第8話 その女、その名も母性本能

日曜日。


その日も朝から良い天気で、季節の割には暖かく花粉症の人間には最悪の天気だった。


朝の9時。


慎一は最寄りの相鉄線の駅改札口で玲子を待っていた。



「9時?

 早くない?」


驚いた顔で慎一は玲子の顔を覗き込む。


「あら、そうですか?

 大学の一限目の方が早いですけど。」


玲子はさらりと受け流す。


玲子としては、慎一に朝一で掃除をする隙を与えないようにと考えた時間だった。


しかも、前日はきっと日曜日に朝早く起きて掃除すればいいだろと思い、掃除をしないはずという予想を立て、慎一は玲子の予想通り、前日はゴロゴロして過ごしていた。



慎一は、玲子が駅に着いたら連絡を入れるといったのにも関わらず、待ち合わせの時間の30分前から改札口で玲子を待っていた。


「もう、これじゃ待ち合わせの意味ないじゃない。」


電車を降り、改札口に慎一を見つけた玲子は苦笑いしながら、慎一に走り寄った。


その言葉とは裏腹に慎一が待っていてくれないかなと期待していたので、慎一を見つけた瞬間、嬉しくて仕方なかった。


「ちゃんと、普段通りの部屋になっていますか?」


玲子は挨拶も漫ろに、慎一に尋ねる。


「ああ、いつも通りだよ。

 俺って、意外と綺麗好きだから掃除するところはないよ。」


「本当ですか?」


慎一は玲子にウィンクして見せる。


「相鉄線の乗り換え、すぐにわかった?」


「ええ。

 私が通っている大学は三ツ沢にあって、横浜駅で市営地下鉄に乗り換えているで、横浜駅はよく知っています。

 だから、相鉄線の乗り口も知っていました。」


「そうか…。

 え?

 じゃあ、女子大生じゃないじゃない?」


「はあ?

 並木さん、まさか女子大生って、女子大の生徒だと思っていたんですか?」


「い、いや、そんなこつない。

 そうそう、女子大学生のこと、女子の大学生のことだもんね。」


(この人、絶対に勘違いしていたな。)


慌てて取り繕う慎一を見て、玲子は思わず吹き出しそういた。


慎一の住んでいるマンションは、駅から歩いて7、8分のところにある、築20年とは感じさせない綺麗な賃貸マンションだった。


マンションは5階立てで慎一の住んでいるところは3階だった。


マンションのエントランスを入るとすぐに管理人室があるが、通いでかつ、休日は休みの為、玲子が訪ねた日はブラインドが降りていた。


管理人室を通るとすぐにエレベーターがあり、二人はエレベーターに乗り込む。


玲子にとって、男のマンションにひとりで訪れるのも、マンション自体、中に入るのは初めで、エレベーターの中で緊張していた。


「大丈夫?

 こういうところに来るのは、初めてかな?」


慎一は、緊張で顔を強張らせている玲子を心配そうに覗き込む。


「う、うん」


尚も不安そうな二人を乗せたエレベーターが3階でとまり、ドアが開くと太陽の光で明るい廊下が目の前にあった。


「マンションの中に入るの初めてかな?」


「はい。

 お友達もマンション住まいの子がいなくて。」


「え〜?!

 だって大学生だろ?

 地方から状況して来る子は男女問わず、いるだろうに。」


「そうですね。

 たまたまかしら。」


「ひょっとして、お嬢様オーラが寄せ付けなかったりして」


「なっ!?

 何ですって!」


「でたな、お嬢様ビーム!

 ぐわぁ、やられた…」


「馬鹿みたいに」


ひとり戯けて見せる慎一に、玲子は自分の緊張を解そうとしていることが手に取るようにわかり、表情を緩める。


二人はふざけながら廊下の端まで歩いて行く。


慎一の部屋は角部屋だった。


「さあ、とうぞ」


慎一は鍵を開け、ドアを開けると、玲子に入る様に勧める。


「おじゃましま〜す。」


慎一に挨拶したが目線は既に室内を向いていた。


「玄関は、通勤用の革靴が一足。

 下駄箱の中は…、空?

 ううん、ビーチサンダルと下駄?

 今時、下駄?

 あとは、ビニール傘が数本…1本、2本、3本、4本。

 壊れているのが2本。

 捨てないのかしら…」


「もしもーし、嵯峨野君。

 声が漏れているし、チェックは後にして、一度中に入らないかなぁ。

 俺が入れないから。」


「あ、え?

 ごめんなさい、ちょっと夢中になってしまい。」


玲子は大慌てで靴を脱ぎ、玄関に上がる。


廊下には、部屋のドア、トイレのドア、洗濯機の置き場の扉があり、リビングに通じる中扉を開けると、キッチン、リビング、リビングに面している開戸のような扉を開けると和室の部屋が一部屋、そして洗面所の扉でその奥に風呂場と、2LDKの一般的な間取りだつた。


「そこに座って。

 今、飲み物でもだすから。

 コーヒーでいい?

 インスタントだけど。」


「はい」


玲子は勧められるようにリビングのテーブルの椅子に腰掛け、改めて、周りを見渡す。


男のひとり暮らしの割には片付いているように見えたが、玲子の目には悪の巣窟のように移り、ジャンヌダルクになったようにムラムラと闘志が湧いてくるのを感じた。


「はい、コーヒーが入ったよ。

 あと、お茶菓子で昨日買ったクッキーがあるから、どうぞ」


出されたコーヒーカップは花柄の可愛らしいカップだった。


「この可愛いカップは?」


「それは妹がここにいた時に使っていた物だよ。

 良く洗ってあるから大丈夫。」


「どうりで並木さんの趣味じゃないなと思って。

 以前、妹さんと一緒に暮らしていたんですよね?」


「ああ、そうだけど?」


「いつまで、ここで一緒に暮らしていたのですか?」


「あいつが卒業するまでだから、まる2年くらいたつかな。」


「そうなんですか…」


ふとゴミ箱に目をやると惣菜パンのマヨネーズのような物がついたまま無造作にパンの包み紙が捨ててある。


「今朝、なにを食べました?」


「え?

 菓子パンだけど、それがどうしたの?」


怪訝そうな顔をする慎一を後目に、玲子はベランダを見て何が無いのに気がついた。


「並木さん、洗濯物はいつもどうしていますか?」


「洗濯物?

 クリーニングだけど?」


「いえいえ、パンツやシャツはクリーニングに出さないでしょ?」


「ああ、パンツとかは洗濯機で洗ったあと、乾燥機で乾かすよ。」


「布団干しやシーツやカバーの洗濯は?」


「布団って干すの?

 そういえば妹がいた時、干して、シーツとか洗っていたな…」


玲子は、猛烈に目眩を感じたと同時に玲子の母性本能を激しく揺さぶる。


(だめだ、この人は、私がついていないと。

 ご飯は、外でなにかを買ってきて終わらせているんでしょうね。

 洗濯物は乾かした後、どうせ押入れに突っ込んで終わりね。

 掃除も目に見える範囲で適当で四角とかやっていないわ。

 そもそも、衛生観念や身だしなみ、健康管理などの意識がまるで無さそう。

 もう!)


玲子の考えた慎一のことは、実際、全て当たっていた。


「そんなに怖い顔して、どうしたの?」


慎一が呑気な顔をして、玲子の前に腰かける。


玲子の中で、慎一は優しく、面白く、そばに居て居心地が良く、こころが惹かれる存在に育っていたところに、母性本能が強い玲子の母性が激しく揺さぶられ、玲子は慎一とのHKLを決めていた。


「慎一さん」


「はい。」


(え?

 今、慎一って言ったぞ。)


苗字ではなく、名前を呼ばれ、慎一は驚いて玲子を見ると、玲子は真面目な顔をして慎一を見ていた。


「慎一さん」


「は、はい」


2度も名前で呼ばれて、慎一は少し舞い上がっていた。


「HKLの話をしませんか?」


「いいけど、確認は出来たの?

 この前、家の中で確認したいことがあるって言っていたけど。」


「はい、確認できました。」


(ヤベェ、ガンプラ見て呆れたかな)


「人の趣味にとやかく言う気は毛頭ありません。

 ましては、可愛い趣味ならば尚更です。」


(ガンプラ、可愛いのかな、って)


「ひょっとして、俺の心の中を読んだ?」


「え?

 何のことですか?

 私、変な趣味があったら考えさせてくださいと言ったつもりです。」


「変な趣味って?」


まだ、ガンプラにこだわる慎一だった。


「法律に反することとか、人としてどうかと言うことです。」


「じゃあ、ガンプラは?」


玲子は初めて気がついたように、ところ狭しと置かれているガンプラを見て、ため息を吐く。


「たくさんありますね。

 でも、私もガンダム好きですから。

 ただ、飾る場所は少し考えましょうね。」


玲子は床にまで並んでいるガンプラを見て苦笑いをする。


「ふう、よかった。」


「それより、慎一さんは私とHKLをする気がありますか?

私の体だけじゃなくて。」


「ああ、もちろん。

 もちろん、気があるよ。

 こんな可愛い子が一緒にいてくれるなんて、夢のようだから。」


「まぁ。」


玲子はおだてられ、恥ずかしそうな顔をする。


「でも、一緒にいるだけじゃないですからね。

 ちゃんと家事をして、慎一さんの面倒を見るのですからね。」


慎一は、玲子の言う面倒を見るという意味がわからなかったが、頷いて見せる。


(私と釣り合う人になってもらうんですからね。)


玲子は慎一に聞こえないように心の中で思った。


「じゃあ、お願いがあります。」


「ん?」


「私が言うことを、年下の女がと、ばかにしないで聞いてくれますか?」


「ああ、もちろん」


「納得したら、協力して直してくれますか?」


「え?」


「私が慎一さんに良かれと思って言うことを、その場限りにしないで、私がいない時でも、ちゃんと実践してくれますかということです。」


「無理なことは、無理と言っていいかな?」


「当然です。

 慎一さんも、私に注文付けてくださいね。

 ただし、私も無理なことは無理といいますから。

 それと、嵯峨野と呼ばずに玲子と呼んでください。」


「わかった。

 れ、玲子さん。」


女性の名前を呼び捨てで呼ぶのは家族以外で言った事がないなで、慎一は戸惑っていた。


「玲子さんじゃなくて、玲子でいいです。

その方が親しみが湧きます。」


「そうかな…

 親しみを湧かすなら、レイちゃんとか、レイレイとか。」


「玲子でいいです。」


「はい、わかりました。」


玲子にビシっと言われ、慎一は姿勢を正す。


それを見て玲子は笑みをもらす。


「あと、基本的に日曜日だけでいいですか?

 父が入院しているので土日のどちらかは病院に行かなくちゃならないので。」


「ああ、構わないよ。」


「ありがとうございます。

 それと平日も時間があれば、自由にここに寄って良いですか?」


「良いです。

 金目の物は一切ないから、好きに使って。」


「随分な言い方ですね。

 まるで私が物取りみたいな言い方。」


ムッとした顔をする玲子。


「ごめん、ごめん。

 そんなつもりは毛頭ないから。」


「本当?」


「本当だよ。

 でも、なんで?」


「いえ、何か困っていないかなと思って。

 目を離して変なものを食べていないか、チェックです。」


「はいはい」


慎一は、何だかむずがゆかったが、玲子に世話を焼いてもらえいると思うと、悪い気はしなかった。

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