第4話 旦那様?
エソワ村はパリからずっと遠く、馬車で二日ほどかけてようやくたどり着く小さな村だ。素朴な片田舎で、ブドウ畑がどこまでも広がっているような土地である。
ルカとアリスは音もなくこの地に降り立った。彼女は転移魔術に慣れていないせいか、酔ってしまったらしく、口元を手で押さえている。
「大丈夫か」
「は……はい」
「……荒っぽいのは俺のせいだが、吐くなら向こうにしてくれ」
ルカは裏庭の方を指さしたけれど、アリスは必死で息を整えた。
ようやく落ち着いたのか顔をあげた。そして目の前に広がる牧歌的な風景に驚いたように、目をぱちくりとさせた。どうやら彼女は、こんな片田舎の景色を知らないらしい。
ルカは玄関の鍵を開けながらふと思う――――パリしか見たことがなければさぞ新鮮に映るだろう。実際ルカも最初は驚いたものだ。
小さな橋まで伸びる細長い道も、風に触れる色鮮やかな花も、広がるブドウ畑の緑も、パリの喧騒からはまるで程遠いのだから。
「わ――――」
アリスは感嘆の声を零している。ルカはちらりと振り返ってからドアを開けた。
「村を見たいなら後にしてくれ。今は説明することが山ほどあるんだ。ひとまず中に入れ」
そう呼びかければ、アリスが慌てて走ってきた。申し訳なさそうな顔で俯いているから、ルカはうっと言葉に詰まる。
「いや、その、別に文句を言ったわけじゃない」
「……?」
「その、なんだ。優先順位の問題だ。日が暮れるまでには家の中を覚えてもらいたい」
ルカは顔を合わせないままに言い切って中に入る。アリスは戸惑うように立ち尽くしていたが、しばらくするとついてきた。
ルカの邸宅は豪奢なものだった。バイエルン風の木造住宅は田舎であることを示しているが、それでも快適で優雅な生活を送るにはぴったりだ。部屋はどれも広々としているし窓にはすべてバルコニーが付いている。ジェラールに手を回してもらっただけあって、素晴らしい住居だ。
ルカは広い玄関を突っ切って階段を上った。二階正面にあった控えの間も通り過ぎ、左右に分かれている寝室を見た。
「左手の部屋は俺の寝室だ。それで右側は誰も使っていないも寝室……というかただの物置になっているから、適当に片づけておまえが使え」
中を見せるためにドアを開ければ、やはり埃のにおいがした。奥まで行ってカーテンを引っ張ると、光に照らされた埃がキラキラと瞬いている。この家に来てから半年、ほとんど掃除もせずに荷物だけを置いているのだから当然と言えば当然だ。
後でシーツの洗濯くらいは手伝ってやるか――――などと考えながら窓を開けていると、アリスがゆっくりと首を傾げた。
「あの……」
なんだ、と短く促せば控えめに答える。
「このお屋敷、使用人室もありますよね」
「……使用人室? ああ。さっきの階段の近くに一つあるが、それがどうした」
「わたし、そこで寝るんじゃ……?」
彼女は不思議そうな顔で言った。今度はルカが首を傾げる番だ。使用人室は文字通り、使用人に割り当てられるべき部屋だ。中流以上の邸宅には必ずあるものだが、ルカが使用人を雇っていない以上、空き部屋ではある。
無駄になっている部屋の一つだが、だからと言ってそこで寝ろというわけにもいかない。
「寝室には困っていないし、部屋が空いているんだから使えばいいだろ」
ルカはそれだけ言って部屋を出た。アリスは少し離れたところからゆっくりとついてきた。
近くにあった書斎や化粧室を紹介し、その後は厨房や食堂や応接間を巡り、最後にはまた寝室へと戻って来た。一通りの説明が終わったルカはベッドに腰を下ろした。たまっていた埃がぶわっと広がるから、手で払ってその後少し咳きこんだ。
「……まあ、こんな感じだ。一日どこで何をしてようが構わないが、書斎にだけは入るなよ。あそこには危険なものも多い」
「わかりました」
「何か質問は?」
教師をしていたころのように尋ねると、アリスは迷うことなく口を開いた。
「お食事の時間はいつですか?」
「食事? 特に決めてはいない。外が暗くなってきて、腹が空いてきたら適当に食べる」
「あと、ええと……掃除のための道具ってありますか?」
そういえば今からここの掃除をするのだから必要か、とルカは壁の向こうを指さした。
「使用人室の中に一通りそろっているから勝手に使ってくれて構わない。他には?」
「お休みになる時間と、それからお目覚めの時間はどのくらいですか?」
「……お前の好きにすればいいと思うが」
「あ、あの、そうではなくて」
アリスは不安げに指を組んだ。
「ご主人様のご予定です」
彼女の言葉にルカはぽかんとしたまま瞬きだけをしていた。
「ご、ご主人様?」
素っ頓狂な声で返してしまって、取り繕うようにわざとらしく咳をする。先ほどから妙に会話が噛み合わない謎が解けてしまった。
「おまえ――――まさかとは思うが、自分が使用人になったとでも思っているのか?」
「え?」
アリスは驚いたように目を見開き、それから不思議そうに首を傾げる。
「あの……違うんですか?」
一階の柱時計がポーンと音を立てているのがかすかに聞こえる。ルカは小さくため息を吐いた。そして冷静に、大人らしい口調でアリスを諭そうと思ったのだが、いざ口を開いてみれば上手くいかなかった。
「あ……あたりまえだろ! 俺はあのじいさんからおまえを預かっただけで、おまえを使用人にするつもりなんて毛頭ない! 大体あのじいさんから何も言われていないのか⁉ 事情の説明くらいされているだろ⁉」
「き、聞いてます! ちゃんと! これからはこちらの家でお世話になるように、と」
「それ以外は」
「なんにも」
「くっそ! ほっとんど何も言ってねえじゃねえか、あのじいさん! しかもややこしい言い方しやがって! せめて説明くらいはそっちでしておけよ!」
ルカは髪をかき乱した。今日は朝からそんなことばかりしている気がする。
「いいか、今言ったように俺はおまえを預かっているだけだ。あとそのご主人様って呼び方はやめろ。気に食わない」
「……旦那様?」
「そうじゃない。そうじゃなくて、名前で呼べ。俺の名前わかるだろ。ルカ・アレヴィだ」
「ルカ様?」
「様はいらん」
「ええと、ルカ……さん……?」
ルカは軽く頷いてみせた。とりあえず許容範囲ではあるが、今度はアリスが少し困ったような顔をしている。どうやら彼女からすれば軽々しすぎるらしい。
「あー……くそ、面倒なことばっかだな」
ルカはそう呟いてから振り返った。
「先生、とでも呼べ。俺はおまえの先生でも何でもないけどな」
「はいっ」
これは気に入ったようで、アリスは一番良い声で返事をした。
ルカはいい年にも関わらず、毎朝決まった時間に起きるようなことはしない。
昔こそ必死に起きては急いで身支度をしていたが、教師をやめた今ではその必要がないのだ。窓から日差しが差し込んできて、寝るには不都合なほど眩しくなってきた頃にようやく目を開ける生活で――――つまりは朝が遅い。
「………」
とは言えいつもより早く目覚めてしまうこともままある。
例えば今日みたいな日がそうで、ルカはゆっくりと上半身を起こして窓の方を見た。日は昇っているが、まだ柔らかな光が辺りを包んでいるような時間だった。
枕元に置いてある懐中時計に手を伸ばすと、それは朝七時前を指していた。
ルカは深く息を吐きだす。目も頭もやけに冴えているから、もう一度目を閉じるのは悪手だと思った。それにルカは一人きりの悠々自適な日々を失ったのだから、二日目くらいは早起きして家事を終わらせるべきかもしれないとも思った。
「朝食二人分か――――どうするかな」
ぼやきながらベッドから足を投げ出して靴を探す。片方が遠くへ飛んで行っていたから仕方なく腕を伸ばして掴む。
とにかく食堂へ行って朝食を作らないことには始まらず、ドアへ向かおうとした。しかし振り返ったのと同時にドアがノックされる。
「先生。お目覚めですか」
一瞬ドキリとするが。声の主など想像するまでもなくアリスだ。ルカは軽く返事を投げかけた。
「もう起きているし、そのドアも開けていいぞ。どうかしたか?」
「あの、朝食の準備ができました」
「……朝食?」
そんなことを言いつけた覚えはない。
ルカが怪訝そうに呟いたのと同時にドアが開いて、アリスがちらりと顔を見せた。まだ朝早いというのにすっかり目覚めているような表情をしていて、髪も服装も整えている様子だ。赤いリボンがさらりと揺れて目に鮮やかだった。
ルカに比べればよっぽどまともな生活を送っているように思える。だがそんな彼女も、ルカの驚いたような顔を目にして、さっと顔を曇らせていた。
「私、家事のお手伝いをさせていただきたくて……。その、ご迷惑でしたか?」
「いや、迷惑なわけはないが……。とりあえずすぐに行くから先に下で待っていろ」
ひとまずそう返せば、アリスはこくりと頷いた。
「わかりました」
アリスはドアを丁寧に――――音が立たないようきわめて慎重に――――閉めた。しばらくすれば階段を下りていく足音が聞こえて、ルカはベッドの端に腰を下ろした。そうして盛大なため息をついた。
「なんつーか……子供らしくねえんだよなあ」
違和感の正体などあっけないものである。昨日アリスに年齢を聞いてみたところ、彼女が十三歳であることがわかった。
見た目通りではあるが、十三歳であれほど人の顔色をうかがっているというのも不健全な気がして、さてどうしたものかと考える。
「いや、俺が考えたところで――――」
思わず自嘲じみた笑みを浮かべた。ルカはかつて“失敗”しているのだ。そんな経験が活きるとは到底思えない。
ゆっくりと腰を上げて重い足取りのまま部屋を出た。一階へ向かう。右手にある扉を開ければそこが食堂だ。
一人暮らしの食堂など殺風景なもので、椅子とテーブルが乱雑に置かれているだけの部屋だった。テーブルには空っぽの花瓶が残されていて、それが余計に物寂しさを醸し出していた。
アリスは椅子の前に立っていて、ルカの姿を見つけると指の先をピクリと動かした。
「先生、こちらに……」
彼女は椅子を引いてルカの方を見る。それが座れという意味なのはすぐにわかったが、ルカは足を動かさないままアリスを見返した。
「……朝食はありがたくいただくが、そういうことはしなくていい。昨日も言ったが、おまえは俺の使用人じゃないんだ。いいからおまえも座れ」
ルカは淡々とした口調で言った。この言葉で本当に伝わっているのかはわからないが、かといって他にどう言えばいいのかもわからない。
とりあえずアリスが頷いたので、細かいところには目をつむることにした。彼女が正面の席に移動したところで、ルカも椅子に腰かけた。
目の前にはパンとスープとハム、チーズが並んでいて、磨かれたコップには紅茶が並々注がれている。
「……おまえ、料理できるんだな」
「おじい様から一通り教えてもらって。まだ簡単なものしかできませんけど……」
「ふうん、あのじいさんがねえ……。まあ、冷めないうちに食うか」
二人は黙々と食事を始めた。どちらもただ手を動かすだけで、部屋の中は痛々しいほどしんと静まりかえっていた。
ルカは固いパンをちぎる。何か話してやった方がいいのだろうとは思ったが、一体何を口にすればいいのかさっぱり分からなかったのだ。それはアリスの方も同じだったようで、彼女は気まずいとでも言いたげな表情でスープをすくっていた。深い甘みのあるそれはルカが作るものよりはるかに出来がよかった。
「…………」
先に食事が終わって手持ちぶさたになってしまったルカは、ぼんやりとアリスを眺めていた。フォークの使い方が上手いな、などとどうでもいいことを考えながらも、同時に今日これからのことも思っていた。
二人は手早く食事を終えた。食器の片づけだが、案の定アリスが立ち上がって手を伸ばすのでルカは言葉で制した。
「片づけは俺がやるからいい」
「あ……ありがとうございます」
「……それから朝食、美味かった」
ごにょごにょと口ごもりながら伝えると、アリスは驚いたように目を丸くして、それから慌てて頭を下げた。
「俺は書斎で仕事をしているからおまえは好きにしていていい。日が暮れる前には終わらせるが、何か用があったらノックをしてくれ」
「わかりました」
「それから夕食の準備は俺がする。昼食は……悪いが頼めるか? 適当なものを適当に使ってくれればそれでいい」
「はい」
「あと――――」
ルカはポケットに手を突っこんだ。指先で探り、ツルツルと冷たいそれらを乱暴に掴んで引き出した。それからアリスの右手を開かせてそれらを握りこませた。
「取っておけ」
「……?」
「言っておくが、それはおまえにやったんだ。もう俺にとってはないものだから返してもらわなくて結構」
アリスは手を開いていいものか分からず視線をさ迷わせていた。しかしルカの無言を肯定と受け取ったのか、ゆっくりと指を動かし、そして驚いたように顔をあげてルカを見た。
「あの、先生、これは、わたし」
「受け取れないってのは受け付けてないからな」
ルカはぴしゃりと言い切った。彼女の小さな手のひらの中にあるのは数個の宝石だ。鮮やかなガーネット、透き通るようなダイアモンド、深みのある色をしたサファイア――――どれも安いものではない。すべて魔術具を作るための材料として買い付けたから価値は確かなものだ。
「換金すればしばらく生きていけるだけの金が手に入るだろ。あとはおまえの好きにしろ」
ルカは手をひらひらと振ってから背を向け、食堂を出た。宝石をやってしまったことはむろん痛手ではあるが、ひとまず子どもをタダ働きさせていた罪悪感からは解放されそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます