第3話 恋物語の開幕
並木慎一は、2LDKの賃貸マンションに一人暮らし。
当初、横浜近郊の大学に通っていた妹が、サークルなどで帰るのが遅くなった時に、泊まれるようにと、妹に頼まれて2LDKの今のマンションを借りたが、妹は卒業して埼玉県の会社に就職したため、一人暮らしになっていた。
場所は、横浜駅から相鉄線で2駅ほど、駅からは徒歩圏内に位置していた。
そこから慎一は川崎にある会社に通っていたが、のんびりとした性格なのか、妹が居なくなっても、川崎に引っ越すことは全く考えていなかった。
同僚に何故会社の近くの川崎に引っ越さないのかと聞かれたことがあったが、慎一は、何となく横浜が好きだからと答えるだけだった。
次の日曜日。
朝からいい天気で、季節外れの暖かい日だった
慎一は玲子と待ち合わせのパーラーに、1時間前に来て座っていた。
「本気か?!」
電話の後、玲奈から玲子の写真が届き、期待に胸を膨らましていた慎一は、その期待を遥かに超え、慎一にとってはまるで女神の美しく微笑んでいる玲子の顔を見て、息を飲む。
「天使か?
いいや、女神か?
一億人にひとりの美少女ではないのか?
こんな娘が、俺に会いたいって?
信じられない。
この俺に?
信じられるわけがない。
何かの勧誘か?
会っていきなり握手券付きCDを買えとか?
いや、ほんじゃらまか教に一緒に入れとか。
でも、こんな美人で清楚な娘がそんなことはしないよな。
いや、油断をさせて。
いや、絶対にしない。
されても許す。
もし、ノルマで困っているなら、喜んでCDの一枚や二枚、買ってあげる。
絶対に助けるさ。」
勝手に盛り上がった慎一だった。
当日の服装は、新品の紺色のジャケット、クリーム色のブラウス、グレーのズボンというありがちな格好だったが、本人としては精一杯のお洒落のつもりだった。
髪は前の日に床屋に行き綺麗に整え、七三分けにして、いつもはつけない有名化粧品会社のヘアリキッドを付け、慣れないヘアスプレーで固め、髭も念入りに剃り、スキンコンディショナーではなく、ヘアトニックと同じ有名化粧品会社のアフターシェービングローションをつけていた。
当然、ヘアトニックもアフターシェービングローションもこの日のために買ったもので、いつもは何もつけていなかった。
ついでに男性用のオーデコロンも生まれて初めて買って付けてみた。
“まあ、これだけやれば、身だしなみは大丈夫だろう”と本人としては精一杯のことをしたつもりだった。
玲子を待つ間、何を話そうかと考えたが、考えれば考えるほど、何も思いつかず、汗が滲む。
ハンカチで汗を拭こうとポケットを探ったが入れ忘れていた。
「そう言えば、いつもはハンドタオルなんだけど、今日はハンカチをと思い、両方とも忘れたのか。
まあ、無くても何とかごまかせるかな。」
そう思いながらテーブルにあるペーパーナプキンを1枚取ると額の汗を拭く。
「ご注文はお決まりですか?」
アルバイトの学生と思われるウェイトレスが慎一の座っているテーブルに来て、水の入ったコップを前に置く。
「あ、ブレンドを一つ。」
「はい、ブレンドコーヒーを一つですね。
他にご注文はございますか?」
「いや、まずはそれだけで。
えーと、あとで連れが来るから、そうしたらまた水と注文をお願いね。」
「はい、わかりました。
では、お連れ様がいらしたらお呼びください」
ウェイトレスは慎一に微笑むとお辞儀して戻って行く。
「へぇ、アルバイトさんなのに、受け答えがしっかりしているな。
あんなに若くて可愛いのに、この店のマニュアルはしっかりしているんだな。」
妙に感心する慎一だった。
それから、慎一は時間を持て余し、スマートフォンで情報サイトを検索したり、ゲームをしたりして時間をつぶす。
何度かウェイトレスが水のお代わりを運んで来る。
ウェイトレスは、明らかに慎一が気になっているようだった。
(あのお客さん、デートで彼女にすっぽかされたのかしら。
人は良さそうなのに)
水のお代わりを運ぶ度に"すみません"とだんだんと小さな声になっていく慎一が可哀想に思えてきた。
それからしばらくして、待ち合わせの時間の15分位前に玲子が店の入口に姿を見せる。
心なしか、店にいる客や従業員の視線が入口の方に向いた気がして、慎一も入口の方に目をやると、店の中をキョロキョロと見回している玲子が見えた。
玲子はクリーム色のコートを手に掛け白地に明るい花柄の入ったワンピースにピンク系のカーディガンを羽織るという余所行きの格好で、それが一段とその容姿を引き立て、まるで芸能人かアイドルさながらの華やかさだった。
店内に足を踏み入れた玲子は、コートを掛けている手に写真を持ち、明らかに慎一を探しているようだった。
「うわー、やっぱり凄く可愛い
どのグループでもセンターになること、間違いなしだ。」
慎一は、玲子を呆然と見ながら腰を浮かすと、玲子は目ざとく慎一を見つけ、笑顔で小さく手を振る。
その途端、店内の視線が全て慎一に集まった気がして、慎一は気恥ずかしさと、玲子を独り占めできるという優越感を覚えた。
玲子は他の視線は全く感じていないのか、ニコニコと微笑みながら慎一のテーブルにやってくる。
慎一は近づいて来る玲子がまるで女神のように玲子の周りだけ明るく花の香りがするような気がした。
「並木さん?
並木さんですよね?」
玲子は慎一の顔を見て、確認する。
玲子の声は、慎一が想像したとおり、可愛らしい声で、慎一の緊張は一気に高まり、震えるように頷く。
「よかったぁ。
私、嵯峨野玲子です。
はじめまして。」
玲子は笑顔を絶やさずに、挨拶し頭を下げる。
「あ、俺…
僕…
私が、並木慎一です。
は、はじめまして」
慎一は自分の声が上ずっていることを感じ、更に緊張で身も心も緊張でガチガチになって、玲子に席に座るように勧めるのがやっとだった。
(あら、この人、緊張している。)
慎一は一瞬でその精神状態を玲子に悟られていた。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
玲子は手に掛けていたコートとバッグを横の椅子に置き、腰を下ろす。
慎一は玲子の方から微かに花のような甘い香りを感じる。
あらためて顔を見ると綺麗に化粧をしていたが気にならない程度の薄化粧で、化粧なしでも十分な美しさだった。
玲子は、慎一のファイルに書かれていた“化粧なし”という注文に、どうしようかと考えたが、女性の身だしなみから目立たたないように薄く化粧をしてきた。
「ずいぶんとお待たせしてしまったようで、申し訳ございません。」
「え?」
玲子は、慎一の前のコーヒーカップが空になっているのと、水の入ったグラスのまわりに水滴が付いておらず、かつ、コップの下に水溜りのように濡れているのを見て、少なくとも20分以上は待っていたと推測した。
「い、いや、俺、いや、私も今来たところであります。」
「そうなのですか。
良かったぁ。」
ほっとした顔を見せる玲子を慎一は心底可愛いと思った。
(あらあら、"あります"って…
この人、普段は自分からこと"俺"って言っているのね)
玲子は冷静に慎一を観察していた。
「あ、の…」
「はい?」
(うっ、何の話題を)
慎一が何かを言い掛けたが、玲子の笑顔に固まり、そのまま、重苦しい沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、慎一の接客をしていたウェイトレスだった。
「失礼します。
お水をお持ちしました。
ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください。」
そう言ってウェイトレスは、玲子の前に水の入ったグラスを置き、慎一には、古いグラスを下げ、代わりに水の入った新しいグラスを置き、お辞儀をすると慎一に何かを言いたそうな顔をして下がっていった。
(良かったですね、素敵な彼女が来てくれて。
頑張ってくださいね。)
ウェイトレスの中では慎一の恋物語がハッピーエンドに向かっていた。
玲子はウェイトレスから感じた慎一に対する友好的な雰囲気に少し慎一に興味を持った。
「嵯峨野さん、メニュー…」
慎一がメニューを玲子に渡そうと持ち上げた時、メニューの角に水の入ったグラスが当たり倒れて中の水が玲子に襲い掛かって行く。
「やっべー!」
声よりさきに慎一の体が動き、前のめりになりながらメニューを持っていない腕の肘から先を流れて行く水と玲子の間に防波堤さながらにテーブルに押しつけ水の流れを防ぐ。
「だ、大丈夫ですか?」
「俺のことより、君は大丈夫?
水はかかっていない?」
慎一の素早い動きで、玲子には被害はなかった。
「私は大丈夫です。
それより、並木さんの方が、ジャケットが濡れてしまっています。」
玲子はバッグから花柄のハンカチを取り出し、慎一に渡そうとする。
「大丈夫だよ」
(あ、今日はハンドタオルも、ハンカチも持ってきていなかったんだ。)
慎一は仕方なく、テーブルの上のペーパーナプキンに手を伸ばす。
「お客様、大丈夫ですか?」
騒ぎを聞きつけ、ウェイトレスがタオルのようなものを持って駆けつけてくる。
「あ、ありがとう」
済まなそうに受取る慎一。
(お客様、頑張って)
ウェイトレスの中の『慎一恋物語』は第二章に突入した様だった。
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