中の様子を伺った。広々とした部屋の中央に置かれたテーブル。その近くでアリスは四つん這いになっていた。


「……あいつは一体何をしているんだ……?」


 思わず声に出してしまって、それからはっと口を閉ざす。慌てて身体を引いたが、聞こえていたのならどうしようもない。ルカは頭の中で言い訳を並べるが覗き見の弁解は難しそうだ。


 しかしルカの恐れていたような事態にはならなかった。しばらく時間が経ってからもう一度中を覗いてみるが、アリスは何事もなかったかのように、相変わらず四つん這いのままだ。


 よく見てみれば彼女の手には白い布が握られていて、それでテーブルの足を磨いている。彼女の目には木彫りの細工と埃しか目に入っていないらしく、一心不乱に手を動かしていた。長いスカートを床に広げ、裾を肘までまくりあげてしまっていて、その姿はやはり使用人のようだ。


「どうしようもないな、これは……」


 ルカは小さくぼやいてから踵を返し、キッチンの方へと向かった。ティーポットをテーブルに置いてサロンへと戻る。今度は空いている扉を軽くノックして合図を送った。


「俺は今から少し外に出る。おまえも行くか?」


 アリスは上半身を起こすと、はっとした顔で頷いた。


「あ……はい! お荷物お持ちします」

「見ろ、ほとんど何も持っていないだろ。近くを歩くだけだから、おまえもそのままで来い」


 ルカはそれだけ言って背を向け歩きだす。アリスは少し離れたところから控えめについてきた。隣を歩けばいいものを――――と思うが、言ったところで彼女は困った顔をするのだろう。


 玄関の扉を開けようとしたところで、思いだしたかのように振り返った。


「言い忘れていたが、俺はこの村で戯曲家として通しているから、そのつもりでいろ。名前も偽名だ。あと話は基本的に合わせてくれ」

「はいっ」

「それから、話を合わせろというのは、黙っていろということじゃないからな」

「?」

「……いや、なんでもない。行くぞ」


 二人は邸宅の外へと出た。特にあてがあるわけでもないので、細い道を真っ直ぐに進んでいく。時々確認するように振り返れば、アリスはそわそわとした顔であたりを見回していた。


「あっちの方を見てみろ。ずっと向こうまで畑が続いているだろう。あれは全部ぶどう畑だ」

「全部、ですか?」

「秋に収穫されたぶどうはワインに加工されて市場に出回る。今は五月だから、まだ花穂がついたところだがな。この五月というのがぶどうを育てるうえで大切な時期で――――『五月の暑気は一年通じての宝となる』っていうことわざは聞いたことがあるか?」


 アリスは小さくかぶりを振る。


「五月の霜はぶどうに悪影響を与えるから、この時期に暑くならないと困るってだけの話だよ。特にうちの村なんかはぶどうで生計を立てている家も多いからな、不作だと大変なことになる」


 話しているうちに足は自然とぶどう畑へ向いていた。ぶどうの木の世話をしている婦人が「あ」と声を上げ、ルカの方へ大きく手を振った。


「まあ、バルテルさん! やっと外に出て来たんだねえ!」


 にこやかに笑いかけてくる婦人にルカも適当な挨拶を返す。何でもない光景だったはずだが、アリスはびくりと肩を揺らし、数歩後ろに下がると俯いた。


 婦人は手にしていた荷物を下ろすと人のよさそうな笑みを浮かべた。


「あらやだ、バルテルさんったらこんなに細くなっちゃって。もっとたくさん食べなくちゃ駄目よ。それで、ここ一ヵ月また引きこもっていたみたいだけれど、一体何をしてらしたの?」

「いつもの執筆ですよ。いやはや今度のは少し難しくてね。進みが悪いんです。それで気分転換に、この子と散歩に出てきたんですよ」

「お知り合い?」

「遠い親戚です。この前までパリにいたんですが、しばらくの間預かることになりまして」

「まあ!」


 婦人は少し腰を落とすと、アリスと視線を合わせた。


「お名前は?」

「アリス、です……」

「アリスちゃんね。あたしはそこの家に住んでいるルイーズ。この村のことはよく知ってるから何かあれば頼ってちょうだいね」


 アリスは緊張のあまり表情を硬くしているがこくりと頷いた。しばらく適当な話――――アリスのことだとか世間話だとか――――をしてから別れ、またルカは歩き出す。婦人は仕事に戻りまだ緑色の小さなぶどうの房を世話していた。


 アリスはちらちらと振り返りながらもルカの背を追ってきた。ルカは手招きをして彼女を隣に並ばせた。


「大体わかっただろ、いろいろと」

「はい」

「あの人は世話焼きだし親切だから、何かあれば頼るといい。ただし噂好きだから余計なことは言いすぎるなよ。あの人にかかれば、次の日には村中に知れ渡るからな」

「……ええと、気を付けます」

「よし」


 それから、と付け加える。


「向こうに小さな川と橋があるだろう。あれはウルス川というんだが、上流の方へ歩いていけばパリの方角だ。つうか都会に行こうと思ったら、とにかくそういう風に歩いていけばいい。それで途中馬車を捕まえるというのが普通だ」


 ルカは道の先を指さしながら説明した。彼女は黙って聞いていたが、最後に首を傾げた。


「あの先生、村の外へ行くんですか……?」

「おまえに道を教えているだけだ。知っていた方が何かといいだろ。方角さえわかっていれば一人でこの村を出られるしな。……まあ最近でも人さらいがあるし強盗も多いから、子ども一人で行くのはおすすめしないが」


 ルカは皮肉をこめた口調で言う。


 今教えているのが『逃げ道』であることをアリスも悟ったのだろう、彼女は一瞬顔をあげるがすぐに目を逸らして軽く頷いた。


「さすがに村を一周するとなると日が暮れるから、続きはまた今度だ。帰るぞ」


 ルカは身体をぐるっと回転させて、来た道を戻り始める。アリスは小走りで追いついてきた。家に帰った頃にちょうど十二時の鐘が鳴った。







 昼食をはさんでから、ルカは再び書斎に引きこもる。仕事に片が付いたころ、ふと窓の方を見ればガラスがオレンジ色に輝いていた。目に染みるほど明るくて、ルカは手で目元を覆い隠した。もう夕方だ。


 ようやく外の明るさに馴染んできて、ゆっくりと腰を上げて窓枠に手を乗せる。視線を巡らせれば夕焼けに染まる村の家々がよく見えた。地平線の向こうまで連なるぶどう畑の木も夕日の色をしていた。


 遠くで沈もうとしている夕日は丸くて大きい。空は真っ赤に焼けている。


 ルカにとってはもう見慣れた景色だが、ここにアリスがいれば感嘆の声を上げていたかもしれない。彼女の表情を想像すると、何かおかしな気持ちが込みあげてきた。


「夕食の支度でもするか……」


 ルカはようやく書斎を出る。夕食は少し遅くなりそうだが、もともと気ままな一人暮らしだ、この生活はしばらく治りそうにない。


 一階まで降りて、すぐにキッチンへ入るつもりだった。しかしふと足を止めて振り返った。どうせ夕食ができるまで時間があるのだから、アリスに外に出てみるよう言えばいい。


 そう思い浮かんでからは早く、ひとまず向かいにある応接間を覗いてみる。彼女の姿はなかった。


「さすがにもう応接間にはいないか」


 机やら棚やらを見れば、埃一つ残さず磨き上げられていた。小物や細かな装飾でさえも艶を取り戻していて、ここまで仕上げるのにどれほどの時間をかけたのかは想像したくはない。無言のまま応接間を後にして、小間へと向かう。


 扉を開けると、狭くて物のほとんど置いていない空間が広がっていて、やはりアリスはいなかった。


 一階はこれで全部だから、後は二階しか残っていない。階段を上ってくるような足音はしなかったが、仕事に集中しすぎて気づかなかったのだろう、と自分に言い聞かせるようにしながら、二階へと戻った。


 彼女に与えた寝室のドアを開ける。ベッドの上に綺麗に畳まれたシーツがあるだけで、やはりアリスの姿はなかった。寝室を確かめた後は書斎以外の部屋を―――といっても残りはトイレを含めても四部屋だが――――順番に覗いていった。近い順にドアを開けて、閉めて、それを四度繰り返したところでルカは軽く首を傾げた。


 アリスはどこにもいなかった。

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