03 白の世界
ふわふわとした感覚に眉をひそめ、黒瀬は目を開けた。するとどういうことだろうか。
先ほどまであの森にいたというのに、目の前は真っ白だ。
何が起こったのか、全く覚えがない。
おそらく戦闘機を乗り回す空軍兵士でも、この景色は知らないだろう。それほどまでに、どこもかしこも白い世界だった。
――――私は……、祖国に帰ってきて……それで。
痛む頭を抑えて、今までの記憶を辿る。
森で偶然大森静子と出会い、赤子の正体を知り、その儚い美しさに魅了されて成り行きでともに暮らし…………、ついにあの瞬間を迎えたのだった。
――――衝撃による信管の鳴動、そして起爆。
その事実とともに、赤い記憶が黒瀬の脳裏をよぎる。
大森が手を滑らせ、光子を取り落としたのだ。本当になんの予兆もない、不意のできごと。
黒瀬は、それを見て手を伸ばしてしまった。
一瞬、不発弾を光子と錯覚したのは、共に過ごした日々が少なからずあったからだろう。
手を伸ばして爆撃の範囲内に入ってしまったのは、それほどに、黒瀬と大森の距離が狭かったからだ。少なくとも、出会った当初なら、そこまで肉薄とした距離にはいなかった。
これは全て、大森静子という女の腕中に囚われた者の末路だ。
それでも、不思議と悔いはなかった。人間は死ぬのも生まれるのも唐突だ。
最期に一人残されなかっただけでも、救いというべきか。
黒瀬は、人の死にある種の諦観を感じていた。それほどに、彼の人生は激動であった。
だが――、と。
どこからか奇妙な感情が胸に溢れてきた。思考中枢のある頭ではない。胸が痛い。もう死んでいるはずなのに……。黒瀬は気づかぬうちに、涙を流した。
「ねんねんころりよ
おころりよ」
「……ぇ」
もはや懐かしいような歌声。けぶる視界を拭いながら顔を上げると、白い景色の中に流れる漆黒の波。人間の赤子を抱いた一人の女だった。しかしその胸を中心とした前面は焼け爛れ、その細面にも赤が散っている。
おそらく、そこまでのやけどを負った地点で命尽きたのだろう。全身に火傷を負い、地を這って野垂れ死にするよりはまだましであったのだろうが、その痛々しさは変わらない。
「し、静子さん……!」
驚いた黒瀬の声が聞こえたのか、はたまた偶然か。静子が振り返る。その姿は、昔見た見返り美人図。
「悠馬さん、あなたもでしたか」
「ええ、あんなにも近くに居ましたから。一緒に死んでしまいました」
「ふふふ、まだ数週間の仲ですのに、本当に仲良しさんになってしまいましたね」
「本当です。しかし、貴女となら光栄ですよ」
「私も貴方も出会う前は伴侶がいた身ですのに。罪深いお方」
「その彼女も死んでしまいましたからね……。でも、きっと許してくれますよ」
「そうですね、うちの人も本当に優しいお方でしたから……きっと」
二人合わせてふっと笑った。こんなにも多くを語ったのは久しぶりだ。
両者ともに、この戦争が続いた時代を生きた者の一人である。その過程で最愛の家族を亡くした二人の胸中が同じであっても、何ら不思議はないだろう。
この穏やかな語りをどこか懐かしく思いながら、両者は口を閉じた。
ぼんやりとお互いを見つめる。
穏やかな時間。今から三途の川を渡らなければならないというのに……、なんて静まり返った心なのだろうか。
ふわりと、風が流れた。
大森の後ろに誰かが現れる。片腕を失った軍服姿の青年。こちらに背を向けながらも、静子の傍らに寄り添って居る。
その現象と
「「嗚呼、こんなところにいたのですか」」
懐かしさ、悲しみ、後ろめたさが、二人の心をめぐる。
しかし、乗せられたのは温かい手で……。二人の左肩に乗せられた伴侶の右手は、無言で無限の愛を伝える。
涙が零れた。互いがかつて永遠に寄り添うと決めた伴侶に手を伸ばし、その両手は空を切る。一瞬の出来事だったのだ。その一瞬で、二人の愛は二人に認められた。そう悟ることができた。
好き。二人が好き。そんな言葉が喉につっかえて、嗚咽を漏らした。大森は光子を抱いたまま、黒瀬はガタガタと震える己が身をかき抱いて、吐くように呻いた。
会いたかった。愛たかった。
寄り添いたかった。寄り添えなかった。
今許された二人の第二の恋路。
足を蹴りだす、片割れを求めて。
必死に掴んだ、もう離さないと誓って。
「「さぁ、行きましょうか」」
三文銭は持っていない。しかし、たとえ川を自力で渡れと言われても、二人ならば大丈夫だ。
次に愛し合うときがあれば、戦争のない時代に。
ぎゅっと互いの手を握り、二人が白い世界を後にした。
大森さんちの子守 紫蛇 ノア @noanasubi
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