大森さんちの子守

紫蛇 ノア

01 森に響く子守唄

 チチチッ。

 母鹿に連れられた小鹿が、興味深げにこちらを眺め、男を見つけて母とともに逃げ去っていったのが見えた。

 とてものどかな、森らしい森である。たまに聞こえるのは、小鳥のさえずりと、動物たちが草を食む音、一人の男が葉を踏みしめて歩く足音。

 そう、男が森の中を歩いていた。何のあてもなく、ただ足を動かし気の向くままに。

 言葉にすれば、彼が何も考えず、自由気ままにのびのびと歩いているような感覚であるが、実際そうではない。彼はただただ絶望に打ちひしがれたように肩を落とし、森を彷徨っていた。

 のどかな自然美し森には似つかわしい重い重い空気。しかし、そんな男以外にも暗い空気を纏ったモノならここにもいくつか存在した。

 ふっと目を下に向ければ、青々と茂る草花以外に鉄の破片、鉄の塊が陽の光を受けて鈍く光っている。この森に人工的にもたらされた酷く歪な遺物だ。

 そして、男の衣服も血に汚れた襤褸ボロの軍服。

 ここは多くの人間が集い争い死んでいく戦地なのだろうか。……否である。

 ならばその付近なのか。……否である。

 ならばここはどこなのか。……敗戦国であった。

 転がった鉄屑は、溜め込まれたこの国の力を削るため、敵機が本土を襲撃した痕であり、男が身に纏った軍服は、財政難を強いられた祖国が、帰還時の服を用意できなかったためであった。

 そしてこの男がここを彷徨っているのは――。

 その両手にすっぽりと収まった、ほとんどが焼け焦げた一家族の集合写真。それがすべてを物語っていた。

 そう、彼の家族はもうこの世にはいない。焼け野原となった街中を探し、最後の頼みと張り裂けそうになる胸を押さえて駆け込んだ役所の安置場所には、並んで炭となった家族の遺体だった。

 彼の名は黒瀬悠馬。クマのようなどっしりとした体つきをしながらも、病弱な身体を持ち、二度目の大戦を経験した祖国のために駆り出された、なけなしの兵士の一人であった。

 彼が徴兵され、船に乗ったときには、彼のように体が弱い者を除くとほとんどが文系の大学生だった。おかしいとその事実に歯噛みし、祖国のため家族のためと前を向き、上官に隠れて浮かべる悲痛な顔は、今でも脳裏に浮かぶ。

 そんな彼が生きてこの地に帰ってくることができたのは、奇跡といっても過言ではない。何人もの仲間がすぐ隣で凶弾に撃たれ、爆発に巻き込まれ死んでいったのだ。

 嫌だ、と最期に生に縋り付きながらも叶わなかったあの絶望した顔。顔。顔。

 それでも最後の最後まで自死を選ばず彼が生き残ることができたのは、家族ともう一度会いたかったがためだ。

 しかし、そんな頼みの綱も簡単に引き裂かれてしまっていた。

 もう乾いて涙も出ない。


 ――――――――。


 突然、美しい旋律が、心に響いた。

 この旋律は、まだ黒瀬が徴兵されることもなく家にいたころ、我が子をあやす妻の口から聞いていた子守唄だ。

 ありふれた、優しい旋律。死に場所を求めてあてどもなく歩を進めていた彼は、ふと胸に温かいものが染み出したのを感じ、そちらに足を向けた。


「ねんねん ころりよ

 おころりよ

 ぼうやは 良い子だ

 ねんねしな」


 とうとうと流れる温かい旋律。

 引き寄せられるように前へゆく。

 森の中に小さくできた高い岩場には、一人の女が産着を抱きかかえてその薄い唇を動かし、子守唄を歌っていた。

 黒瀬が女の見える場所に立っても、それは止まることなく森に響いていた。おそらく、招かれざる客人の来訪に気づいていないのだろう。

 黒瀬は女の邪魔をしては悪いと、子守唄を鎮魂歌とし、その場を去ろうとした。


 ――――パキリ。


 枝葉を踏み、折れる音と息を継ぐ間が運悪く重なった。


「――――、え」


 黒い瞳がこちらを向く。どうやら、気づかれてしまったようだ。

 黒瀬はこちらを見た黒髪の麗人を、怯えさせないように会釈をし、今まで人と話すのを避け続けていた重い唇を開いた。


「あの、黒瀬と申します。そこにあった街で生活をしていた者です、けして怪しい者では……」

「黒瀬、さん。そうですか、あの街に……」


 静かな女の声に黒瀬は、はいとだけ答えた。少し思案するかのように女の首が傾げられる。布に覆われ見えなかった白い首筋が露になり、黒瀬は既婚者であるにもかかわらず、ましてやその腕に赤子が抱かれているにも関わらず、蠱惑的な魅力を持つ女性だと、思わざるを得なかった。

 彼女には、そんな不思議な魅力があったのだ。

 今にも散ってしまいそうな花弁のような危うさと、その花がとても美しいものであったと感じさせられる、各所に散りばめられたような魅力。



「すみませんが、存じてはおりませんでした……。人のことをなかなか覚えられないもので」

「いえいえ、あの街はとても広かったものですから、一人一人覚えている人がいらっしゃれば、それこそ驚きですよ」


 女はそうですか、と言ってまた黙ってしまう。その視線は黒瀬ではなく虚空に。

 黒瀬は、このままここに居ても邪魔になるだけだと考え、別れの挨拶を告げる。


「すみません、お邪魔したようで」

「――大森、静子です」

「へ?」


 頭を下げ、また前を見た黒瀬の視線と大森の視線がかち合った。

「大森、静子です」と大森は再び名乗った。驚いた黒瀬は、はいとだけ呟く。


「そして、この子が光子です」


 続けて紹介された腕の中の赤子。

 しかし、その瞬間黒瀬は言葉を失った。

 ーーーー鉄の塊であった。

 それも、戦場で過ごした日々を鮮明に覚えている黒瀬にはそれがなにかはっきりと分かった。


「……ふ……!」


 思わず、そのモノの名を口に出そうとして思いとどまる。

 それは不発弾であったのだ。

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