第3話 君に、この子を引き取ってほしいんだ


 来客をもてなすための応接間に招かれたルカは、まずコートを脱いだ。フロックコートは十九世紀中ごろから昼間の礼装として広まり始め、紳士は外出時にこれを身に付けるのが常識だ。


「なんだってこんな面倒な慣習を作るんだ。服なんぞ、楽なものを着ればいいだろうに……」


 不満を口にしながらコートをソファに投げようとしたが、後ろからやって来たアリスが恐る恐る両手を伸ばしてきた。


「?」

「コートを……」


 どうやら乱雑な扱いが気になったらしい。ルカは数回瞬きをしてからコートを手渡した。


 アリスは大きなコートを抱えて小走りでサロンを出ていき、思いのほか早く戻って来た。足音からして急いだのだろう、髪が乱れている。ジェラールは愉快そうに声をあげて彼女の髪を数回梳いた。


 その様子は祖父と孫にしか見えないがそうでないことはわかりきっている。


 ルカが考え込むように意識をぼんやりとさせれば、ジェラールがゆっくりと振り返った。


「ルカ、そこのソファでいいかね」

「もちろん」

「ではアリスは私の隣に座りなさい」

「はい」


 ルカは二人と向き合うようにして革張りのソファに身体を沈めた。癖で足を組もうとしたがやめて、静かに二人を見据える。アリスは目元をぴくりとさせたがジェラールは読めない笑みを浮かべてルカの目を見返した。


「君の近況も気になるところだが、回りくどいのも嫌いだろうから先に本題に入ろう」

「ああ――――あんたのそういうところは好きだし助かるよ。あとはそうだな、面倒ごとを押し付けるのをやめてくれればなお良いな。例えば今とか」

「老い先短い私をいたわると思って聞き入れてくれると嬉しいねえ」


 彼は冗談のようにカラカラと声をあげたが、現実味を帯びているだけに笑えないと口元を引きつらせる。アリスも足をもぞもぞとさせた。微妙な空気を悟ったのか彼は小さく咳払いした。


「それで今回君に頼みたいことだが」


 彼はアリスの頭を優しく撫でて言った。


「君に、この子を引き取ってほしいんだ」


 壁の振り子時計の音がやけに大きく聞こえる。ルカはその言葉の意味をはかり損ねて数秒間黙り続け、それからゆっくりと息を吸いこんだ。


「は?」


 唖然としているルカを見て、ジェラールは続ける。


「アリスを君の家で見てほしい」

「ほとんど変わっていないぞ」

「そうかね。まあ、そういうことだ」

「いや、どういうことだよ」


 ルカは真顔のままで訊き返した。


「この子は訳ありでな――――学院での調査が終わって、私が一週間ほど面倒を見ていたのだが、いつまでもそういうわけにはいかんだろう。だからこそ信頼できる君に託そうと思ってな」

「はっ。んなこと言って、どうせ俺が一番都合いいだけだろ」

「そうとも言うが、あまり拗ねるものではないよ。信頼しているというのは本当だとも」


 何か言い返そうとしたが真正面から言われてしまうとさすがに詰まってしまう。照れ隠しのように舌打ちすれば、やはりアリスは表情を硬くした。ジェラールはアリスをちらりと見て柔く微笑みかける。


「話も上手くいきそうなことだし、アリス、悪いがワインを一杯入れてきてもらえるかな? 銘柄はそうだな、なんでもいい。適当なものを選んでおくれ」

「……っ。はい、おじい様」


 アリスは少し慌てたように返事をすると、ぴょんとソファから降りてドレスの裾を揺らしながら部屋を出た。ルカはむすっとした顔のまま背もたれに身体を押しつけた。


「……おい、俺は承諾したわけじゃないぞ。つーか今から断るつもりだぞ」

「いいや、君は必ず承諾したくなるとも。なにせ私は、これから君を脅迫するのだから」

「脅迫?」


 ジェラールはゆるく頷き指を組んだ。


「ここで君に一つ質問だ。学院をやめた君が、今まともに生活できているのはどうしてかな?」

「んなもん……学院に魔術具の材料を売っているからだな」


 様々なものを加工しそれを売って利益を得る。ごく真っ当な営みだ。


「正解。君は魔術師としては正直三流だが、魔術具に関しては専門的な知識があり優秀だ。だからこそ学院を退職した君と取引だけ続けているわけだが――――もし私の願いを聞き入れてもらえないなら、この取引は今日で終わりだ」

「はあ⁉」


 ルカは思わず腰を浮かせそうになった。それは生命線を断たれるに等しい所業だった。


「んなことして何になるんだよ! そっちだって俺の作る材料が必要だろ!」

「ああ、そうさ。このままだと互いに損をするだけだ。賢い君ならすぐに私の願いを受け入れる気になると思うのだがねえ」

「ひ、人の弱みに付け込みやがって……!」


 ルカは人生のほとんどを魔術師として生きてきた。だからこそほかの生き方など知らず、魔術に関わらなければ食べていくこともできない。教師を辞めた今、田舎でとはいえそれなりの生活を送れているのは学院との取引があるからだ。


 一方でジェラールにとってはルカでなくてもいいのだ。痛手ではあるが致命傷ではない。どちらが不利なのかは考えるまでもなく――――ルカはまた舌打ちをした。今度こそ不愉快さからくるものだった。


「今からでもいい、考え直してくれ。子どもの世話なんて俺には無理だ!」

「いやいや、そんなはずがないだろう? 君は“あの子”を十歳から育てたのだから」


 ジェラールはゆるく首を傾けた。またあいつの話か――――ルカは髪をかき乱す。


「だったらなおさらわかるだろ! 俺にはそんな資格がない!」

「君を選んだのはこの私だよ。君に預けるならこんなに心強いことはない」

「……くそっ、大体なんで俺にこだわるんだよ。面倒見るだけなら現場の教師でもいいだろうが。俺はあんたとの付き合いこそ長いが、能力だけで言えば底辺もいいところだ。訳ありの娘を預けるには頼りないだろ」


 ぶつくさと文句をぶつけるが、ジェラールは気分を害した様子もなく静かに目を閉じた。


「訳ありだからこそだ」


 ルカは靴で絨毯を叩いた。音は響きもしなかった。


「押し付けるからには、その訳ってのを聞かせてもらえるんだろうな」

「むろん」


 わざわざ用事を言いつけてまでアリスを出ていかせたのだから当然か、とルカは思いなおす。ワインを注ぐくらい魔術を使えばどうということはないのだ。ジェラールは声を潜めた。


「……あの子はついこの間まで魔術師たちに囚われていた」


 ルカは唇をぴくっと動すとすぐに視線を戻した。


「魔術師? 対教会――――過激派の連中か?」

「ああ。君の弟子が属してしまった例の組織にだ。君たちが戦闘をしていたかたわら、彼女が逃げ出しきたところを保護したんだ。おそらく彼女はとして使われていたのだろう」


 魔術とは詠唱と魔法陣、そして対価の三要素で成り立つ技術だ。


 大抵は対価として術者の魔力を使うことになるが、魔術が強力になるにつれ魔力では足りなくなってくる。


 足りない分を補うためには代わりになる物を差し出すことになる。簡単なものであれば髪の一本か二本、高度になるにつれ羽や植物、鉱石などというように価値が上がっていくのが常識だ。


 もし世界に干渉するほどの大魔術を行使するなら人体、さらにいえばその命ですら対価となるだろう。


 禁忌ではあるが道を外れた魔術師ならば手を出してもおかしくない。


「胸くそ悪い話だな」


 ルカは苛立ちを隠しきれずに毒づいた。


「それで? あの娘、腕も足もついていたな。指も全部そろっていたはずだ。対価として使われる前に助けられたってことか?」

「いや、違う。アリスはその程度の人間ではない」

「どういう意味だよ」

「それは……自分の目で確かめた方が早いだろうな。ちょうどアリスも帰って来た」


 ジェラールに言われて耳を澄ませてみる。開いたドアの向こうから足音が近づいていた。先ほどより落ち着いているのは両手にトレイを持っているからだろう。アリスは背で軽くドアを押して部屋に入って来た。


「おじい様」

「ああ、ありがとう。助かったよ」


 アリスは嬉しそうにはにかんでからグラスをテーブルに並べた。それからトレイを隅に置きに行こうとするが、ジェラールに呼び止められて顔を上げた。さっきまで座っていた場所に座るように言われ、彼女はソファにちょこんと浅く腰かける。不思議そうに瞬きをしていた。


「さて。ルカ、あの懐中時計は今日持ってきているかな」

「……ああ」

「なら話は早い。それを使ってみなさい」


 ジェラールは視線だけでアリスを示した。自分で説明すればいいものを――――と言わなかったのはどうせ無駄だと分かっているからだ。ジェラールは教育者であるせいか自ら答えを口にせず促すだけにとどめることが多い。


 ルカは懐中時計を取り出すと、金色に塗装された蓋を開いた。チクタクと規則正しい音を立てるそれを数秒見つめてからいつもの一言を口にした。


「魔術式、起動」


 革靴の下に魔法陣が浮かび上がった。正面で見ているアリスはびくりと肩を揺らした。不安げに視線をジェラールに向ける。彼は「大丈夫だよ」と優しく言い聞かせた。


「方向指定、正面。待機」


 アリスの方へ軽く腕を伸ばし目を伏せて懐中時計を見る。今まで十四時を示していた針がぐるぐると回りだし、やがて十二時の方向へと向けられた。


「あの、おじい様。今から何を……?」

「君のを見るだけだ。大丈夫、痛いことはしないから。ルカ、もう準備が整っているなら早くしておくれ」

「そう急かすなよ」


 これでも慎重に調整しているんだから、と付け加えながら、革靴をで絨毯を叩き続ける。


 魔術具は魔術発動までを省略するために作り出された道具だ。物質――――ルカは宝石を好んで使うが――――にあらかじめ魔術式を刻みこんでおくことで、ごく短い詠唱と対価で発動させることができる。


 魔力をどう巡らせるかも最初から決められているから、あまり気を遣わずに済む。ひどく不器用なルカでも魔術具を使えば人並み以上になれるのだ。


「発動――――」


 長針だけが時間の流れに逆らいゆっくりと回り始める。この懐中時計もルカが作り出した魔術具の一つだ。対象の魔力量を読み取る計測器のようなもので、分析に使われる。


「…………?」


 ルカは疑問の表情を浮かべた。時計の針はまだ動き続けている。


 魔力量は人によってばらつくものの、たいていはある範囲内に収まる。ごくたまに飛びぬけて多いのも見かけるが、それでも想像を超えることはない――――だというのに。


「……針が止まらない?」


 壊れてしまったかのように針がぐるぐると回り続けている。しかし故障などということはあり得ない。魔術具は一つ一つ丹念に整備しているのだから、ルカの腕が鈍ったということがない限り、正確に魔術式を構築しているはずだ。


「ああ、そうとも。君の実力はいつも通りで、その時計は壊れてなどいない」

「……ってことは、まさか」

「見た通りの結果だ」


 ジェラールは重々しい口調で呟く。


「アリスは特別な子なのだよ」


 ルカは背筋がぞくりとするのを感じた。自分の目の前に座る幼い少女が、化け物に見えたのだ。

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