02 大森さんちの悲しいできごと

 大戦において空襲を受けた市街地で最近よく発見されるそれは、地に落ちてなおも信管に衝撃が伝わらず、爆発することのなかった言わば不良品である。

 しかし不良品といっても、信管や爆薬が健在であれば爆発する可能性は十二分にあり、女が胸に抱きかかえている地点で安全とは言えない。

 しかし、その不発弾を我が子だと見せてくる大森の目は曇りなく、本当にそう信じ込んでいるようだった。

 ゆえに、黒瀬は言葉を飲み込んだのだ。


「可愛らしい、お子さんですね」


 黒瀬は代わりにそう言葉を発した。

 彼女は黒瀬と同じく戦争で多大なるショック受け、不発弾を我が子だと誤認しているのだ。悲しいがこれが現実だ。一度精神を壊した人間は、なにをするか分かったものではない。

 黒瀬は自分のことを棚に上げてそう思考する。

 その証拠を示すかのように、大森は静かに笑んで、そうでしょうと呟く。

 その安らかな笑顔は黒瀬の心を鷲掴みにした。

 駄目だ、ここに居ては、と心臓が早鐘のように鳴り響く。元から気づいていたはずだったその妖艶さは、既婚者であった黒瀬の心をいつの間にか咥え込もうとしていた。

 彼女の一挙手一投足が男の庇護欲をかきたてた。

 今までどこで死のうかと考えていた人間のものを、である。


「あの、もしよろしければ」


 焦りが募る。顔が近い。声が迫る。

 その両手には赤子の大きさを模倣する一つの不発弾。


「この子を、抱いてみませんか?」


 極めつけは、その柔らかな微笑みだった。

 がっちりと、その大きな顎が開いて閉じる。その口内に哀れな男を捕らえて。




「静子さん、ただいま戻りました」


 いつしか黒瀬は大森のそばでともに暮らすようになっていた。

 大森が安心して光子を抱いていられるように、身の回りの世話をし始めたのだ。そして今は、そのクマのような体格を生かし、高木に成る果物を収穫してきたばかりであった。


「おかえりなさい、悠馬さん」


 大森は黒瀬に返事を返しながら、岩場に作られた簡易的な台所で火にかけられた鍋の中身をぐるりと回し、蓋を閉めた。

 中身は、黒瀬が国民としての配給は貰えるようにと、旧住所を登録し、手に入れた配給切符で貰ってきた物資と、黒瀬が森で採って来た収穫物や魚類である。

 ちらりと振り向いた大森の横顔に魅了されながら、亡き妻を思い出しながら、黒瀬は両手に持った林檎を見せつける。

 大森はそんな黒瀬の姿を満足気に笑いながら、岩場の一番涼しい割れ目を開けた。


「夕食の後に、食べましょう」


 そう、声を弾ませながら。

 その言葉に、黒瀬はああ、と頷いた。

 くるりと身を翻し、舞うように台所へと戻っていく大森。

 黒瀬は漂う香りに腹を空かせ、テーブルにつく。配給で配られた米が目の前に置かれ、ついでほぐされた魚の身がこれでもかと入っている味噌汁が置かれる。

 米の少なさが無ければ、まるで戦前のような豪華さである。

 黒瀬は山の恵みに感謝しながら、しみじみと口を開く。


「妻もよく、戦前はこのように美味しいものを作ってくれました……」


 汁を一口。温かい出汁が、体に染み渡るように喉を通っていく。黒瀬は食べる幸せを毎日噛み締めて大森の作った飯を食う。しかし、妻の話を持ち出したのは、これで初めてであった。

 今まで避けていたのだが、つい口をついて出てしまったのである。

 黒瀬はしまった、と口を慌てて閉ざすと、大森は気にした風もなく、ふふふと笑った。


「私にも、戦前は周りに家族がいました……。今はもう、光子しか居ませんが……」


 昔の思い出に浸るように、とろんと落ちた瞳を天に向け、大森はゆったりとした口調でそう言った。

 ここ数日、大森と共に暮らしてはいたが、光子こと、その胸に抱かれる不発弾を見慣れることなどできやしなかった。

 黒瀬の視界で光子の体が傾く。大森が抱き直したのだ。


「一度目の大戦では夫が徴兵で借り出され、帰らぬ人となりました。そして、父と母が買い物に行ったきり空襲にあって逃げ遅れたようです。

 そして、三度目の大戦では元太郎と照子が目の前で焼夷弾の雨に撃たれて焼け死に……、私は、……光子を抱いたまま逃げざるを得ませんでした……」


 そのすぐあと、爆風で吹き飛ばされ、転んだその衝撃で光子は反応を返さなくなってしまったらしい。おそらく、その瞬間に不発弾と入れ替わったのだろうが……。おそらく光子は、もうこの世にはいまい。

 俺も同じようなものです、と黒瀬はぽつりと語った。

 同じように焼夷弾に撃たれ、苦悶の表情を浮かべて死んでいった家族の顔が目に浮かぶ。実際に見た訳でもないのに、こうもありありと浮かぶのは、あの戦場の地で次々と倒れていった仲間たちと無意識に重ねているのだろう。


「あなたもだったのね、悠馬さん」


 ふと名前を呼ばれて黒瀬は顔を上げる。

 ふわりと香る甘い匂い。温かな母なる温もり。人の体温だ。

 黒瀬はいつの間にかその両腕に囚われていた。光子とともにその腕に抱かれて、寒気を覚えたが、それもすぐに溶かされてしまう。


「優しい人……」


 愛おしいとまで感じた。

 どうしてだろう、私には愛する妻がいたというのに……。黒瀬はかき集めた理性でそう考える。

 その理性までかき消すように、大森は子守唄を口ずさむ。体と一緒に心まで揺さぶられる。

 黒瀬を咥えた美しき獣は、そのままゆっくりと嚥下した。

 の冷たさまでもが、暖かく感じられるほどに、深く深く、ただ深く。

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