第9話 口説かれて、契約

慎一はゴソゴソと引き出しの中を漁ると、鍵を取り出す。


「これ、スペアキー。

無くさないでね。」


「はい」


玲子は鍵を受け取るとバッグの内側のチャック付きポケットにしまう。


「あと、もうひとつ…」


玲子はそれまでの歯切れの良さが一変し、急に顔を赤らめ、小さな声で言い始める。


「あの…。

 肉体関係なのですが、心の準備がまだ完全では無いので、少し待って貰えませんか?

 当然、それまでは試用期間という事で構いませんので。」


「試用期間?

 HKLに試用期間なんてあるの?」


「あ、いえ。

 例えば、その間は、契約金額の半分だとか。

 契約解除になったら全額返金するとか。」


玲子はその場で思いついたことを並べる。


「わかった。」


「え?」


慎一は片手を上げて玲子の話を遮る。


「あのさ、いくらHKLだと言っても、嫌々肉体関係を持つのは、俺もいやだ。

 でも、君と一緒にいるのは楽しいし、好きだ。」


「慎一さん?!」


「こんな美人で可愛い人と一緒に居られることさえ、奇跡のようだよ。

 だから、そっちの方は、玲子の気持ちを尊重する。

 あと、今まで言われたことも全て尊重するよ。

 試用期間なし。

 どう?」


「慎一さんてば」


玲子は真っ赤な顔して、今にも泣き出しそうになりながら、笑顔で頷く。


「契約してください」


「もちろん。

 俺からも、お願いする。」


「よかったぁ。

 じゃあ、早速今から。」


玲子は腕まくりして立ち上がろうとする。


「ちょ、ちょっと待って。

 まだ、決める事があるだろう。」


「?」


玲子は何事かと言うような顔をする。


「契約金額を決めていないだろ」


「それなら世間の相場でいいです。」


「HKLに世間の相場はないよ。」


「え?

 そうですか…。」


あからさまに面倒くさがっているように見える玲子を慎一は不思議だった。


(HKLって、お金を稼ぐ為にやるのではないのかなぁ?

 それなのに、この子は、お金に執着がないみたい。

 そもそも、良い家のお嬢様が何でHKLをやるんだ?

 なにはさておき、相場はいくら位なんだろう。

 玲奈の奴に聞いておけば良かったな。

 時給1,000円で8時間?

 コンビニのバイトだって、それ以上か。

 時給2,000円で8時間。

 月4回で6万4,000円

 5回ある月は、8万円?!

 それは厳しいぞ。

 ガンプラも買えなくなるし、ケーキやお菓子を我慢しなくちゃ。

 コンサートも近場だけにして。

 そうだ、財形も半分にして、足りない分は、ボーナス。

 よし、これならいけるぞ)


「慎一さん?」


押し黙って難しそうな顔をして考え込んでいる慎一に、玲子は心配そうに声をかける。


玲子は慎一が月にいくら給料を貰っているかわからなかったが、生活振りから、そんなに貰っているとは、思えなかった。


(きっと、いくらにしようか、考えこんでいるのね。

 私、1万でも2万でも良いのだけど、それだと安い女と思われちゃうかしら。

 じゃあ、日曜日が月平均4回として、1日1万なら安く見られないで、いいかしら)


玲子はアルバイトをした経験がないので、そういう部分は、疎かった。


「契約金だけど、月8万でどう?」


(乃木坂のコンサートに行けなくても、超アイドル級のレイレイと握手が出来るなら悔いはない)


慎一は意を決したように口を開く。


「そんなに?

 慎一さん.4万円でどうですか?」


「え?

 月4万でレイレイと毎週出来るの?」


「な?!

 レイレイ?

 しかも、出来るですって?」


(なんていう人!

 レイレイはさて置いて、"出来る"ですって?

 私の意思を尊重するって言った矢先に、私の体が目当てなんだわ。

 この話、やっぱりやめよう!)


玲子は怒りで顔を赤く染める。


「ああ、握手が出来るってこと。」


「え?」


玲子はあまりのことで拍子抜けし、壁の方を見ると、壁に貼ってある乃木坂のポスターに写っているメンバーの笑顔が見えた。


「握手会のこと?

 やっぱりオタクの考えることは、わからないわ」


「あの、玲子さん。

 独り言、しっかり聞こえているのですが…」


「あ!」


しばらく、二人は気まずそうにしていたが、どちらともなく笑い始め、とりあえずその場を繕うことに成功する。


「でも、4万じゃ安いのではないか?」


慎一が真顔で尋ねる。


「そもそも、何でHKLをする気になったの?

 お金を得るためじゃないの?」


今更ながらに慎一が玲子に尋ねる。


「慎一さん、その話は内緒。

 女は、秘密を着飾って美しくなるのよ。」


(わっ、言っちゃった。

 ベルモットのセリフ、一度言って見たかったんだ。

 上手く言えたかしら)


玲子は慎一の方を見て確認すると、慎一は感動したような顔をして、何度も頷いていた。


(ほんと、オタクは素直なのね。)


「それと、正式な雇用関係じゃなくて、慎一さんからいただくお金は、贈与にあたります。

 あまり高額だと、贈与税が絡んできて、面倒になるので、この金額で契約させてくださいね。」


「う、うん」


慎一はわかったような、わからないような顔をしたが、玲子が望むなら、そのまま押し切られることにした。


「あと、お金は一カ月の活動費と言うことで月末に次月分ということでくださいね。

 なので、今月末に来月分先渡しという形でお願いします。」


「活動費?

 必要なものは、俺が出すよ。」


「はーい。

 でも、目に付いた時に買ったりしたいので、それは、後で精算させて頂きます。」


「う、うん」


「あと、何かありますか?

 細かなことは、やりながら決めていきましょう。」


「あ、あのさ。」


「?」


「本当に俺でいいの?」


慎一は真顔で尋ねる。


「じゃあ、慎一さんは、私でいいのですか?」


「と、当然だろ。」


「ならば、私も当然ですが。」


ニコッと笑う玲子に慎一は両手を上げて降伏する。


「さてさて、じゃあ始めましょう。」


「え?

 今から?」


「当然です。

 今日の報酬は、帰りに横浜で美味しいサンデーをお願いしても、いいですか?」


玲子にアヒル口でねだられ、慎一は迷うことなく頷いて見せる。


それから夕方近くに横浜駅近くのパーラーの中に玲子と慎一の姿があった。


「すっかり、遅くなっちゃいましたね。」


玲子は美味しそうにフルーツのたくさん乗っているサンデーを食べていた。


「夕飯でも良かったのに。」


「ごめんなさい。

 母が家で待っているので、夕飯は家に帰ってから食べます。」


「それにしても凄かったなぁ。

 怒涛の半日だった。

 菓子パン買い置きしておいて良かったよ。」


HKLの契約を結ぶと、玲子は待ってましたと言わんばかりに、昼食も忘れるほど慎一の部屋の中を隅々までチェックしていた。


「何を言っているのですか。

 菓子パンだって賞味期限昨日までだったじゃないですか。

 私、そういうバンを初めて食べましたよ。

 菓子パンの袋だって、マヨネーズやチーズが付いたまま縛らずにゴミ箱にポイですもの。

 腐って部屋の中、変な臭いがしていたじゃないですか。

 ちゃんと縛って、更にビニール袋に入れて縛って捨てないとだめです。

 そもそも、賞味期限の切れたパンをなぜ置いておくのですか?

 きちんとその日食べる分だけ買わないとダメですよ。」


「はい。」


「食べ物は賞味期限を過ぎないように処分しないと。

 あのお米、買ってから1年以上経っているとは思わなかったです。

 てっきり五穀米かと思っちゃいました。」


「確か妹がいた時だから2年以上前かなぁ。」


バン!


玲子が両手でテーブルを叩く。


「それから一度でも自炊をしなかったんですよね。

 冷蔵庫の中のもので、使っていなかったお味噌とか訳のわからなくなっている物は、きちんと捨てておいてください。

 わかりますよね。

 私が袋に入れたもの全てですからね。」


「は、はい、」


「お布団やシーツも小まめに洗って、お布団が干せないなら、布団乾燥機を使って。

 あんなお布団の上じゃ、私、嫌ですからね。」


「は?!」


「あわわ…」


玲子はとんでもない事を口走ったと、真っ赤になって俯く。


そして上目使いに慎一を見る。


「本当に清潔にしてください。

 そうじゃないと具合が悪くなっちゃいますよ。」


「はい。」


今にも泣き出しそうになる玲子を見て、慎一は体を小さくする。


その他にも、妹が出て行ってから開かずの間になっている部屋を開け、卒倒しそうになつたり、押し入れを開け、唖然としたり、玲子には、試練と思える半日だった。


しかし、玲子は何故か、慎一を何とかしたいという闘志のようなものが湧いていた。


慎一の方は玲子にいろいろ言われたが、自分のことを親身になって世話を焼こうとする玲子を見て何となく嬉しくて仕方なかった。


(こんな可愛い子が世話を焼いてくれるなんて、俺はなんて幸せなんだろ)


玲子と別れて家に帰った慎一は、一週間後にまた玲子に会えると考えると、ワクワクしてとまらなかった。

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